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柔道部のとある一日

作者: 遠藤賢治

「やめ! 寝技稽古はあと一本!」

 ブザーの音と柔道部主将の声を合図に、平田美千留は八田深雪を固め技から解放する。

「へへっ、今日もうちの勝ちやったな」

「……もう。あの三角締め、極まったと思ったのに」

「確かにちょっと危なかったけどよ。まあ、うちの方が反応早かったってことだわ」

 竹刀の打撃が生み出す乾いた音が矢継ぎ早に聞こえるなかで、二人は二三の軽口を交わした後、座礼をしてから次の練習相手のもとへと向かう。

 美千留は、正座して待っていた一年生の男子部員と向かい合い、互いに座礼をする。

「おまたせ。んじゃ、やろうか?」

「は、はい。お願いします」

「固いなあ。後輩なんやで、遠慮しんで先輩に向かって来やあ」

 美千留は畳に背を預けて仰向けの状態になり、後輩の男子に攻めてくるように促す。

 後輩の少年は、組みついて美千留の防御を必死で崩そうと試みる。

「お、結構上手くなってきとるやん。ほら、もっと頑張りゃあ」

 だが、必死に攻める相手を、美千留はいとも簡単に制御して近寄らせない。

「んじゃ、そろそろ行かせてもらうでね」

 器用に足で相手をコントロールしていた美千留は、思い切りよく、膝立ちした相手の股下へと体を潜らせていく。

 襟も袖も掴まれている相手は、美千留の素早く、大きい動作に引きずられてバランスを崩してしまう。

 その勢いで、相手は畳に転がされて、無理矢理に仰向けにされた。ちょうど、先程までの体勢と逆転した格好になる。つまり、仰向けになった後輩男子に、美千留が上から抑えにかかろうという構図だ。

 反応する暇すら、相手に与えずに上体を預けていく。

 さらに間髪入れず、相手の片腕と頭をまとめて両腕で抱え込んでしまう。

 美千留が得意としている固め技の一つ、縦四方固めで相手を抑え込む。先程の寝技練習で深雪を捕らえていたのと同じ固め技だ。

 後輩の少年は、あっという間に体を拘束されてしまう。

「はい、捕まえた。ほら、頑張って逃げやあよ」

 縦四方固めをガッチリときめた美千留は、後輩に脱出を促す。

 相手は身をよじるが、美千留の体は、相手の体に余すところなくピッタリとくっついてけっして離れない。

「こらこら、でたらめに暴れても逃げれんって。前に教えたやろ? 縦四方固めの時は肩でブリッジして相手の臍を目指して体をずらすって。ほら、やってみやあ」

「そ、そう言われても……」

「何や? 早よしんと逃げれんやろ。早く!」

 美千留に促された少年は、どこかやりづらそうに躊躇しながらブリッジをして体の位置をずらしていく。

 が、後輩少年の顔が美千留の胸元までズレてきたときだった。

 すぐさま、美千留も体を後ろにずらし、腕と頭を抱きこんでしまう。

「ちょっと遅えわ。もうちょい速くせなかんかったね。まっぺんチャレンジしやあ」

 少年は戸惑い混じりの心理状態のまま、必死でブリッジをして体をずらそうとする。

 しかし、美千留は先程にも増して全身を隙間なくぴったりと相手にくっつけて身動きを封じている。

 ついには、相手の下半身をも両脚を相手の脚に絡めて無力化してしまう。

「ほら、頑張れって。最後まで抵抗するのをあきらめるなよ。まずは絡みついとる両脚を早よ外さな」

 後輩を容赦なく抑え込むも、それに懸命にあらがうことを求めていく。

 そして、二十秒が経過するのをタイマーで確認すると、技を解いて一旦離れていく。

「ほら、失敗しても、うまくいかんでも嫌になったらかんでね! 強くなるための基本がそれや! 気にせずにジャンジャンと来やあ!」

 今度は腹ばいになり、相手の男子に発破をかける。

 その後、男子は美千留を攻めるも、すぐに逆転されて抑え込まれる、という展開が終了のブザーが鳴るまで繰り返されることになった。

「お疲れ。もう、そんな落ち込んだ顔すんなて。ちゃんと上達しとるんだからよ。自信持ちや」

 悔しそうにしている後輩男子の顔を見て、美千留は労いの言葉をかけて、彼の両肩に手を置いて軽く叩く。

 励まされた後輩の男子はというと、美千留の距離感の無さにどこか気恥ずかしそうに顔を赤くしてお辞儀をするのだった。


 放課後の湘北高校柔剣道場では、今日も剣道部と柔道部の練習が行われている。

 武道場のスペースを半分ずつ使っている関係で、休憩中を除けば室内には竹刀同士がぶつかり合ったり、防具を打ったりする時に生まれる独特の乾いた音がひっきりなしに響いてくる。

 そこに、柔道部の投げられた時の畳に叩きつけられる音が加わってきたりするのだから、柔剣道場は聞きようによってはかなり騒々しい場所のようにも思われる。

 現に、今も剣道部のスペースからは竹刀による打ち合いの音がひっきりなしに発せらせており、かたや柔道部のスペースからも投げつけられた際に起きる畳に体が落ちる音と、受け身を取って畳を強くたたく音がバラバラのタイミングで聞こえてくる。

 柔道部員たちは二人組になり、相手役に向かって一つひとつフォームを確認しながら投げる直前までの動作を何度も繰り返す。

 そして、都合十回目の時に今度は最後まで、つまり勢いをつけて投げきる。

 投げ技をきめられた相手の体は宙に浮き、大きな音とともに畳に叩きつけられる。

 投げられた側は、すぐに起き上がって道着の乱れを直すと再び組み合い、今度は投げる側として同様の練習に入っていく。

 その練習を、相手を変えながら何セットもこなしていく。

「お互いに礼! 打ち込み練習終り! 休憩と水分補給を五分まで!」

 主将の号令を受けて、部員たちは武道場の壁際に設置されている荷物を置くスペースにばらけていく。

「次のメニューは例の勉強タイムか……。なあ八田ちゃん、今日は何やる?」

 美千留は首元の汗をタオルで拭いつつ深雪に話を振る。

 この学校の柔道部では、準備運動、受け身練習、寝技の稽古、そこから先程までおこなっていた、投げ技のフォームを確認する打ち込み練習という稽古へ、と練習メニューをこなした後に、部員同士がお互いに課題を発見しあい、研究しあう時間が設定されている。

 顧問の教師が言うには、部員自身が仲間や自分の課題と向き合って、主体的に考える力をつけてほしい、とのことだ。

 だが、肝心のその教師はというと、柔剣道場には来ていない。隣の剣道部では顧問の教師がちゃんと現場にいて生徒を見ているのとは対照的だ。

「うーん……。なら、今日は寝技についてもっと勉強しない?」

 美千留に話を振られた女子柔道部主将を務める深雪が、他の部員に向けて提案する。

「そうやなあ、前は立ち技やったからな。それに、先生も今日は当分来んだろうしよ。八田ちゃんとうちで寝技のコツみたいなのを見せるほうが事故の心配も少ないから都合ええかもな。それに、うちら二人はともかく、この前の団体戦でも体重別でも、やっぱ寝技で負けてまうことがあったでしょ? 特に今池ちゃんはさ」

「おい、なぜボクの名前を出す?」

 名指しをされた今池果歩は、心外だと言わんばかりに渋い顔で美千留を睨む。

「まあまあ、私も果歩ちゃんも、この前の個人戦で抑え込まれて負けちゃったのは本当なんだから」

 ムッとしている果歩を、二年生で女子の副主将をつとめる本山桜子が宥める。

 果歩とは同じ中学出身で気心が知れているぶん、自信家でなおかつ気の強い彼女の抑え役とも言える存在だ。

「今池ちゃんは寝技が苦手なんだで、そこは改善しんとかんのやない?」

「うぐっ、それを言われると」

「あのー、深雪先輩、美千留先輩、先生ってどうしてまだ来てないんですか? いくら何でも遅いような気がするんですけど」

 一年生部員の川名育美が疑問を投げかける。

「まあ、それは先生に原因があるというか……。あまり詳しくは言えないんだけど」

 深雪のどこか歯切れの悪い受け答えを聞いて、育美は怪訝に思う。

「八田ちゃん、話してもええと思うよ。また書類仕事とかを後回しにして他の先生から苦情を言われとるんやない? 昼放課に三年生の先生から、もし見つけたら職員室にすぐに来てくれ、ってことづけを頼まれたからよ。そんでよ、つかまえてそれを話したら、でら焦った顔しとったからな。特に珍しいことじゃにゃあよ」

「ま、あの先生にはちょいちょいあることだね。多分、今頃職員室に缶詰め状態で仕事させられてると思うよ。でも、職員室にいるのはかなりのレアケースだよね。柔道部員ならいざ知らず、授業以外でどこにいるのか分からない生徒も多いんじゃないかな?」

「それに職員室の机なんか、グッチャグチャやもんな。あれでどこに何があるか本当に分かるんか?」

「でも、先生がピンポイントで書類とか教科書とか引っ張り出してたの、前に見たことあるよ。すごかったな、私だったら多分無理かも……」

「本山ちゃん、そうなん? でっら羨ましいわ。うちもそのシーン見たかった!」

「すごいスキルだね。ボクも生で見てみたいな。……でも、整理整頓するって発想はないのか?」

 果歩の放った疑問に、美千留は「めんどくさがりな人やで難しいやろ?」と返す。

「ははは……、ま、まあ、そういうことだから。……あんまり気にしないでね?」

 顧問の教師を巡る談議が盛り上がるなか、女子部員のまとめ役である深雪がごまかし笑いを浮かべて場を収めようとする。

「本当に大丈夫なんですか? この部は」

 同じく一年生部員の杁中愛依が不服そうな顔をして訴えてくる。

「何? 今、剣道部の音でよう聞こえんかった。まっぺん言って」

 美千留は耳に手を当てるという露骨なジェスチャーで聞き返す。

「本当に大・丈・夫・な・ん・で・す・か? この部は」

 そのときの美千留のジェスチャーが癇に障ったのか、愛依は露骨に音を区切りながら言い直す。

「ああ、そのことか? そりゃ大丈夫だからこうやって稽古もできるし、試合にも出れるんやろ?」

 受け取り方によってはかなり失礼とも思われる愛依の態度であるが、美千留は特に気にした様子もなく下級生の疑問にコメントをする。

「いや、そういう問題じゃなくて……。私、先生って、もっと真面目できちんとしてるものだと思うんですけど。ねえ、育美?」

 同意を求められた育美はというと、上級生を前に頷くことができず、かといって愛依の言うことも否定することもできず、困ったような表情を浮かべる。

「いやあ、それはどうかな? ねえ、平田さん」

「そうやな。第一そういう目で先生達を見るのは気の毒やて。特にひどい問題になっとらんのだったら、気にしんでおいたほうがええと思うよ」

「むしろ駄目なところを見れたりするほうがいいよね! そっちのほうが勉強になる」

「それやそれ! あれはにゃあわ、とか、その発想はなかったわ! とかいろいろと発見があるしよ」

 美千留もノリノリで相槌を打つ。

「もう、先輩達は……」

 そこに愛依が非難がましい視線を送る。

 それをはめざとく察知した果歩は、ごく自然な動作で愛依の頭に手を置いてウインクをする。

 果歩の端正な顔が至近距離まで迫ってきて、愛依は不覚にも顔を赤らめてしまう。

「大丈夫さ。好き放題に言ってはいるけど、うちの柔道部の先生はとても頼りになるし、信頼できる人だから。そういう困った部分があっても、ね。これは本当の話。ま、そのうちに分かるだろうさ」

 果歩はそう言ってから「ほら、練習だ練習!」と愛依の頭をクシャクシャと撫でまわす。

 はぐらかされた気がしたのか、愛依はどこか釈然としない様子だった。

「おお、そうだそうだ。二人には言っとかんとかんわ。うちの部の先生はわりとテキトーな人やけど、用事とかで部活を休むんやったらちゃんと直接連絡せなかんよ。他の人に連絡をお願いしたり、無断で休んだりするとド叱られるでね。怒った時はでら怖えから気を付けやあよ」

「去年は平田さんがそうなったからね」

 果歩の証言に、美千留は苦笑いを浮かべてバツが悪そうに頬を掻く。

「でも、あれは確か入院した橋本さんのお見舞いに行くことにしたからだったんだろ? ほら、陸上部の練習中に大怪我をしたとかで」

「そうやね。アキレス腱断裂だって伊月から聞いてさ。幼馴染の伊月ならともかく、付き合いの短いうちがお見舞いに行ってええんかは正直悩んだけどよ。結局、八田ちゃんに伝言頼んで大船の病院まで行ってきたんよ。あん時はすまんかったな、八田ちゃん」

「気にしないで。私は怒られなかったし。それにね、実はその時に先生も友達想いの子だな、って平田さんのことを褒めてたんだよ」

「え! そうだったん? なら、なんであの時は先生あんなに怒ったんやて? ほんと、謎な人だわ!」

 事の真相を思いがけない形で知ることになった美千留は、困惑を隠せずにいた。

「先生のことだから、きっと何か考えがあったんじゃない? それに、奈緒もあの時は本当に嬉しかったと思うよ。何せ、平田さんがお見舞いに来てくれたんだからさ」

「でもなあ、あん時の橋本っちゃんは何か困ってた感じやったんだけど。つか、それなら何で橋本っちゃんはうちに当たりがキツいんよ?」

 深雪は「さあ、どうしてだろうね?」とはぐらかす。

 渋い顔で首を擦る美千留だったが、その視界に不安そうにしている後輩二人の顔が入ってくる。

「まあ、心配はいらんて。滅多なことじゃ怒らん人だから。ほら、本当にそろそろ練習をしよまい。な? 八田ちゃん」

 美千留の言葉に、深雪も「うん、そうだね」と頷く。

「それでね、平田さん。寝技練習のことなんだけど、実際にやってみせないと分からないことがあるだろうし、技を受けてくれる相手が要るけど、それはどうする?」

「そやなあ。おーい、武山くんよお、ちょっとうちらの練習に付き合ってくれん?」

 男子の輪にずかずかと分け入ってくる美千留に名指しされた少年は「お、俺が?」と戸惑いの表情を見せる。

「そりゃそうやて。できれば女子達に見てもらわんとかんのやから。こういうときに後輩くんを使うのは気の毒やろ。そんなやらしい真似はできんわ。だからよ、うちらのためやと思って、ちょっと一肌脱いでくれん? あ、武山くんなのは、たまたま目についたからやよ」

「私、しっかりと見て勉強しますのでよろしくお願いします、武山先輩!」

 美千留の後をついてきた育美が、熱心な目で男子に請う。

「ほらあ、可愛い後輩もこう言っとるよ?」

 後輩の頼みも加わり、状況的に断れる雰囲気ではない。

「まあ、そこまで頼まれたら……」

 協力を頼まれた男子は渋々了解するしかなかった。

「決まりやね。ほいじゃ中川主将、ちょっと武山くん借りてってええ?」

 美千留の問いに、主将の男子は「あまり無茶な扱いはしないでくれよ」とクギを刺す。

 それを言われた美千留も「知っとるって」と軽い返答をして、練習相手になった男子を連れて深雪たちのもとへと帰ってくる。

「そういうことで、まずは八田ちゃんからやね」

「う、うん。ごめんね、武山君。付き合わせちゃってさ」

 深雪が申し訳なさそうにして断りを入れると、少年は照れくさそうに「き、気にしないでくれ」と返す。

 向き合って座礼を済ませると、深雪は仰向けの姿勢で畳に体を預け、相手役になった少年に視線を送る。

「……ねえ、来て」

 しかし、声をかけられた少年はというと「……え?」と戸惑いの声を漏らす。

 そして、気恥ずかしいのか、顔をほのかに赤らめて深雪をちらりと見ては視線をそらすを繰り返し、その場から動けずにいる。

「おい、何をボーっとしている! 深雪が待ってるだろ、早くしないか!」

「そうや! 時間がもったいないんだで、とっとと行きんしゃい!」

 躊躇しているところへ、外野の二人から無遠慮な催促が飛んでくる。

 それをぶつけられた少年は「な、何なんだよ、お前らは」と気圧されつつ、慌てて深雪のそばまで寄っていく。

「え、えーと、俺はどうすれば?」

「武山君の好きなやり方で良いよ。遠慮せずに押し倒しにきて」

「ブ、ゲホッ、ゲホッ!」

「ど、どうしたの愛依?」

「な、何でもないよ育美」

 深雪の妙な言い回しを傍で聞いていた愛依は思わず噎せ返ってしまう。

 相手役の男子も気まずそうにしており、遠慮がちに組みついていく。

「寝技の攻防って、守る方が仰向けの状態になることって案外に多いの。だから、そういう場合は、鼠径部、要は股の付け根あたりに足裏をしっかりと押し付けて相手に近寄らせないことが大事かな。で、もう片方は相手の膝をいつでも蹴り押せるようにしておくことが重要ね」

 深雪は相手役の男子を両足で器用に制していく。

「で、仰向けのときは守りつつ攻めに切り替えることもできるの。例えば……」

 と言うや否や、掴む襟の位置を変えて相手を一気に引き寄せる。

 そして、すぐさまもう片方の腕を相手の背中側に回して、首に巻き付けてもう片方の腕の道着の袖を強く握りこむ。

 少年が気づいたときにはもう既に遅く、彼の首は深雪の両腕によって挟みこまれてしまったのだ。

 咄嗟に逃げようとする少年を、深雪は絶対に逃がすまいとそのまま胸元にグイっと引き寄せる。

 そうすることで深雪の両腕にサンドイッチされた少年の首はたちまちのうちに強く絞まっていく。たまらず、少年は深雪の肩を叩き降参の意志を伝えることになった。

「今の技は袖車絞めっていう技ね。私は上から攻めてくる相手を迎え撃つときに使うことが多いかな」

 相手を解放してから、周囲を取り囲む部員達に説明を始める。

「深雪、もう一回実演してくれないか? ちょっと分からなかったところがあるんだ」

「あ、私もです深雪先輩。結構動作が速かったのか、見逃したところが……」

「え、も、もう一度か?」

 果歩と育美のリクエストを聞き、相手役になった男子は当惑する。

「でも、絞め技って苦しいし、武山君も辛いんじゃないかな?」

 二人の要望に、深雪も少し躊躇いの念を口にする。

 果歩は「ああなるほど。確かにそうだ」と頷いたあと、相手役の男子に視線を送る。

「もちろん無理強いはしないよ。けど、頑張ってくれるか?」

 果歩は、念を押すように相手役の少年に尋ねる。

「どうする? また絞められるのは大変やけど、まっぺんいってみるか?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ! まだ心の準備が……」

 男子は顔を真っ赤にしながら、あらぬことを口走ってしまう。

「ん? それはやってもええってことか?」

「ふ、そうでなくちゃね。見直したよ、武山君」

 畳みかけるように、果歩がウインクを送る。

「いや、それはそういうことじゃ……、いや、頑張れるっていえば頑張れるというか」

「はっきりしん言い方やなあ、どっちなんやて?」

「そうそう。もったいつけないでくれ」

 口ごもる少年に、美千留と果歩は詰め寄っていく。

「う、分かったよ。や、やってみるよ」

 断るに断れない状況に追い込まれてしまった少年は、顔を赤くしながら返事をすると深雪に向き直る。

「本当に無理しないでね。苦しかったら、すぐに参ったしてね」

 心配そうにしている深雪に、少年は「が、頑張るから」と答えるのだった。

 二人は再度、正面から組み合って最初の体勢に戻る。

「まずは、しっかりと襟を掴んでる方の手で相手との距離を調整することね。大体は鎖骨のあたりを拳で押しておけばいいと思うよ」

 深雪は襟を掴んでいる手の拳を相手の鎖骨に押し当ててグイと押す。

「当然、相手は対抗して押してくるんだから、そこがねらい目ね。押してきてるな、ってのを感じたら、いったんグイっと強く押し返していく。で、襟を掴んでる手を素早く反対側の襟に持ち替えて内側から握るの。握る位置は首の真横か、もっと奥の方がいいかな。後は強く自分の体に引き込んでいくの」

 素早く襟の位置を持ち替えて、反対側の襟の奥を強く握り、自分の側に引き込んでいく。

「後は引き手、袖を掴んでる手を離して相手の頭を抱きかかえるようにして自分のもう片方の袖を掴む。こうすれば、相手の首が両腕でサンドイッチされて絞まっていくの。あとは……」

 そのまま、抱えた相手の頭を胸元にきつく引き寄せていく。

「逃げられないように、こうやって相手を自分の胸に引き込む。これでほぼ決まりね」

「うう……」

 愛依は、解説を聞きながらも、技をかけている深雪とそれをかけられている相手を直視できないでいた。

 その絵面がどうにも気になってしまうのだ。

 技を施されている男子も、苦しいこともさることながら、それとは別の要因によって心に動揺をきたしているようにも見える。

「おい杁中、よそ見しとんなて。八田ちゃんがせっかく実演しとるんだし、武山くんも頑張って技を受けてるんやぞ。ちゃんと見とかなかんやろが?」

 美千留は愛依の隣に正座し、目線を合わせて注意する。

「む、無茶言わないでくださいよ!」

 愛依は顔を赤らめて美千留に抗議する。

「無茶なんて言っとらんわ。集中して見とれって言っとるだけだがや」

 そうこうしているうちに、深雪の絞めに頑張って耐えていた相手は、深雪の肩を叩いて降参する。

「大丈夫だった?」

 技を解いた深雪は、技を受けてくれた男子に近づき彼を介抱する。絞め技や関節技などを多用するが、相手を気遣うことを忘れないのも彼女が部員から信頼を得ている理由だったりする。

 だが、それも時と場合による。くんずほぐれつの状態にあった直後ということもあってか、間近に迫った深雪の顔に、男子はあからさまに取り乱してしまっていた。

 近くで深雪の技を見ていた愛依も、どこか居心地が悪そうにソワソワしている。

 少しの時間を置いた後に、二人は先程と同じ体勢で組み合った。

「次は、守りから体勢を入れ替える方法ね。守り方はさっきまでと同じでいいよ。後は相手の膝の位置関係を見極めて、後ろに退いてる膝を蹴り押すといいかな」

 深雪は、相手の鼠径部に押し当てていた右足を滑らすようにして下げると勢いよく膝を蹴り押す。

 そのはずみで、相手は深雪の体の上に覆いかぶさるようにして倒れこんでくる。

 すかさず、深雪はもう一方の足で、相手の残っていた足を内側から持ち上げてバランスを崩させる。そして、自分の体を切り返して相手の上半身を仰向けになるようにして引き倒していった。

 その流れを活かして上四方固めを施し、相手の頭を臍の周辺で圧迫し動きを封じた。

「相手が自分の体を支えられなくなれば、こうやって体位を入れ替えて逆に抑え込みに入ることもできるの。それでね、上四方固めの場合は、お臍の辺りでしっかりと抑えることが大事かな。だから……」

 深雪は上四方固めの体勢のまま、体の位置をずらして、相手の頭を胸で抑える。

「こうやって、みぞおちや胸とかで抑えてると簡単に逃げられちゃうから注意してね。武山君、逃げてみて?」

 深雪は、抑えこんでいる男子に脱出するよう促す。

「……全然逃げないぞ?」

「おーい、八田ちゃんが逃げてええって言っとるぞ? 聞こえとるのか?」

 美千留と果歩のツッコミに、男子は慌てて深雪の抑え込みから脱出する。

「ね? こうやって逃げられちゃうのは首から下が全然抑えられてないからなの」

 深雪の解説に、育美はコクコクと首を縦に振って相槌を打つ。

「なっ…………」

 だが、隣にいる愛依はというと、目の焦点が定まらないうえに口が大開きになってしまっていた。

「愛依、しっかり聞いてないとまた美千留先輩に注意されちゃうよ」

「育美、あんたねぇ……」

 愛依は育美の言動に思わず絶句してしまう。

 深雪は、相手役にもう一度仰向けになってもらい、再び覆いかぶさっていく。

「だから、こうやってお臍の付近で頭をしっかりと固定して、後はブリッジをさせないように自分の上半身で相手のみぞおち辺りに体重をかけていく。これは足を投げだした崩れ上四方固めでもやり方は変わらない。そこがコツかな。武山君、もう一回逃げてみて?」

 深雪に促された相手は、脱出を試みるが今度はむなしく両足をジタバタさせることぐらいしか出来ないでいる。

「ほお、やっぱ八田ちゃんやね。抑え込みも上手やな」

「平田さんもそう思うの? 練習じゃいつも深雪ちゃんを抑え込んでる側なのに」

「本山ちゃん、言っとくけど八田ちゃん相手するのは結構緊張するんだって。うちがピンチになる場面もあるんだでね」

「立ってよし、寝てよしの平田さんがそれを言っても、何か複雑だね」

「何言っとんの。今池ちゃんだって、キレのある足技を持っとるやないの」

「それはお世辞じゃないだろうね?」

「うちがおべんちゃらとか、そういうこと言うと思っとんの?」

「いや、思えないね。良くも悪くもお世辞が言えないのが平田さんだからね」

 美千留の返しに、果歩はどこかふくみを持ったコメントをする。

 そこから二十秒間。しっかりと抑え込んでから深雪は技を解いて相手を解放する。

 深雪は座礼を終えてから、女子部員達に向き直る。

「深雪、今の固め技、やってみてもいいかい? 絞め技はさすがに武山君への負担が大きすぎるだろうからね」

「うん、そのために見せたんだし。果歩もやってみなよ」

「なら、お言葉に甘えて。ふふっ、でもこのボクが相手ともなれば、年頃男子の武山君にはちょっと刺激が強いんじゃないかな?」

「……いいから、早くやろうぜ」

「何だ、そのテキトーな態度は! いいだろう、たっぷりと付き合ってもらうからな。覚悟しろ!」

 素っ気ない対応に不満を覚えた果歩は、鼻息を荒くする。

 互いに座礼を済ませた後、深雪がやったように、相手との体を入れ替えることには成功する。

 だが、上四方固めに移行した後、深雪が教えていた通りにやったつもりでも、上手く相手を抑えることができなかった。

「果歩、覆いかぶさるだけじゃ抑えたことにならないよ。もう少し腰を落として相手の頭を捕まえないと」

「そうそう。今池ちゃん、上半身で相手を抑えるときにケツが上がっとるんやて。ちゃんと臍できっちりと捕らえな。そうやないとがら空きで全然意味がにゃあわ」

「そうだったのか? ボクは腰を浮かせていたつもりはないんだが……。というか平田さん、せめてお尻と言ったらどうなんだい?」

「果歩、もう少し帯を掴んでる手を自分の中心線に引き寄せるといいよ。抑え込みに入ったところからやってみようよ」

「うん、そうしてみるよ。じゃ、武山君、よろしく頼むよ」

 その後、何度か試みるも結局は二十秒間ガッチリと抑えることができずに終ってしまった。

「ふむ、実際にやってみるとうまくいかないものだな。深雪は大したものだよ」

「ふふ、ありがと。何せ、私は中学の時から晴人先輩にみっちり教わってたから」

「そうだったね。あーあ、ボクも深雪に遠慮をしないで辻堂先輩からもっと教わっておけばよかったよ」

 話の流れに任せて自然と出てきた発言だったが、直後に果歩は「あ……」と言葉を詰まらせる。

「ご、ごめん深雪。無神経だった……」

 果歩は申し訳なさそうに顔を伏せて、深雪から顔をそらしてしまう。

「と、とにかく! 寝技はやっぱりボクの課題みたいだね。それは今回で分かったよ!」

 果歩は気まずい雰囲気を断ち切ろうと声を張った後、不安げな面持ちで深雪の様子をうかがう。

「もう、果歩ったら。私と平田さんがいるじゃない? それに、今からでも大丈夫だよ。何かをするのに早いも遅いも無いって私は思うなあ」

 果歩の目に映ったのは、深雪のいつものような柔和な笑みだった。

「……って、それ先生が言ってたことだろ? ボクらが聞いたのとほぼ同じじゃないか」

 果歩が思わずツッコミを入れると、深雪は「ふふ、バレた?」と行儀悪くならない程度に舌を出しておどける。

 それを見て、果歩はほんの少し安堵するのだった。

「そうやそうや、うちのことも忘れんといて」

 美千留も果歩の肩をやや乱暴にたたいて励ます。

「よっしゃ、てことで次はうちの番やな。八田ちゃんが守りながらの攻め方をやったわけだで、今度は立ち技から寝技につなげるコツみたいなのをやってみせるわ。これ、特に本山ちゃんは知っておいた方がええかもしれんよ。ほいじゃ武山くん、そういうわけだでよろしく」

「お、おい! 引っ張るなよ」

「心配はしんでええて、うちは固め技がメインだで絞めたり関節技を極めたりは滅多にしんからよ! それはもう知っとるでしょお? 武山くんも大分えれーだろうから、特別に優しくするでね」

「そ、そういう問題じゃない! 大体、平田の言う優しくってのはいまいち信じられないんだって!」

 美千留は男子の抗議にも構わずに引き起こすと、立礼をしてから組み合う。

「八田ちゃんは自分が転がされた時にどうするかってことをやっとったけど、まあ、自分が攻めとるときにも寝技のチャンスはいくらでもあるんだわ。例えば、本山ちゃんは大外刈りが決め技やよね?」

 美千留が振った話に「う、うん。よく使う技ね」と桜子は頷く。

「でさ、大外刈りでそのまま一本勝ちできればええんやけど、案外それがとれんことが多いでしょ? こんな感じで」

 美千留は力を加減して、相手役の少年の右足を刈る。そのせいでバランスをくずし、尻もちをつくようにして横向きに転がってしまう。

「そういうときは、釣り手も引き手も持っとるんだで、間髪いれずに袈裟固めにいきゃあええんよ! こうやってさ!」

 美千留はすぐさま相手にのしかかり、首を抱えると一気に胸元へ引き寄せる。

 流れるような一連の動きで、あっという間に袈裟固めが完成する。

「後は相手が逃げれんようにしっかりと抑えることやね! 特に袈裟固めはかけてる側の姿勢が崩れるとすぐに返されてまうで要注意やな」

 袈裟固めをかけられた相手役も、ジタバタと藻掻きながら何とか逃げようとするが、それはことごとくいなされてしまう。

 だが、何とか美千留の体を浮かせることができ、そのまま脱出を試みる。

「でもよ、そういうときはすかさず体勢を入れ替えて横四方固めに移ればええから!」

「な? ちょ、ちょっと待て! 頼むから横四方固めだけは……!」

 少年は、美千留の口から飛び出したセリフに焦りを露わにする。

 が、そんなことには構わず、美千留は器用に体をひねってうつぶせの姿勢で逃げようとした相手に覆いかぶさる。その時にはすでに相手の男子の肩はがっちりと抱え込まれてしまっていた。

「とりあえず、まずは相手の肩を抱え込んで初動をくじくのが大切やね。んで、すかさず帯を捕まえてまえば、ほぼほぼ抑え込みはできた感じになるわな。そんでよお……」

「待って! た、頼む。それだけは、本当にそれだけは! せめて皆に見られてるときぐらいはやめ……」

 技についての解説の展開に、嫌な予感がした少年は必死に訴える。

 だがそれは無視され、無防備な状態の股間に腕が差し込まれて、下穿きを握りこまれてしまう。

「あとはこうやって相手の股ぐら掴んだったら完璧や! 相手が足突っ込んで股掴んでる手を外そうとしてもそれをさせなきゃええんだでね! こうやって相手の空いてる方の腕を頭で邪魔してやれば空いてる方の足を掴めんからよ!」

 捕まっている男子は、傍からみても分かるぐらいに必死で藻掻いている。

 だが、それは美千留の抑え込みの前では無駄な抵抗にしかならなかった。

「うんうん、さすがは平田さんよね。手の使い方も、全身の使い方も相変わらず上手だなあ」

 美千留の横四方固めを見て、深雪は感心した様子だ。

「なるほど、横四方固めは手だけじゃなくて頭でも相手の体を制するわけだな。なかなか興味深いな」

「はい、膝って、こうやって頭を固定するために使うんですね」

 探求心を刺激されたのか、果歩と育美は様々な角度から熱心に観察をする。

 その間にも、男子は技を外そうと必死に藻掻いている。

 だが、美千留は帯をつかむ手と、股をつかむ手で巧みにさばいて抵抗をすべて無力化していく。彼女の体は、執拗さを感じるほどに相手にくっついて離れない。

「な? こういうふうに、一度くっついたら放したらかんでね。おい杁中、今度はよそ見をせんとちゃんと見ときゃあよ! それと本山ちゃんもボーっと見てたらいかんでしょ。集中しやあ!」

「む、無理ですってば!」

「……うぅ、何か集中して見れない」

 一方で、愛依と桜子はというと、何か「見てはいけないもの」を目撃してしまったかのように、頬を赤らめて気まずい表情を見せている。

 その後、二十秒間。

 少年は自分の股を女子に掴まれ、さらには取り囲む他の女子部員達にそれを見られ続けるというシチュエーションをたっぷりと味わったのだった。

「はい、おしまいっと。相手をつとめてくれてありがとうな」

 美千留は相手の男子を解放して、労をねぎらう。が、その彼はというと、主に精神的な面でぐったりとしてしまっている状態だ。

「つーことで本山ちゃん、今のやってみやあ」

 少年の腕を抱えて助け起こすと、桜子に誘いをかける。

 突然の振りに、桜子は体をビクッと強張らせる。

「う、うん。でも、袈裟固めまででいいかな?」

「ん? 遠慮しんで横四方固めへの切り返しもやってみればええやないの」

「でも、さすがにあの技はちょっと、ね? 武山君、ただでさえ私たちにたらい回しにされてる感じになってるから気が退けちゃうよ」

 桜子はもっともらしい理由を口にしているが、その頬はほんのりと紅潮している。

「わ、私は育美に相手してもらっていいですか? ちょうど似た体格ですし、私も大外刈りはよく使うので」

「ふーん。まあええわ。やろまいやろまい。まずはあんたらから見るでさ」

 美千留の声かけを合図に促され、育美と愛依は立ち上がりお互いに組み合う。

「杁中、ちゃんと加減して相手を刈りゃあよ。先生がまだ来とらんのやで、怪我させたら駄目やでね。……そうや! そんですぐに抑え込む! まあ、大体そんな感じやね。中々ええぞ。一通りやったら川名と交代だでな。その時はまた呼んでな」

 尻もちをついた育美を素早く袈裟固めで捕らえる愛依に、美千留は二三の助言を送ってから、桜子達のもとへと向かう。

「お待たせ。ということで本山ちゃん、いっちょやってみよか?」

 美千留のやった通りに、大外刈りで相手を転ばして、すかさず袈裟固めへと移行する。

「桜子、もっと相手の頭を胸に引きつけて! あまり体を反らさないようにね」

 転がした相手を袈裟固めで懸命に抑え込む桜子。

 だが、相手は徐々に抑え込みを抜け出し、桜子の腰を持ち上げて返そうとする。

「そこや、本山ちゃん!」

 美千留の掛けてきた声に、桜子は条件反射のように体勢を入れ替え、相手にのしかかっていく。

 ちょうど、先ほど美千留が見せてくれた横四方固めの形が出来上がった。

「ほい! そこですぐ手を使う!」

 美千留にけしかけられるままに、桜子は腕を伸ばして相手の股間に差し込み、下穿きをグイと握りしめる。

「よっし! あとは絶対に股掴んどる手を離さないことや!」

「え? 股……? きゃ、きゃあ! わ、私、何を?」

 我に返った桜子は、たちまちのうちに取り乱す。

「ここまできたんなら、やめたらかんよ! そのまま二十秒抑えてみゃあ! 絶対に逃がしたらかんでね!」

「桜子、お股に回した手は力ずくで抑えててもだめよ。相手が体を反らそうとしたら一気に下に向けて引き絞るの! そう、そういう感じでOKだから!」

 パニックに陥った桜子は、かえって美千留や深雪の言葉に引っ張られて言われるがままに相手を抑え込んでいく。

 元々、男子と引けを取らない長身で、なおかつ美千留に次ぐ体重を持つゆえに、寝技では攻める側にいれば優位に立つことができる。

 難点があるとすれば、それは桜子の思い切りが悪いところ。

 これは顧問の教師が彼女の乗り越えるべき課題と指摘していたところでもある。

 桜子は恥ずかしそうに顔を赤くしつつ、それでも懸命に相手を抑え続ける。

 そして、二十秒が経過する。

 助言を送りつつもしっかりと時間を計っていた深雪が畳を叩いて合図を送る。

 相手の男子がぐったりと脱力したのを密着した上半身で感じ取った桜子は、恥じらいながら技を解く。

「すごかったわ本山ちゃん。やっぱ筋がええよ」

「うん! やればできるじゃない。もっと自信もっていいよ、桜子」

「うう、何だかすごく罪悪感が……。武山君、ほんとにごめんね。体が勝手に」

 桜子は顔を真っ赤に染めて相手に詫びる。

 そんな彼女の肩を、果歩は「中々上手だったよ」とコメントをつけ、励ますようにポンポンと叩く。

 相手役の男子はといえば、袈裟固めまでという約束を成り行きで反故にされ、二度も横四方固めの餌食になったせいか、力なく引きつった笑いをするしかできなかった。

「あれ? 愛依、なんか顔赤くない?」

「育美、あんたってば本当に鈍感よね。……ねえ、うちの部の先輩達って、もしかして結構ヤバい人達なんじゃない?」

 育美とペアを組み、お互いに技を試していた愛依は呆然として上級生達を見ていた。

「え、そうなのかな? 美千留先輩や果歩先輩って、結構かっこいいじゃない」

 愛依を抑え込む育美は、彼女の遠回しの表現に含まれた意図を知ってか知らずか、暢気な返事をする。

「まあ、確かにね。特に今池先輩は……、って! そういうことじゃないから!」

 愛依は育美に突っ込みを入れた後、美千留たちの技の実演相手にされた男子を見つめ、心底気の毒に思うのだった。


「……八田、そろそろ乱取り稽古をやりたいから先生呼んでくるよ。それまでの間、よろしくな」

 男子の主将が、深雪たちのところへ用事を伝えに駆け寄ってくる。

「うん、後はまかせて中川君。先生も助かるんじゃない?」

「きっと大手を振って仕事を抜けられるから歓ぶんじゃないか?」

「でも、練習が終わったらまた書類仕事が待ってるんでしょ?」

「本山ちゃん、そこは言ってやんなって。息抜きにはなるんだからよ。んじゃ、よろしくね、中川主将」

 美千留も、職員室へと向かう主将に手を振る。

「武山君も、練習に付き合ってくれてありがとね」

 深雪は、練習台になってくれた男子に改めて礼を伝え、その労をねぎらう。

「こ、こっちこそ……。その、八田達の役に立てたなら嬉しいよ……」

 男子部員は照れくさそうに深雪から視線をずらして頬を掻く。

「いやあ、正直すまんかった。結局、武山くんを練習に付き合わせてまったね」

「確かに武山君の時間を食っちゃった感じになったからね。ふふっ、まあその埋め合わせってことで、練習終わった帰りにボク達でお茶でも御馳走しようかと思うんだけど。君が良かったら、どうかな?」

 果歩は少年の肩に手をおいて、やや気取った振る舞いで提案を持ちかける。

 それを聞いた少年は「まあ、おごってくれるなら……」と周囲を気にしつつ果歩の提案を受け容れる。

 その状態のまま、果歩は美千留の方へと視線を向ける。

「ま、もとはといえば、うちが張本人やでね。特にこの後の予定はあれせんよ」

 彼女が特に何かを言ったわけではないが、美千留はその目配せに対して返答を送る。

「そうこなくっちゃ。てことで、平田さんも今日はボク達と一緒に小田急で移動だね」

「まあ、ええけど。で? どこらへんが候補なん?」

「まあ、常識的に藤沢駅前のベローチェかドトールかな。高校生の身分で高いお店に行くわけにはいかないだろ? 武山君もそれでいいよね?」

 少年は、果歩の押しの強さにタジタジになりながら首を縦に振って頷くのだった。

「よし、決まりだね。武山君も帰りはボク達に付き合ってもらうよ」

「おい! 武山、ずるいぞ!」

 会話を横で聞いていた他の男子部員達から物言いが入る。

「妬かない、妬かない。別に二人っきりのデートに誘ってるわけじゃないんだからさ。別の日にでも皆で一緒にどこかに行こうじゃないか? 江の島なんてどうだい?」

 果歩は抗議する男子部員達をやんわりとたしなめる。

「お、ええなあ、それ。茅ヶ崎の砂浜で自主トレやっとるときに遠くに見えるけどやっぱり近くで見るのもええからな。近いうちに皆で行こまい。なあ? あんたらーもそれでええやろ?」

 果歩の提案と美千留の一声に、男子達も納得せざるを得なかった。

「さ、先生もそろそろ道場に来そうだから、すぐに乱取り稽古ができるようにしましょ。そうじゃないと、なってない! って叱られちゃうよ」

 深雪の掛け声に、部員たちは次の練習メニューの準備に取り掛かるのだった。

「なあ、八田ちゃん」

 美千留が不意打ちをかけるように深雪に話しかける。

「ん? どうしたの平田さん?」

「今更やけど、先輩達、本当に引退してまったね」

「そうね。瀬谷主将も、晴人先輩も、先輩たちはもうここに来ないんだよね」

 深雪と美千留は、どこか懐かしむように道場にかけられている段位表を見る。そこには今年の春に引退した三年生の名が記された木札が今も掛けられていた。

「あっという間だったなあ」

「ほんと。うちらも、あっという間に三年生になってまうんやろね?」

 美千留の口から零れた言葉に、深雪も「うん」と頷く。

「二人とも何を感傷に浸っているんだ? まさか先輩達がいなくなったのが寂しいのかい?」

 様子を察した果歩が、二人を強引に現実へと引き戻す。

「しっかりしてくれよ。今年は念願の女子の後輩達も入ってきたんだ。これからはボク達二年生が部を支えていかないと。なあ、桜子?」

「う、うん。そうだよね」

 話を振られた桜子は、少しはにかんだ様子で頷く。

「あんがとな、今池ちゃん」

「ふっ、ボクに諭されてるようじゃ先が思いやられるよ。ボーっとしていたら、秋の新人戦では団体戦メンバーを後輩二人に奪われるぞ? もちろん、ボクはレギュラーをとるつもりだけどね」

 わざと挑発的な言動を二人にぶつける果歩。

 それを受け止めた美千留は、不敵な笑みを彼女に向けて見せる。

「言うやないの。今日の乱取り稽古、今池ちゃんに圧勝したるわ」

「どうかな? 足払いに関してはボクに優位があるのを平田さんも知ってるだろ?」

「おう、でもその自慢の足払いがでる前にぶん投げたるでええわ」

 意地の張り合いを続ける美千留と果歩の肩に、それぞれ深雪と桜子が手を置く。

「私達はもう二年生なんだよ、平田さん」

「そうだよ。果歩ちゃんも、後輩たちの前なんだから、ね?」

 たしなめられた二人は、決まりが悪そうに頭を掻く。

 そして、四人は揃って後輩二人に視線を送る。

 今年、柔道部に女子部員として入部してくれた二人に。

「三年生の先輩たちは引退しちゃったけど、一緒に頑張っていこうね」

 後輩に向けて優し気な笑顔を送る深雪。

「心配はいらないさ。不安があっても、思うように成果がでなくても腐らずに続けていけばいいんだよ。自分で決めて努力し続けてきたことは裏切らないから」

 後輩に向けてウインクをする果歩。だが直後に「といっても、これはボクの持論じゃなくて先生の受け売りなんだけどね」と付け加えて、決まりが悪そうに頬を掻く。

「でも、高校から柔道を始めた私でもちゃんと強くなれたんだから、果歩ちゃんがさっき言ってくれたこと、信じても大丈夫だよ」

 さりげなく果歩の発言を補足しつつ、自身の成長の証といえるもの、つまり腰に締めている黒帯を後輩に示す桜子。

「これからもよろしくな。……その、なんだ。二人にとって頼りになる先輩だったり、ええ先輩かどうかは分からんけどよ。でも、なんとかなるやろ」

 気の利いたことを言うのが苦手なのか、マイペースなのか、とりあえず何かを言ってみたという雰囲気の美千留。そして、ごまかしついでに首を擦り始める。

 そんな四人を、今年入部した後輩の二人は特に言葉を発することなく見ていた。

 やがて、育美と愛依は自然な流れで首を横に向け、互いに視線を合わしていく。

 そして、笑みを浮かべるのだった。

「さ、次は乱取り稽古だから怪我しないように集中してね。特に、受け身はしっかりとること」

 注意を促す深雪に、育美と愛依は「はい!」と応えるのだった。

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