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藍華と蒅

「ちょっとすくも! アンタまたなんで作務衣なんかで来るのよ! どこも寄れないじゃない!」


 裕の不機嫌な声に、蒅と呼ばれた男性が立ち上がる。


 すらりとした上背のある体躯が澄んだ空の下で際立つ。彼は形の良い眉を面倒くさそうに顰め、やや冷たくも見える鋭い瞳で裕を睨み据えた。


「うるせえぞ、裕……そっちの人がお前の先輩か?」


 低い、しかしよく通る声にはどこか色気がある。


 艶のある黒髪に三白眼が印象的な男は、空の色すら霞む藍色の作務衣を着ていた。


 顔立ちは若いのに、たっぷりとした生地越しですらわかるしなやかな筋肉の付いた身体と、彼の持つ職人らしい重厚な威圧感に藍華は少しばかり圧倒された。


(……違う時代の人みたい)


 恐らく歳の頃は藍華と同じか少し下、といったところだろう。


 だが纏う空気は普段目にする男性達とは全く異なっている。まるで明治や大正の頃に生きた熟練の職人が目の前にいるかのような心地だ。


 顔の傷も相まって近寄りがたさすら感じた。


 蒅が藍華を見る。


 どこか人を見透かすような彼の目になぜか胸がどきりした。藍華が気圧されているのに気付いたのか、裕は慌てて振り向くとふくれっ面を笑顔に変えた。


「あ、先輩ごめんなさい。こいつが藍染職人の蔵色蒅くらしきすくもです。目付きも態度も性格も悪いんですけど、一応お坊ちゃんなんですよ」


「お坊ちゃんとか言うな」


 砕けた紹介に険しい顔をした蒅が裕を非難がましく睨む。そんな二人のテンポ良いやり取りが面白くて、藍華はつい笑ってしまった。


 見た目はやや強面だが、話せば年相応のようだとほっとする。


「ふふ。初めまして。裕ちゃんと同じ部署に所属している泉藍華いずみらんかです」


「……どうも」


 スーツケース片手に軽く頭を下げると、蒅もそれに倣ってくれる。裕への態度は昔なじみのそれだが、藍華のことはちゃんと客として扱ってくれるようだ。


 蒅は顔を上げるとじっと藍華を見てから、尖った顎に片手を添えふむと一つ頷いた。


「なあ。らんか、ってもしかして、藍の字が入ってるか?」


「はい、そうです」


 唐突な質問に少し驚いたものの、流石だなと思いつつ藍華は笑顔で肯定した。蘭の花と同じ字かと聞かれる事は多いが、初っ端から当てられたのは初めてだ。


「じゃあ藍に『か』の字はくさかんむりに化ける?」


「いえ、難しい方の、万華鏡とかの華、です」


 訂正すると蒅が三白眼の目をぱっと丸く開いた。そうするとつんとした鋭さが取れて、なんだか少し可愛らしく見える。


「へえ……良い名前つけてもらってんな。藍の華っていうのはこっちじゃ―――」


「状態の良い染料に建つ、泡のことですよね?」


 藍華がすかさず答えた。話を遮るのは悪いと思ったが、つい声に出てしまったのだ。けれど蒅は嫌な顔ひとつせず、それどころか面白そうな顔ですうと瞳を細め口角を上げる。


「よく知ってるな。わざわざ調べて来たのか」


「あ、はい。少しは知っておいた方がいいかと思って。でも私も初めて知って驚いたんです。まさか自分の名前と同じだなんて。でも、蔵色さんも……お名前、そうですよね?」


 実は裕に旅行の話を持ち掛けられてからというもの、楽しみ過ぎて自分で色々調べていたのだ。


 今はスマホひとつあればどこでも何でも調べられる。ネット上の知識にはなるが、徳島の観光情報サイトにある『阿波藍』の説明から県内の藍染工房のホームページまで、仕事の休憩時間に一通り目を通していた。


 そこで知ったのが『藍の華』と『蒅』についてだ。


 そもそも藍とはタデ科の植物であるタデアイがもとで、葉っぱ自体は綺麗な緑色をしている。


 それを夏に刈り取り、葉を細かく刻んだり乾燥させる『藍こなし』『寝せ込み』、『切り返し』という多くの工程を経て発酵させるのだ。


 そうしてできた染料の名前が『すくも』という。


 また蒅を大きな藍がめというかめの中で水に溶かし、再び発酵させる『藍建て』により生じる泡の名が『藍の華』と呼ばれている。状態の良い染料の証拠だそうだ。


 藍華の名にある字と全く同じと知った時は驚くと同時に嬉しくなった。


「ああ。俺の名前の蒅は藍の染料からだよ。……そうか。ちゃんと勉強してきたんだな」


 藍華の問いに蒅が感心したように瞳を細めて微笑する。それにより彼の纏う空気が一気に柔らかさを帯びた。言葉尻も固さはなく、なるほどこういった顔も出来るのだなと、藍華は一瞬彼に見惚れてしまう。


 澄んだ空の下、作務衣姿の凛々しい人が笑む様は思わず目を奪われるほど絵になっていた。


「うわっ!? なにアンタ笑ってんのっ? うそおっ」


 けれど隣で裕が素っ頓狂な声を上げたので、思わずきょとりと彼女を見る。裕はなぜか驚きと苦笑の混じったような微妙な顔をしていた。それに、蒅はすぐに表情を元の仏頂面に戻してしまう。


「俺だって笑うことくらいある。いいからさっさと乗れ。……藍華さん、も荷物渡して。後ろに載せる」「あ、私やります。それと、藍華でいいですよ」


 なにやら引き気味の裕を放置して、蒅がてきぱきと動き始める。藍華は重たいスーツケースを職人である彼に持たせるのは悪いと思い、車のトランクを開けた彼の横まで行くと両手でそれを持ち上げようとした。


 が、横からぬっと大きな手―――それも、指先から手首近くまで青く染まった腕が伸びてきたので動きを止めた。


「じゃあ藍華。こういう時は男に甘えていい。ほら」


「え、あ……」


 まるで取り上げるように、ひょいとスーツケースを蒅に奪われる。彼は重さなど一切感じていないような平気な顔で藍華が両手でやっと持ち上げられるくらいのそれを軽々とトランクに載せた。


「ありがとうございます。その……手、すごいですね」


 蒅の手に視線を向けながら言えば、彼は一瞬瞳を眇めて、最初に見た表情のない顔で口を開く。


「藍染職人なんて皆こんなもんだ」


 平坦な返しにそうなのか、と思いつつ蒅の手をじっと見つめる。彼の大きな男らしい手は藍の深い色に染まっていて、指先が最も色濃く手首に向かうほどに薄く淡くなっている。その美しいグラデーションに感動して、藍華はほう、と感嘆の息を吐いた。


「綺麗……人の手でも、こんなに鮮やかに染まるんですね」


 藍華がそう言うと、蒅がほんの少し目を見開いた。不思議そうな顔だった。

 そしてしばし藍華を注視した後、彼は何か楽しいものを見つけたように声を押し殺して笑い始めた。


(……え?)


 なぜ笑われるのだろうと困って裕を見ると、今度は彼女がまるで鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていた。


 口まであんぐりと開けて呆気に取られているようだ。視線の先はなぜか腹まで抑えてくつくつ笑い続ける蒅である。


 が、藍華には何がなにやらわからない。


「あ、あの」


「うっそぉ……」


 笑う蒅に話しかけようとしたが、呆けたような裕の声に言葉を飲み込む。


「蒅がめっちゃ笑ってる……噓でしょ。なに、雪が降るの? 十月だけど雪降るの!? 徳島滅多に降らないけど!?」


「ええと、裕ちゃん一体どうしたの」


 両手を頬に添えて、いやああと叫びながら捲し立てる裕に藍華は苦笑した。自分には状況が全く分からないが、裕にとって予想外の行動を蒅がしているらしいというのは理解できる。


 それにしたって、人間なのだから先程彼が言ったように笑うくらいあると思うのだが。


 そう思っていると、ぶんぶん首を横に振りだしていた裕がばっと顔を藍華に向けた。あまりの勢いに藍華の背が後ろに仰け反る。

 裕の形相はまさに真剣そのもので、もともと大きく丸い目がより一層大きくなっていた。


「だって先輩! こいつ滅多に笑わないんですよ昔から! 近所じゃモアイなんてあだ名が付くくらいで……!」


「も、モアイ?」


 唐突な世界七不思議の話題に藍華は目を丸くした。モアイといえばイースター島にあるあの石像のことだ。 あれがあだ名になっていた……藍華はモアイ像のあのむんとした顔を頭に思い浮かべていた。


「似てません? こう、表情無いのに図体が馬鹿デカいところが」


 追い打ちに裕が説明を付け加えてくれる。


 た、確かに……そう言いそうになるのを、藍華は寸でのところで堪えた。


「裕、てめぇ今度覚えてろよ」


「っげ!」


 裕の暴言にさすがに蒅も気を悪くしたのか、笑うのをやめて彼女を鋭く睨み据えて苦言を呈した。


 藍華は裕の言葉に相槌を打たなかった自分を内心褒めた。言っていたら今頃どんな目を向けられていたかしれない。


 しかし裕と蒅のやり取りはまるで兄と妹のようで微笑ましかった。見た目的に落ち着いた蒅の方が年上に見えるが、二人はまるでケンカップルみたいだと藍華は思う。


「ふふ。仲良いのね二人とも」


「……たんに腐れ縁なだけだ」


「そうですよ!」


 ああ言えばこう言う、小気味よい二人のやりとりに藍華は終始笑顔を浮かべていた。


 時折、蒅から向けれる視線については気付かない振りをして。



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