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結論の先延ばし


 秋は人肌恋しくなるのだという。


 けれど触れ合う相手がいないなら、凍えた身体をどうやって温めればいいのだろうか。


「ねえ先輩、一緒に旅行いきませんかっ? それも徳島! あたしの実家があるんで宿泊費はタダですよ!」


「徳島? 裕ちゃんの実家って四国だったの」


 お昼の休憩時間。


 社食で親子丼を食べているなか、後輩の如月裕きさらぎゆうが身を乗り出してそう言った。


 昨夜の出来事で塞いでいた藍華はその勢いに圧倒されて目をぱちくりと瞬かせた。


 裕は藍華の七つ下で二十五歳の若手だ。

 ショートカットの髪は明るい茶色で、愛嬌のある奥二重が可愛らしい溌溂とした女の子である。


 藍華とは先輩後輩にあたると同時に社内での新人教育制度による『ペアレント』という関係でもあった。

 つまり裕の指導を藍華が受け持っているのだ。


「ちょうど実家から帰ってこいって言われてたんですよーっ。でも一人で帰ると手伝いばっかやらされるんで、先輩が一緒に来てくれるとすっごく助かります! 案内口実に逃げられますから」


「四国か……私は別に良いわよ」


 じゃあ決まりですね! と裕が喜び勇むのを見ながら、藍華は器に残っていた親子丼を食べきった。


 綱昭の浮気が確定した昨日。


 結局は何も問い詰めることなく藍華は一日を終えた。今のところ自分がどうしたいのかわかっていないというのもあったが、離婚となれば手続きにも時間がかかる。


 正直、裏切りを知ったばかりで疲弊した心ではそういった事に対処できる気力もない。


 そんな折、裕から昼食に誘われたのだ。

 同期の子達と外へ食べに行く事が多い彼女だが、どうやら藍華が気落ちしていることに気付いていたらしい。


 優しく愛嬌のある後輩は他愛もない、けれど明るい話題でさりげなく藍華を励ましてくれた。藍華は後輩に恵まれたことを幸せに思った。


 そうして、先程の彼女の台詞である。


「あたしの実家、めっちゃど田舎ですけど、その分もりもり自然は堪能できるんで! あ、先輩って藍染体験とかって興味あります?」


「藍染ってあの綺麗な青い色のことよね。伝統工芸だっけ」


「そうですそうです。あの小泉八雲が愛したジャパンブルーが藍色なんです。しかも徳島のは『阿波藍』って言って、実は世界的にも有名なんですよ!」


 えっへん、と効果音が付きそうな笑みを浮かべた裕は誇らしげに言った。都心出身の藍華にとっては自分の故郷を自慢できることは少し羨ましく思える。特に藍染はその言葉からも色からも上品で美しい印象があった。


 なにより『藍』の字は自分の名前にも使われているのだ。母親が祖母から譲り受けた着物が由来と聞いているが、興味はあったもののなんだかんだで知らずにいた。


 最近では確かサッカー日本代表のユニフォームでも藍色のワードを聞いた覚えがある。


 藍華はどちらかといえば新しい物より古いものが好きだった。


 アンティークショップなどを覗くのも楽しいし、古い和家具なども好きだ。ただ綱昭は現代モダンを好むため、今住んでいるマンションにはそういったものが一つもない。


 唯一あると言えば、藍華が独身時代に集めていた豆皿が数点残っているだけだろうか。

 もしも離婚したら。一人暮らしになった記念に何か好きなものを置けたらいい。


 ふとそんなことを思う。


「すごく興味あるわ、藍染。やってみたい」


「じゃあ知り合いが藍染工房やってるんで紹介しますよ!」


 乗り気な藍華の様子を見て裕が拳を突き出しぐっと親指を立てた。彼女は割と体育会系でリアクションがわかりやすい。そういったところも、藍華が裕のペアレントになれて良かったと思う部分だ。


「もし手持ちの服で染めたいやつとかあったら持ち込みもできるんで。素材にもよりますけど、木綿の白い服とか、すごく鮮やかな藍色になりますよ」


 食べ終えたトレーを返却口に戻しながら裕は続けて説明してくれた。


 それを聞いて、藍華の頭の中でクローゼットの光景が浮かぶ。

 確かカットソーで一枚、レースが綺麗なものがあったはずだ。


 白は汚れるのであまり着る機会もなかったけれど、藍色なら綺麗だしもっと活用できるかもしれない。


「嬉しい。楽しみだわ」


「ふふ。先輩、今日やっと笑ってくれましたね」


 戻りすがら廊下を歩きつつ裕が藍華の顔を覗き込んで言った。にこにこと可愛い猫のように笑う彼女は軽く肩をすくませて、安心しましたと続けた。


「……そんなに暗い顔してた?」


 藍華が聞けば裕の顔が苦笑に変わる。それからまたぱっと輝くような笑顔になった。


「そりゃもう! でも良かったです。あたし先輩と遊びたかったんで。あ、でも旦那さん大丈夫ですか? 外泊とかって、嫌がる男の人もいるって聞きますけど」


「……うちは大丈夫よ」


 嫌がるどころか、勧められるだろう。そうして、二人の部屋に藍華の知らない女を連れ込むのだ。


 心の奥底に何か冷たい塊を感じながら、藍華は顔に出さずに笑顔で言った。

 夫に裏切られた事を知ったばかりだというのに体裁を繕えている自分を不思議に思う。


 知ってすぐは衝撃を受けたが、翌日も塞ぎ込むほどではない。悲しみはあるが涙はもう出てこない。吐いたりもせず、食事も普通に取れている。


 自分は本当は薄情な人間だったのだろうか、とすら考える。


「やった! じゃあどこかで一緒に有給取りましょう! 今は繁忙期でもないですし大丈夫ですよね! 先輩と実家旅行なんて楽しみー♪」


「私も。誘ってくれてありがとうね、裕ちゃん」


 廊下をスキップする勢いの後輩をなだめながら、藍華は今は彼女の言葉に甘えて気を紛らわそうと思っていた。


 結論を出すかどうかはまだ先延ばしにしたい。


 考えることも、決めることも、とても労力のいることだからと。


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