夜会1
本日一話目です
両親との顔合わせを終え、別邸に戻ってきたマリアンヌだったが、その顔はどこか陰っていた。
それに気が付いたジークハルトが聞けば、マリアンヌは自嘲気味みに乾いた笑いを漏らす。
「いや、人のことは言えないなと思って。価値観なんて人それぞれ。それなのに、私は良かれと思って他の劇団員に指導をしていたの。彼らがそれを迷惑に感じていたなんて、指摘されるまで気が付かなかった」
子爵に向けて発した言葉がブーメランのようにマリアンヌの心に返ってくる。
お節介がすぎたのだ。押し付けだったと言われれば、反論のしようがない。
マリアンヌはやれやれと肩を竦めリビングのソファーに腰掛けると、盛大に息を吐いた。
ジークハルトが向かい側のソファに腰を下ろす。
そうして、ちょっと考えるように顎に手を当てた。
「でも、だからといって濡れ衣をかけていい理由にはならない」
「うん、そうね。私もそう思う。ただ、相手がいくら悪くても、自分にも非があるならそれは認めなきゃ」
清々するほどの潔さにジークハルトは一瞬目を丸くすると、次いで深い笑みを作る。
彼の周りにいる女性とは違うさばさばとした物言いと、他者の悪口を言わない心意気に興味を持ったのか、少し身を乗り出し、侍女が用意した紅茶を飲むマリアンヌを密かに観察した。
暫くそうしていたが、やがて時計を見たジークハルトは、そろそろ仕事へ行く時間だと本題に入ることにする。
「ところで、マリアンヌの演技力は理解したが、それでも令嬢としてのマナーは学んだほうがよいだろう。信頼できるマナー教師を一人手配するので、指導を受けてもらえないだろうか?」
窺うような眼差しで問うジークハルトに、マリアンヌはぱっと花が咲いたかのような明るい笑みをみせた。
「淑女の作法を教えてくれるの?」
「嫌ではないのか? 渋られるのを覚悟で、どう説得しようかと考えながら聞いたんだが……貴族の作法はなかなか面倒だぞ?」
心配そうに念を押すジークハルトに、マリアンヌはとんでもないと首を振る。
「だって、ただで淑女の演技指導をしてもらえるんでしょう。喜んで受けるわ」
まるで子供のように無邪気な顔で前のめりになるマリアンヌに、ジークハルトは目を瞬かせる。
マナー教育を『演技指導』とはいったいどういう解釈をしたのかと唖然とするジークハルトに構うことなく、マリアンヌは立ち上がると、胸の前で手を組んだ。
「テーブルマナーに、話し方、立ち居振る舞いにお辞儀の仕方。想像しただけで胸が高鳴るわ。盗み見て真似したけれど、それを本格的に学べるなんて。ねぇ、いつから? 私は今からでも全然構わないわよ」
すっかり浮かれ、「やっぱり本を頭に乗せて歩いたりするのかな」なんて呟くと、本棚から本を取り出し頭に置いた。
そのまま、器用に一回転して、へへっと自慢げにジークハルトを見る。
「上手でしょう?」
「……マリアンヌの頭には演技のことしかないのか?」
苦笑いで問われたマリアンヌは、ことりと首を傾げる。
頭の上からずり落ちた本を空中で受け止めると、ソファに座るジークハルトのところまで行く。身を屈め紫色の瞳を覗き込み、微笑んだ。
「当たり前でしょう。演じることで私は生きているのよ」
当然、とばかりに応えれば、ジークハルトは数度目を瞬かせたあと、クツクツと喉を鳴らして笑い出した。
「そうか。そこまで打ち込めるものがあることが、なんだか羨ましい」
「そう?」
肩を竦ませたマリアンヌは、再び席に座ると残っていた紅茶を口にする。
マリアンヌの言葉はジークハルトが思うよりずっと深い意味があるのだが、もちろんこれ以上話すつもりはない。ただ、これからの生活に想いを馳せ、胸を高鳴らせていた。
次の日、早速やってきた家庭教師に、マリアンヌは飛びあがらんばかりに喜んだ。そうして、これでもかというほど詰め込んだ淑女教育が始まったのだが、先に根を挙げたのは教師の方だった。
「今日はこれでお終いにしましょう」
立ち居振る舞いを教えていた教師は、小さくふぅ、と息を吐いた。
「いえ、まだできます。先生、もう一度廊下を端から端まで歩くから見てください」
「もう歩き方は完璧です」
「そんなことないわ。先生と微妙に違うもの。あっ、もしかして顎の角度かしら。もう一度お手本を見せてください」
かれこれ三時間も続けて指導していた教師は疲れた顔で「これで最後ですよ」と念押しすると、十歩ほど歩いてみせた。
うん、と頷いたマリアンヌは廊下の端から歩き、窓に映る自分の姿をくまなくチェックする。一往復したところで、教師はそっと帰っていったが、それでもマリアンヌは歩くことをやめない。
万事が全部このような調子だった。
家庭教師の言うことは、一言一句聞き逃さまいと耳を傾け、必要であればメモもする。
それからひたすら、そのしぐさ、口調を観察した。
スプーンを持つ指の角度、それを口元に運ぶスピード、肘は、肩は、目線は。つぶさに観察して、鏡の前で何度も何度もひたすら繰り返し練習するのだ。
そのストイックさは尋常ならざるものがあった。
復習と称して、時には一日に何杯もスープやお茶を飲むこともあり、これにはリリもお腹を壊さないかと冷や冷やしたものだ。
実際に一度腹痛を起こし、ジークハルトに止められてからは無茶はしなくなったが、それが無ければ今度は肉を食べ続けただろう。
長年看板女優としてやってきたマリアンヌの観察力は鋭い。しかし、その観察力は天賦の才能ではなかった。
生きていくために止む無く得た不本意なもので、そのことが時にはマリアンヌの表情に影を落とすのだが、その僅かな翳りに気づく者はいなかった。
そして、ひたすら繰り返した努力によって、たった一ヶ月で家庭教師は合格点を出したのだった。
「もう教えることはありません」と告げたその表情は、やっと解放されるという安堵に満ちていた。
ジークハルトが何度も「本当にか?」「もう少し教えたほうが」と問うたが、家庭教師はとんでもないと首を振る。
「これ以上のことを教えるのは可能ですが、そうなると子爵令嬢でなくなります。公爵、いえ王妃教育のレベルになりますよ」
「先生! どうせなら王妃教育までしたいです。子爵令嬢と王妃を演じ分けられるようになるわ。ねぇ、いいでしょう?」
「とんでもない。とにかく私は今日で終わりとさせていただきます」
嬉々として、誰もが逃げ出したくなる王妃教育を受けようとするマリアンヌを、家庭教師は信じられないとばかりに見ると、そそくさと逃げるように帰っていった。
その後ろ姿を不本意に見守るマリアンヌに、ジークハルトがため息を落とした。
「いったい何をしたんだ?」
「何って、淑女教育よ。っていうか、ジークハルト様、毎晩別邸に来るけれど、婚約者とデートしなくていいの?」
この一ヶ月、ジークハルトは帰宅すると別邸を訪れていた。
淑女教育の進捗状況が気になったのと、家族の問題に巻き込んでしまったことへの罪悪感から、王都で流行っている菓子や花を差し入れした。
そのたびにマリアンヌは無邪気に相好を崩し喜んだ。
するとまたその顔が見たくなり、次の夜も来てしまうのだ。
「婚約者はいない」
「そうなの。貴族って、皆が婚約すると思っていたわ」
「その認識は間違っていないな。俺が例外のようなものだ。それより、今夜もここで食事を共にしていいだろうか」
「私は構わないわよ」
顔を見せたついでに、食事をするのがすっかり習慣になってしまった。
マリアンヌとしても、練習の成果を見てもらえるのが嬉しく、リリに今日も食事を二人分運んでくれるように頼んだ。
そんな日が続き、今宵も当たり前のように二人はローテーブルを挟んで向かい合って座った。
場所は別邸のダイニング。別邸とはいえ、劇団の大道具より数十倍立派なシャンデリアが頭上に輝き、年季が入っているけれど丁寧に手入れされた調度品が並ぶ。
食事を終えた二人の前に並ぶのはチョコレートで可愛くコーティングされたクッキーと、それには似つかわしくない酒精の強いお酒だ。
マリアンヌがそれを美味しそうにコクンと飲む。ジークハルトもお酒には強いようだが、マリアンヌはさらにそれをゆく酒豪で、いくら飲んでも酔っぱらわないのが自慢だった。
「マリアンヌ、さっき夜会の招待状が届いた。皇太子の誕生日を祝うものだが、出欠はどうする?」
「それは欠席の選択肢もあるという意味?」
「もちろんと言いたいが、王家主催なので相当な理由がなければ無理だ。当初は病で臥せっているため欠席すると押し通すつもりだったが、できれば出席してもらえたほうがトラバンス家の顔が立つ」
精悍な顔の眉が下がるのを見て、マリアンヌはあっさり決断した。
「分かった。じゃ、出席するわ」
「いいのか」
「もちろんよ。だってお城の夜会よ。どれだけ豪華なのかしら。想像もつかないわ」
料理は何が出るの? ドレスは? 宝石も身に着けるのかしら、と矢継ぎ早に聞けば、ジークハルトはやや気圧されたように応じてくれた。
だけれど、浮かれるマリアンヌに対してその表情は硬い。
一通り質問を終えてスッキリしたマリアンヌが、ジークハルトの心配そうな表情に気づき、持っていたグラスをテーブルに置いた。
「何か問題があるの?」
「夜会への出席となると、リカルド殿がマリアンヌをエスコートすることになる。マリアンヌの淑女としての振る舞いに問題ないのは承知しているが、まだ家族以外の人間に合ったことがないだろう」
「婚約者だものね。大丈夫、なんとかするわ」
あっさりと承諾したマリアンヌに、ジークハルトの眉がさらに寄った。
淑女教育が終わった時点で、リカルドとの初のお茶会は来月に予定された。それと比べ、ひと月ほど早く会うことになる。
「初めての夜会に加え、予定より早くリカルド殿と会うことに不安はないか?」
「ない、とは言えないけれど。でも、考えようによってはお茶会よりいいと思うわ。ずっと二人っきりでいるよりバレないんじゃないかしら」
リカルドとエスティーナが今までどのような会話を交わし、親交を深めてきたか分からない。
リカルドの家庭環境や、貴族学園での様子は聞いたが、それはあくまでもジークハルトの視点からであって、エスティーナがどう受け止め考えていたかについては未知の領域だ。
仕方なく、リカルドとの茶会にいつも同行していたリリに聞けば、「会話は多くなかった」と言われてしまった。
それでも言葉を交わしていただろうと、マリアンヌが食い下がると、暫く逡巡したのち「日常の些細なことや家族の話をしていた」と答える。
これではどう振る舞うべきか、ジークハルトと事前に打ち合わせができない。
幸いだったのが、二人はエスコートの時以外触れあうこともなく、適正な距離を開けていたと聞けたことだろう。
それならば、大人しく控えめにして、ひとまずリカルドの出方を待つのが良いと考えられる。
口数少ないエスティーナなので、相槌さえ打っていれば不信がられないだろう。
「確かにそうだな。エスティーナ達を夜会で見かけたが、ファーストダンスを踊ったあとはそれぞれの知人と話をして過ごしていた」
「じゃ、今回もそうするわ。ところでジークハルト様もその夜会に出席するの?」
マリアンヌの問いに、ジークハルトは頭を振って答える。
「ああ。だが俺は騎士として警備も兼ねての出席だ。王家主催の夜会では、護衛騎士以外の騎士も警邏に当たる。とはいえ、持ち場が決まった任務ではなく、有事の際に控えているようなものだ」
だから、任務を怠らない程度に食事やダンスをするのも認められている。
一応、酒は控え帯剣もしているが、常に目を見張らせ気を張り詰めるような仕事ではなかった。
「仕事という体裁をとっているので、パートナーは必要ない。俺にはうってつけの任務だ」
「ジークハルト様は女性嫌いなの?」
突然の問いに、ジークハルトは固まったのち、おずおずと口を開いた。
「マリアンヌとは随分打ち解けたと思っていたが、貴女の目に俺はそう映っていたのか?」
不本意だと焦るジークハルトに、マリアンヌはそうではないとカラリと笑った。
「婚約者もいない、エスコートする女性もいないと聞いたのでそう思っただけ。別に男色家だなんて思っていないわよ?」
「それは良かった。そこまで勘違いされていると辛い。確かにこの歳なら所帯を持ってもおかしくはないのだが、どうもそんな気になれなくてな。それにずっと騎士として辺境の地にいたので縁もなかった」
そういえば、この男、女性に免疫がなかったと思い出す。鎖骨を見ただけで顔を赤らめたのは男所帯でずっと暮らしていたせいだと納得した。
「でも、夜会に行ったら女性たちがわさわさと寄ってくるでしょう?」
揶揄うような目で身を乗り出して聞けば、ジークハルトはその精悍な顔を歪める。
「見合い話は山のようにきているし、夜会では多くの令嬢に囲まれた。寄りかかり、柔らかな身体を押し付け、鼻が曲がる程の香水の匂いをさせながら上目遣いで見られうんざりだ。押しのけたいが、俺の力でそうすれば相手が怪我をするかも知れん。ひたすら無の境地で立っていたよ」
「ふふ、見目が良いのも考えようね」
厚化粧の令嬢に囲まれ脂汗を流す姿が目に浮かぶ。
しかしジークハルトは貴族。声を上げ笑いたいのを酒で流し込みどうにか堪えた。
見た目は落ち着いて見えるのに、中身は十代の青年のようだとマリアンヌはしげしげとジークハルトを見る。
「ジークハルト様は何歳なの?」
「二十三歳だ」
「あら、じゃ、私の方が二歳年上ね」
意外と老けて見えるのね、と言う言葉は飲み込んでおく。
それに対して、ジークハルトは手にしていたグラスを落としそうなほど驚いた。
「待て! 俺より年上なのか? それに、エスティーナの五歳も上じゃないか」
大きな瞳にあどけない顔は、年齢よりも随分と幼く見える。
しかしマリアンヌは、今更それがどうしたのかと首を傾げた。
少年から老婆まで演じるマリアンヌにとって五歳差など誤差の範囲だ。そんなところでボロを出すつもりはない。
「大丈夫。上手く演じるわ」
「いや、それは信用しているが、見た目があどけないのでちょっとびっくりした」
「あら、色気が足りないってことかしら?」
すっと目を細めると、マリアンヌは、気だるげにソファの肘掛けに腕をのせ、ゆっくりと足を組んだ。
そして、誘うように妖艶な笑みを浮かべ、眼差しに色香を乗せながらゆっくりとお酒を嚥下する。
突然湧き出た色香にジークハルトは面白いほどたじろいだ。顔を赤らめ視線を彷徨わせる。よく見れば額に汗が浮かんでいるではないか。
(何、この面白い反応)
調子にのったマリアンヌは席を立つとジークハルトの隣に座り、そっと頬を人撫でした。途端、ジークハルトは首まで真っ赤になる。
「ふふ、ふふふっ」
耐えきれず笑いがこぼれ、マリアンヌが肩を揺らす。その笑いが次第に大きくなる。
顔に似合わない初心な反応に、今度こそ笑いを止めることができない。
ジークハルトは不満げにじとっとマリアンヌを睨んだ。
「揶揄うのはやめてくれ」
「ごめんなさい。そうよね、さっき女性に擦り寄られるのは嫌だって言っていたものね」
「……いや、そうではなく」
「はいはい、離れるわ。これでいいでしょう?」
充分に距離を取ったマリアンヌに、ジークハルトが一瞬残念そうな表情を浮かべた。だけれど、顔を背けまだ肩を揺らしていたマリアンヌはそれに気づかない。
「……マリアンヌは、随分恋に長けているようだな」
「もちろんよ。舞台で幾つの恋を演じてきたと思っているの」
当たり前よとばかりに胸を張ると、ジークハルトは渋い顔でそうではないと頭を振った。
「演技の話ではない。恋人はいないのか?」
その問いに、マリアンヌは青色の瞳をパチパチとさせ、ふっと笑った。
「いないわよ。敢えて言うなら舞台が恋人かしら」
他の劇団から冗談とも皮肉とも取れる口調で言われていたフレーズを口にする。
「じゃ、俺と一緒だな。俺は剣が恋人だ」
「ふふふ、ではベッドまで一緒に?」
「もちろん。焼きもちも焼かなければドレスも宝石も欲しがらない。無口なところが何よりいい」
ジークハルトがお酒を口にするのを見て、マリアンヌは自分のグラスを取る。そこにジークハルトがお酒を注いだ。
(この生活が楽しくなってきていた)
胸に浮かんだ温かな気持ちに口元をほころばせながら、マリアンヌは グラスのお酒を美味しそうに飲み干した。
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