トラバンス子爵家
本日三話目です。
馬車に揺られながら、マリアンヌはその乗り心地のよさにうっとりと口元を緩める。
僅かな段差でも振動をしっかり伝える辻馬車と異なり、子爵家の馬車は何と乗り心地のよいことか。
臙脂色の座面はふかふかとし、窓にはソファと同色のカーテンがかかっていた。
窓の向こうに見える街並みは変わらないはずなのに、いつもより外套の光が輝いて見えるから不思議だ。
劇団があったのは街はずれの一角で、馬車は王都の中心部へと向かっていく。
一時間ほど夜道を走り次第に街灯が多くなってきた頃、馬車は大きな門を潜った。そのまま少し蛇行しながら走ったのち、ゆっくりと停車する。
扉が開かれ、先に降りたジークハルトが手を差し出してきた。マリアンヌは青い瞳をパチリとするも、すぐにそれがエスコートだと分かり自分の手を重ねる。
「ありがとう」
「これからは、常にエスコートされると思ってくれ」
「分かったわ。ところで、私が偽物だと誰が知っているの?」
「両親には話す。家族はあと弟がいるが、学園の寮に入っているので顔を合わす機会は少ない。必要になった時に話せばよいだろう。それから、口の硬い使用人を一人つける。本宅には大勢の使用人がいるので、この別邸でその侍女と暮らしてもらうことになる」
マリアンヌは、ここが本宅でないことにまず驚いた。
だって白亜の壁に立派な飾り窓のその邸は、劇場や、十数人で一緒に住んでいた寮よりも大きい。
別邸の前にある豪奢な庭には薔薇が咲き誇り、辺りに甘い香りが漂う。入り口扉だって、劇場のそれと同じぐらい大きい。
「本当に、ここに私が住んでもいいの?」
馬車の中でマリアンヌの素性は粗方説明した。と言っても劇団に入団したところからだけれど。
会ったばかりの平民に対しこの好待遇はお人よしとしか思えず、心配になってしまう。
「もちろんだ。それにしても劇団『碧い星』の元女優だなんて、素晴らしい巡り合わせだ。神に感謝しなくてはいけないな」
「そこは私に感謝することろでしょう?」
腰に手を当てジークハルトを睨めば、確かにその通りだとクツクツと笑う。その笑顔が、意外と幼いことにマリアンヌは目をパチリとすると、やんわりとした笑みを口元に浮かべた。
偉そうな貴族は嫌いが、ジークハルトとならうまくやっていける気がする。
「今日はもう時間が遅いので、両親には明日紹介しよう」
「じゃ、今夜はこの屋敷に私一人?」
「申し訳ないがそうだ。朝には侍女をつける」
当然のことながら室内は真っ暗で、ジークハルトは御者から借りたカンテラに灯をつけた。
すると、ぼんやりとだが、室内の様子が分かる程度には明るくなる。
屋敷の中は、マリアンヌの期待通り華やかな誂えをしていた。
エントランスの正面には、二階へ続く階段があり、緋色の絨毯が敷かれていた。天井にはシャンデリアがぶら下がり、左右に扉がある。
「急なことなので、今夜の湯あみは我慢して欲しい」
「いいわ、それより邸の中を見ていいかしら」
「それも明日のほうがいいだろう。灯すら用意していなくてすまない」
さっきから謝りっぱなしのジークハルトに、マリアンヌは笑いを必死で堪える。貴族なんだからもっと横柄にしても良いのにと思うほど、ジークハルトは人がいい。
マリアンヌは二階の中央にある部屋に通され、ここを自由に使っていいと言われた。
カンテラをローテーブルにおいたジークハルトは、壁についている燭台の蝋燭を手にして戻ってくると、それにカンテラの火を移す。次にその蝋燭を持って部屋をぐるりと一周して、四つの燭台に灯をともした。
明るくなった室内に、マリアンヌは「まぁ」と感嘆の声を漏らす。
猫足のソファセットに、天蓋付きの大きなベッド、窓には机があり、壁には金で縁取られた姿見が立てかけられている。
棚に並ぶ本は、タイトルを見ただけでは内容が分からない。ただ、いつもマリアンヌが手にする古本とは違い、表紙も革張りで高級なのは分かった。
「ここを私が使っていいの?」
「ああ、必要な服は、明日にでも仕立て屋を呼ぶので頼めばいい。他に必要なものがあれば、言ってくれれば用意する。人に会う可能性があるので、できるだけ外出は控えてもらう」
「分かったわ。外出する時は貴方の許可を取る。何なら、変装をしてもいいわ。老婆でも、青年騎士でもお手のものよ」
鼻歌交じりで室内を見て回りながらマリアンヌがそう言えば、ジークハルトは目を丸くした。
「そんなことが可能なのか?」
「私を誰だと思っているの。劇団『碧い星』の元看板女優よ」
「あぁ、神は本当に存在したんだな」
「だから、そこは神じゃなくて私に祈りなさいって」
胸の前で手を組むジークハルトを睨めば、ジークハルトは冗談だとばかりに肩を竦めた。
「では明日、朝食を持ってこさせる。それまでゆっくり休んでくれ」
「ええ、おやすみなさい」
ジークハルトが出て行くと、マリアンヌは部屋の真ん中でくるりと回った。
「なんて素晴らしいの! 神に感謝するのは私のほうだわ」
舞台の大道具が霞んでしまうほどの豪華な部屋に、ついついはしゃいでしまう。
意味なくすべての引き出しを開けてみた。空っぽのクローゼットの中に入り両手を広げ、最後にベッドに飛び込む。
「うわっっ、ふかふか」
衝撃は微塵もなく、雲に包まれているのかと思うほど柔らかい。
「本物は違うわ」
何というかすべてにおいて重厚感がある。
舞台の大道具は遠目で見れば綺麗だけれど、近くで見たら張りぼて感は否めない。
マリアンヌは一度ベッドから起き上がると、入り口に落ちたままだった鞄から着古した寝着を取り出す。
着ていた服を脱いで、ソファの背もたれにかけると、寝着に袖を通す。
そうして今度はゆっくりとベッドに入った。
「何をどうしたら、こんなに柔らかな寝心地になるのかしら」
寝返りを数回打ち、ふわふわ、もふもふを堪能する。それを何度か繰り返したのち、やがてマリアンヌは規則正しい寝息を立て始めた。
目覚めたのは、軽いノック音がしたからだ。寝ぼけ眼で「はい」と返事すれば、小柄な侍女が入ってきた。
「マリアンヌさんのお世話をさせていただくリリと申します」
年若く、にこにこと愛想のよい侍女に、ジークハルトの心遣いが透けて見えた気がする。
「ありがとうリリ。それで、私はどうしたらいいの?」
「まずはお風呂にお入りください。湯の用意はしております。それから朝食を終えられた頃を見計らって、ジークハルト様がお迎えに来られるそうです。その後、本宅へと向かいます。別邸を一歩出れば、『エスティーナ様』と呼ぶよう仰せつかっております」
マリアンヌが平民と知っていながら、横柄な態度をとらないところも好ましい。
もしくは、貴族として扱われるのに慣れろという意味かと考えたが、どっちでも居心地の良いのに代わりないので、早々に思考を放棄した。
「分かったわ。私も、別邸を出たらエスティーナとして振る舞うわ」
「ありがとうございます。エスティーナ様はマリッジブルーで精神が不安定になり、結婚まで別邸で暮らす、と他の使用人には伝えております。別邸に来るのは私だけですので、行き届かない所もあるかと思いますが、ご協力お願いいたします」
「もちろん。食材さえ運んでもらえば、自分で料理だってするわよ」
「料理は本邸で作ったものを持ってきて、温めなおします。でも、料理をするのがお
好きでしたら、そのようにいたしますが、どうしましょうか?」
「あぁ、ぜんっぜん好きじゃないから、プロの料理人に任せるわ」
そう答えれば、リリは茶色い目をパチクリとしたのち、クスクスと笑った。
マリアンヌもつられるように口元を緩める。
精神的に不安定な令嬢を一人別邸に置く設定は少々無理があると思うも、居心地がいいのに越したことはないのでそこは口にしない。
その後、湯あみを終えたマリアンヌは、リリが持ってきてくれた朝食を摂った。
白くふかふかのパンが二つと、バターとジャム、スクランブルエッグにベーコン、野菜のたっぷり入ったスープと品数も多く、最後にはデザートまでついていた。
食事を終えたあとは、リリが持って来たピンク色のデイドレスに袖を通す。これは一人でも着れるデザインだったのでリリの手は借りなかったが、髪は結い上げてもらう。
ハーフアップに仕上げた髪を鏡に映し、ここまでは想像通りの貴族の生活だな、と思った。
エントランスに向かえば、すでにジークハルトが迎えに来ていた。
きちっと騎士服を着こんでいるので、マリアンヌを両親に紹介したら登城するのかもしれない。
ジークハルトはマリアンヌを見ると、紫色の双眸を丸くし、つま先から頭頂部へとその視線を二往復させた。
「化粧をしてドレスを着ると、ますますエスティーナにしか見えないな」
「ありがとう。それで、これからご両親に会えばいいのね」
「あぁ、馬車を表に用意している」
「本宅まで馬車で移動するの? どれだけ大きな邸なのよ」
「貴族にしては小さいほうだ。侯爵、公爵となればこの数倍はある」
「うわっ、迷子になりそう。冬なんて遭難者が出るんじゃない」
マリアンヌの言葉に、ジークハルトがぶっと噴き出した。肩を揺らし笑うその背中を、マリアンヌは軽く叩く。
「笑い過ぎよ。この国の冬の寒さを知っているでしょう?」
「そうだな。俺が知らないだけで遭難者が出ているかもしれない。よかったよ、子爵家の生まれで」
さぁ、と手を差し出される。
昨晩エスコートに慣れるよう言われたばかりなので、マリアンヌは遠慮なくその手を借り、入り口に横付けしてあった馬車に乗り込んだ。
本邸は、当然のことながら別邸よりも大きく、二倍以上はありそうだ。
案内されたのは、窓際に重厚な執務机がある部屋。
置いている家具や飾っている絵は高そうだとさっと目を走らせる。華やかさとは無縁のどこか圧迫感すら漂う部屋だった。
部屋の中央にあるソファに座っていた女性がマリアンヌを見た瞬間目を見開き、次いで立ち上がり走り寄ってきた。
「貴女、本当にエスティーナじゃないの?」
期待を込めた問いに、マリアンヌは小さく首を振る。
「……違います」
その言葉に、女性はあからさまに肩を落と、そのまま項垂れ膝を床についてしまった。
慌てて手を貸そうとするマリアンヌより早く、渋い男性の声がする。
「エレーナ、落ち着け」
声の主は女性の肩を支えソファに座らせると、マリアンヌ達にも座るよう勧めた。
ジークハルトと並び腰掛けると、男性は膝の上で指を組み少し身を乗り出す。
「マリアンヌ、ジークハルトから話は聞いている。我が家の事情に巻き込んでしまって申し訳ない。生活は保障するので、一年間別邸で暮らしてもらいたい」
この二人がトラバンス子爵夫妻だろう。
男性にも疲労の色が見て取れるし、女性にいたっては憔悴しきった顔をし、見ているのも痛々しいほどだ。
「承知いたしました。ジークハルト様から事情は聞き、仕事内容も理解しております。しっかりと演じさせていただきますのでお任せください」
演じることには自信のあるマリアンヌは、胸を張って堂々と答える。
しかし、トラバンス子爵の顔は相変わらず渋い。一度喉仏が上下したあと、言いにくそうにジークハルトを見た。
「そのことだが、いくら見た目が似ていても、周りを欺けるのか心配でな。家族や使用人だけでなく、婚約者であるリカルド殿にも会う機会はある。病を理由に外出は最小限にすべきだろう」
これに焦ったのはマリアンヌだ。
せっかく貴族の生活を垣間見れると思ったのに、別邸に閉じ込められてはその機会を失ってしまう。
それに、演技力を疑われては元看板女優のプライドが黙っておけない。
「そのことですが、演じるにしても私はエスティーナ様について何も知りません。ですので、性格、癖は勿論のこと、好きなもの嫌いなこと、思い出深いエピソードなどを教えていただけませんか? 思いつく限り、何でも構いません」
「何でもと言われてもな……」
突然の申し出に戸惑うトラバンス子爵に変わり、まずはジークハルトが答えた。
「エスティーナは大人しく目立つのが苦手で、いつも俺の背に隠れるような令嬢だ。口数は少なく、控えめですぐ下を向いてしまう。読書や刺繍を好み、流行り物には余り興味がない」
「それなのに、家を出たのですか?」
「半年前に階段から落ちて、一時期、妙なことを言ったと話しただろう。すぐにいつものエスティーナに戻ったが、今考えると、行動が以前より快活になった気がする」
「そうなると、私はどちらのエスティーナ様を演じればいいのでしょうか?」
そう問えば、ジークハルトは両親と少し相談したのち、「大人しいエスティーナ」を希望した。
突然エスティーナが変わってしまった理由は分からないが、皆が知っているのが大人しい方だとう言う。
そのあと、癖や話し方、人柄を聞いたマリアンヌは、目線を伏せ顎に手を当て暫く思案する。
(儚げでか弱い令嬢。物静かで、下を向くのが多いのは、きっと自分に自信がないからね)
頭の中でエスティーナの想像を膨らませ、リアリティを持たせていく。
そうして「このような感じでしょうか」と言って顔を上げた。
勝ち気な目が一転、不安そうにジークハルトを見上げる。そして、小さく儚げに口角をあげ「お兄様」とか細い声を出した。
その変わりように部屋にいた誰もが息を飲み、目を見張った。
「……エスティーナそっくりだ。今の話でよくここまで再現できたものだ」
ジークハルトが感心したように頷く。
「まるでエスティーナがいるようだわ」
「確かにこれなら誤魔化せるかもしれん」
子爵達の反応に満足したかのように、マリアンヌは元の顔に戻る。そして、いつものようによく通る声で聞いた。
「では、外出しても問題ありませんね。結婚前の令嬢がひきこもるのは、あまりよくないと私でも思います。夜会やお茶会もお任せください」
「ああ、宜しく頼む」
トラバンス子爵の言葉に、マリアンヌは心の中でこぶしを握った。
(良かった。これで貴族社会がどんなものか知れるわ)
華やかな夜会に、うわさ話が飛び交うという茶会。想像しただけで口元が緩んでしまう。
「でも、代わりは見つかったとはいえ、この瞬間もエスティーナがどんな辛い目に遭っているかと思うと、私は胸が張り裂けそうだわ」
エレーナ夫人は再び目に涙を溜め、ハンカチで拭く。
代役が見つかりほっとしたことで、心配がこみ上げてきたのだろう。
そんな夫人の肩をトラバンス子爵がそっと引き寄せる。
「娘が居なくなってからずっとこの調子なんだ。皆いつか倒れるのではと心配している」
「母上、エスティーナはきっと大丈夫だ。そのうち平民の暮らしに嫌気がさして戻って来るさ」
「そうね。あの子に平民暮らしは無理よね。きっと目を覚ましてくれるわ。頭が冷えれば何が幸せか分かるはずだもの」
「……何が幸せか、あなた達に分かるの?」
気づいた時には口から言葉が出ていた。マリアンヌはしまった、と慌てて口を手で覆うも、出した言葉は戻らない。
「それはどういう意味だ?」
トラバンス子爵の眉間に皺が寄るのを見てマリアンヌはまずい、と思う。
雇用主の機嫌を損なうなんて失態だ。でも、平民であることを不幸と決めつけられるのは、不本意だった。
「私は色んな役を演じてきましたが、役によって価値観は全く異なります。大切なもの、大事なこと、許せないこと、それらは人それぞれです。だから、何が幸せかなんて本人しか分からないと……思います」
怒られるかな、と内心びくびくしながら本音を語った。
肩を竦め、そっと目の前の二人に伺うような視線を向けると、意外なことに子爵は大きく頷いている。
「そうだな。思えばマリアンヌも平民だ。気を悪くしたのなら謝る。ただ、娘を思う親心だ、悪く取らないで欲しい」
「そ、そんな。私こそ出すぎたことを。申し訳ありません」
マリアンヌは慌てて頭を下げる。まさか、貴族がこんなにすんなり謝罪を口に出すと思わなかった。
ジークハルト同様、平民にもきちんと向き合ってくれる人柄は好感が持てる。
マリアンヌはすくっと立ち上がると、舞台で何度もした綺麗なカーテシーをして見せた。
「では、以降、エスティーナ様として演じさせていただきます。一年間、どうぞよろしくお願いいたします」
さっきまでエスティーナを演じていたとは思えない、華のある笑顔と振る舞いは、拍手の音が聞こえてくるようだ。
トラバンス夫妻とジークハルトは、安心したように深く息を吐いたのだった。
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