プロローグ
沢山の物語から見つけて頂きありがとうございます。
本日数話投稿します。
マリアンヌは、三つの国を股にかけ活躍する劇団の看板女優だった。老婆から少年、純粋無垢な令嬢から、妖艶な娼婦まで演じることができ、舞台では常に一番大きな拍手に包まれていた
――そう、一ヶ月前まで。
「おーい、お姉ちゃん、こっちにエールを二杯」
「はーい！ すぐ持って行くわ」
艶の良い茶色い髪を耳の高さで結んだマリアンヌが振り向きながら答える。ふわりと揺れるその髪に男達の目がツイと動いた。
両手に大ジョッキを持ちテーブルの上に置けば、すぐに「こっちにも」と声がかかる。化粧っ気のない顔にも関わらず、笑えばパッと花が咲いたように華やかになるマリアンヌを見たいがために、男達は杯をどんどん空けていく。
場所は港近くの小さな居酒屋。所狭しと並ぶ机と椅子の間を、するりとマリアンヌは縫うように通り抜ける。店内にはアルコールの匂いが充満し、開けた窓から初夏の夜風が吹き込むものの、額には汗が滲む。天井に取り付けられた四枚の羽がくるくると回っているけれど、アルコールの匂いを拡散させているだけで、役に立ってはいない。
上品な店構えではないけれど、マリアンヌはあくまでウエイトレス。だから、むやみに触れてくる男はいない。むしろそんな男がいたら、他の客が袋叩きにしているところだ。
だから、そいつがずかずかとマリアンヌに近づいた時は、皆が一斉にそちらに視線をやり、腕を掴んだ瞬間には全員がジョッキを置いて立ち上がった。
「エスティーナ、ここにいたのか！」
マリアンヌは青色の目をパチリ、と瞬く。
周りを取り囲む男達も、乱入者の予想外の言葉に虚をつかれたように動きを止めた。
（「エスティーナ」という役を演じたことはあるけれど……）
頭の隅でそう考えながら目の前の男を見上げるも、見覚えはない。
真っ黒な髪に、神秘的な紫色の瞳。精悍な顔立ちをしたやけに背の高い男は、少し顔に疲れが滲んでいるけれど、充分整った顔立ちをしていた。
「悪いけれど、私エスティーナじゃないわ」
「この期に及んでまだ誤魔化す気か？ 声までそっくりではないか」
そう言われても違うものは違う。
マリアンヌが否定したことで、店の客数人が二人に近づいて来た。それを目の端で捉えたマリアンヌは「とにかく話を聞くわ」と男の腕を引っ張り外に連れ出す。
仕事も住むところもなく困っていたマリアンヌを助けてくれた店主に、迷惑をかける訳にはいかない。
とは言え、店の前で話すと悪目立ちするので、そのまま腕を引っ張り一本横に逸れた裏路地に向かう。
形の不ぞろいな石が並べられた歩きにくい路地に入ったところで、マリアンヌは手を離した。
「ねぇ、人違い……」
「エスティーナ、探したんだぞ！ 庭師の男は一緒か？ あんな場所で働いているなんて、酷いことはされなかったか？」
男はマリアンヌの言葉を遮ぎると、その細い肩をゆさゆさ揺らす。
そのたびにマリアンヌの細い首はがくりがくり、と前後に揺れた。
「ね、ねぇ。ちょっと待ってよ。あんた、いったい何を言ってるの？」
「何をって、エスティーナ。お前、俺が分からないのか？ それにその喋り方……」
どうやら男にも多少冷静な部分は残っていたらしい。
マリアンヌの言葉にハッと瞠目すると、頭の天辺からつま先まで視線を走らせる。次いで眉間に皺を寄せ怪訝な表情で聞いてきた。
「エスティーナだよな？」
「違うわ」
さっきから言ってるじゃない、と片眉を上げ答えれば、男は今度こそ自分の勘違いに気づいたのか、ギョッとのけ反った。マリアンヌにしてみればやっとである。
しかし、男はそれでもなお瞳に期待を浮かべマリアンヌを見る。そこに一縷の希望を見出そうとしてるが、もちろんそんな物はない。
「はぁ……、まだ疑うの？ じゃぁさ、あんたの探している女の鎖骨にこれはあったかい？」
マリアンヌは着ていたブラウスのボタンを二つ外し、左の肩を露にする。そこには三つのホクロが鎖骨の下をなぞるように等間隔で並んでいた。
「そのエスティーナって人の肩にホクロはある？」
「…………いや、ない」
そう答えるや否や、顔を真っ赤にし口に手を当てそっぽを向く。今度はマリアンヌが目を丸くした。
（女に不自由していない面構えをしているのに、なにその初心な反応）
でかい身体を所在なさげに縮めているのは、可愛くもある。
娼婦の役をする時は胸元の大きく開いたドレスや下着のような薄い生地の服も着る。これぐらいの露出マリアンヌにとって大したことはない。しかし、そうあからさまに照れられては、居心地が悪い。
（まるで私が痴女のようじゃない）
気まずい空気の中、手早くボタンを留めたマリアンヌは、腕を組み男を見上げた。
「これで分かったでしょう？」
もう誤解は解けた、とマリアンヌは軽く手を振り店に戻ろうとすると、素早く伸びた大きな手に捕まり、引き戻される。
まだ何か用があるのかと、眉間に皺を入れ睨むと、男は申し訳なさそうに眉を下げたあと、とんでもないことを言い出した。
「貴女がエスティーナでないことは理解しました。そこで相談なのですが、一年間で良いので妹の振りをしてもらえませんか？」
「…………はぁ？」
突然かつ突飛な願いに、マリアンヌの口から間抜けな声が漏れる。
怪訝そうに眉を顰めると、男は畳みかけるように「十五分で良いから話を聞いて欲しい」と頭を下げた。
その旋毛を眺めながら、マリアンヌは思案する。当然のことながら、そんな話を聞く理由は持ち合わせていない。
断ろうと口を開くも、すんでのところで閉じると、頭を下げる男をじっと眺める。
いつだって、マリアンヌはこうして人を観察していた。演じるために、生きるために。
男はこの辺りに不似合いなほど洗練された服を着ている。
貴族であることは一目瞭然であり、恵まれた体躯から騎士であろうことが伺える。
身分も地位も高い男が躊躇なく平民に頭を下げる理由とはなんだろう。少し興味が湧いた。
それに、元来、姉御肌のマリアンヌとしては、放って置けない気持ちがうずうずと湧き上がってくる。
暫く宙を睨んだあと、マリアンヌは薄く息を吐く。
「店主に許可をもらってくる」
「本当か？」
「仕事中だから手短にすませてよね」
「ああ、もちろんだ」
頭を上げた男の顔には安堵の笑みが浮かんでいた。育ちの良さを感じさせるその笑い方に、マリアンヌは目をパチリとさせると、男が気づかない程度に唇の両端を上げる。
感謝されるのは、悪い気はしない。さて、どうして男はマリアンヌに妹の身代わりを頼むのか。
その時はただ、なんだか面白いことになりそうだ、ぐらいにしか考えていなかった。
まさかこの出会いが、マリアンヌの運命を変えるなど、思いもせずに。
お読み頂きありがとうございます。全19話（予定）
サクッと読んで頂ければと思っています。
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