前編
深く考えずにサラッと読んで、楽しんでいただければ幸いです。
場面転換が多いので前後編に分けました。
ジェニファーが、まだフローライト侯爵令嬢と世間で呼ばれていた頃の話だ。
ジェニファーの婚約者の名前は、アリスター・メイナード・アシュベリー=クリスタ。このクリスタ王国の王太子であった。
その頃の王国は、融和政策の真っ最中だった。何代か前の王が王家への権力集中を図り、貴族たちへの締め付けを強くしたが反発を買い、王家の信頼を失っただけだった。国を護る侯爵家をふたつ、犠牲にして。
残る六侯爵を懐柔しなければ今後が危ういと気づいたのがアリスターの祖父。息子の代ではすでに難しかった政略結婚だが、孫ならなんとかなると思ったらしい。運良く同じ年に生まれたアリスターとジェニファーの婚約を整えた。
アリスターは、頭は悪くないが王子らしい傲慢さを持ち、そして世間知らずの甘ちゃんであった。
「ふん、お前を妻にしてやるんだからもっと感謝してもいいだろうに」
政略結婚の意味を理解しつつも、そんなことを平気でジェニファーに言い放つくらいには甘えた男であった。
「あら、わたくしの思いがあまり通じていないようで残念ですわ殿下」
ジェニファーはジェニファーで、このようにスルーしていた。
なお、『わたくしの(感謝の)思いが』とも『わたくしの思い(が感謝な訳ねーだろ)が』ともとれるような言い方はわざとである。アリスターは間違いなく前者としか考えないので問題ない。
ジェニファーは、結婚に夢など見ていなかった。
「ジェニー、お前は賢い。上手く王太子の手綱を握っておけ。奴らは何をしでかすかわからん」
「わかりましたわ、お父様」
このような会話をする程に、フローライト侯爵家は王家を信用していなかった。
何しろ、権力の為に侯爵家をふたつも冤罪をかけて潰した王家である。
婚約を成立させたのは、クリスタ王国を護る為。これ以上、アシュベリーの名を継ぐ王族に好き勝手させない為。
それをジェニファーもしっかりと理解していた。
なので、アリスターのことは「こちらに対して高飛車に来るが、支えてやらなきゃ何もできない男」と判断し、そのように対応した。
どうせ結婚するのは変わらないのだ。それなりの対応くらい身に付ける。家族に甘えて躾がままならない小動物、くらいに思っておけば良かった。
「ジェニファー・ジャスパー・フローライト! 貴様との婚約を取り消し、ルーシャと結婚することをここに宣言する!」
だから、この騒動も、大したことはないと思っていたのだ。
夜会で傍から居なくなったと思ったら、男爵令嬢を連れて大声で言ったのが、先ほどのセリフ。
ジェニファーは「あらまあそうですの」と言うだけだった。
あら、とうとうこの王太子のフワフワっぷりが世間に知られてしまったのね、と思っただけだったので。
王家主催の夜会だから面目がつぶれるのは王家だしいっか、程度だったのだ。
幸いというか何というか、ありもしない冤罪をジェニファーにかける勇気はアリスターも無かったようで、婚約破棄の宣言と、いかにルーシャという女を愛しているかを叫ぶだけだった。
しかし、そのルーシャは顔色が悪い。ちゃんと了承をとってここに連れ出してきているのだろうか。もしやアリスターの独断ではないだろうか。それなら可哀想に。
本人は愛妾狙いだったかもしれないな、と思いながら、近衛騎士と王が事態を収拾しに来るまでひたすら男爵令嬢を同情の目で見続けてしまった。
まさか、その男爵令嬢の実家が隣国と通じ反乱を企てている、などと発覚するとは思わなかったのである。
気づいた時には、ジェニファーの婚約は白紙撤回されていた。
王太子が夜会で突飛も無い宣言をしたことで男爵家を調べたら、出るわ出るわ後ろ暗い数々。
男爵家は一族郎党に至るまで処刑された。勿論、アリスターが愛したルーシャも。
アリスターもどこまでルーシャに――隣国に染まっているかわからない為、そして国を騒がせた責任を負わせるとして、王太子から降ろされた。現在は幽閉されている。
降ってわいた自由に、ジェニファーは困惑した。
それでも、ジェニファーは今後を予想していた。アリスターには弟のアレクシスがいる。歳もさほど離れていないため、きっとジェニファーはスライドしてアレクシスと結婚するのだろう。
王妃になり、王の手綱を握ることに変わらない。
――変わらない、はずだった、のだが。
「ジェニファー嬢! あなたが好きです! 僕の妻になってください!」
「……は、あ?」
腫れ物に触るような空気の学園の中、跪き溢れんばかりの薔薇を差し出してきながら叫んだ騎士科の青年を、ジェニファーは理解できずに見下ろした。
「ノア・サリヴァンです! 騎士科の五年、一応伯爵位を継いでいます! 卒業後は騎士団入団ですが最終学年まで履修するので見習いはすっ飛ばす予定です!」
「そ、そうですの。サリヴァン伯爵、あの」
「ノアとお呼びください!」
「とりあえず声が大きいから抑えてくださる?」
昼休みの食堂という場所で、すでに注目の的なので今更ではあるが、声量を落としてもらった。
未だに花束をジェニファーに差し出し続けながら、ニコニコと笑みを浮かべる彼――ノア。
「ええと、ノア様? わたくし先日婚約が撤回されたばかりの女ですのよ?」
「つまり今フリーってことですよね?」
「あらやだポジティブシンキング」
「ヴィヴィは黙っていて頂戴」
一緒に食事をしていた親友のヴィヴィアン・オルコット伯爵令嬢の茶々を窘めながら、ジェニファーは思考を巡らせた。
サリヴァン伯爵家というと、フローライト侯爵家の派閥に属する騎士の家だったはずである。冗談で済む話ではない、ということは本気なのだろうか。
それにしては冗談みたいな状況なのだが。
「あの、父にこの話は?」
「昨日正式な申し入れはしましたが、やはりジェニファー嬢本人にもこの気持ちは伝えるべきかなと」
ポジティブなうえに中々アグレッシブであった。
「ずっと、あなたを見ていたんです。殿下の婚約者でしたから僕の思いが叶うことなど無いと思っていました。けれど、このような状況になった今、動かないなんて選択肢は僕にはありませんでした」
「……ノア様」
「あなたの見下したような視線も、冷たい微笑みも、切って捨てるようなお言葉も、全部愛しています!」
「褒めているつもりですの!?」
言い訳をさせてもらうと、視線も微笑も全部アリスターのせいである。
頭と見目が良くても自分に優しくない、傲慢で、理論が破綻しがちな男に優しくするほどジェニファーは暇ではなかった。
そして王太子の婚約者であるジェニファーは、学園の生徒たちとも必要最低限の交友関係しか築いていなかった。築こうとしても相手が遠慮してしまうのだ。
結果、皆が見るのは、アリスターに塩対応するジェニファーだったのである。
「ところでサリヴァン様、腕そろそろ疲れません?」
「剣より軽いので問題ないですよヴィヴィアン嬢」
「……ジェニー、とりあえず受け取ってあげたら?」
「……ちなみにノア様、何故この大量の薔薇を?」
「女性は薔薇が好きだと聞きましたので! 本数がどうとかも聞きましたが、とりあえずたくさんあったほうが僕の本気度が伝わるかなと」
(ヴィヴィ。この御方、アリスター殿下と別の意味で厄介じゃない?)
(この状況下で堂々と求婚している時点で厄介に決まっているわよジェニー)
二人がコソコソしゃべっている間も、腕を下ろす様子がない。
ただ、コテン、と首を傾げた。
その仕草が、屋敷で飼っている番犬の『指示に上手く従えたよね? ね?』に見えたことで、ジェニファーは薔薇を受け取ってしまった。
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「……そうか、学園でそんなことが」
「僕はその時まだ教室にいたんだけど、声だけは聞こえてたよ。多分もう学園中が知ってるんじゃないかな。いやあ熱烈だね」
ジェニファーの報告を聞いて眉間を押さえたのが兄のアレクサンダー。
楽しそうに追加の報告をするのが弟のクローディアスである。
父の侯爵はまだ王城で騒動の後処理中で不在であった。
「確かに昨日、サリヴァン伯爵家から縁談の申し入れはあった。あった、が」
「今後がまだ不透明なので正式な返事はされていないのですわね」
「そうだ」
「……不透明だからこそ、今思いっきり攻め込んできてるんじゃないかな? ひょっとして」
白紙撤回されたからこそ、ジェニファーが第二王子の婚約者になる可能性が残っている。しかし騒動が騒動だったので、ただスライドして終わりではフローライト侯爵家も納得できない。
かといって王家が誠意を見せるわけでもなく右往左往しているのが現在である。でなければ当事者の父、フローライト侯爵が後始末に奔走しているはずがない。
「正直な所、父上はジェニーを王家に入れるのはもう消極的だ。『やってられない』らしい」
「国のためでも、ですか?」
「いっそのこともう少し王家の威信を潰したほうが国のためになるのでは、とまで思っている」
「……それなら、姉上がサリヴァンと一緒になりたいって思えば、そっちを優先するってことかな?」
「そういうことだな」
「……あの方と……?」
屋敷に戻って再度ノア・サリヴァンを調べてみた。
騎士科では大変すばらしい成績を残している。それはいい。すでに爵位を持っているというのもプラスである。
ただ、評価の中に『真面目でメンタルが強い。精神攻撃を受けても気付かない。ある意味最強』という謎の文言があった。最後のは一体何なのか。
「……とりあえずジェニー。しばらく王城も騒がしいだろうから、その間ノア・サリヴァンを見定めてみろ」
「……わかりましたわ」
この日から、ノアから求婚される日々が始まったのである。