#1 境界の地
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「おはようございます。遠野樹さん、でよろしいですか?」
モザイクがかっていた意識がゆっくりと晴れていく。未だぼんやりとする頭を片手で押さえつつ、
視線を前に送る。
そこにはどこまでも続く真白な空間。地平線どころか天と地の区別もつけられない。自分が立っているのか、それとも浮いているのか。そんな異常な光景が眼前に広がっているにもかかわらず、樹の視界に映っているのは全く別の異質であった。
それはこの真白な世界においても存在を認識できる純白の翼を背中に携えていた。淡い水色の前髪の隙間からこちらを見つめる、髪と同じ水色の瞳。美少女を体現したかのようなその姿に、樹は目を離せないでいた。
「あの、、そんなに近づかれると、恥ずかしいです。」
頬を少し赤らめ、視線を少しずらす少女。気づくと樹は少女の眼前にまで歩みを進めていた。
咄嗟に
「あ、ごめんなさい。急な事で混乱させてしまいましたね。私の名前はミーディオ。樹さんの住んでる世界とは別の世界を統括している女神です。」
自身を女神と紹介する美少女に内心引き気味の樹であったが、かえってこの異質な空間と人間離れした容姿の美少女に説明がつき、胸のつかえがとれたような気がした。
それとは別に一つ。どうしても問わなければいけない疑問。それは―
「僕って、やっぱり死んだんですか?」
至極当然の疑問である。こんなあからさまに異質な現実味のない場所など、身に覚えも聞いたこともない。可能性があるとすれば、それは死後の世界だろう。
少し言い難げな表情を浮かべつつもコクりと頷くミーディオ。
―やっぱりなぁ…
というのも薄っすらではあるが、自分が死んだ原因であろう時の記憶があるのだ。
そう、あれは…
・・・
いつもと変わらない高校からの帰り道。
ふと見ると保育園の帰りだろうか。女の子が一人で歩いていた。
可愛い、いや心配だなと思った俺は、このご時世だ。事故や誘拐などの心配があると感じ、後を付いていくことにした。
途中、周囲の視線が妙に痛い気もしたが、目の前の少女の安全のためと思えばどこ吹く風だ。
横断歩道に差し掛かると、何かに気づいたのか少女が喜々として手を振り始めた。視線の先をみると
道路を挟んだ反対側に一人の女性が。きっとこの子の母親だろう。
―これでもう安心だな
踵を返し、来た道を帰ろうとしたその瞬間。少女が母親のほうへ走り出すのが見えた。信号が赤く点灯していることなど関係なく。
考えるより先に体が動くと聞いたことがあるが、まさにこの状況のことを言うのだろう。気が付くと身体は動いていた。それと同時に視界の端から迫る黒い影。なんとか届いた掌で少女の背を押すと同時に迫りくる影は俺を飲み込んだ。
・・・
改めて自分が死んだであろう事実を再確認し、ミーディオを見ると犯罪者を見るような表情を浮かべ放った。
「ロ、ロリコ…」
「決して違う!!」
この女神、不躾に何を口走ってるんだ!食い気味に言い放つ樹の背中に冷たい汗が流れた。
どうして急にそんなことを言い出したのか疑問に思う樹だったが、相手は女神だ。そもそも樹の死因から
その要因まで知っているのが当然だ。それよりも、早急にこの勘違い女の誤解を解かないと。少し荒くなった息を整える。
「僕はロリコンではありません。小さい物が好きなだけです。その証拠に性別および年齢は関係なく、あくまでその小ささに対する愛が強いというだけのいたってシンプルでノーマルな代物です。」
はっきりとした口調で弁解を試みる樹であったが、依然としてその表情から不信感は拭えずにいた。
いや、依然よりかえって警戒心が強くなったようにすら見える。
これ以上何をいっても逆効果だな。と諦め、はぁとため息を一つ吐く。これは話題を変えるしかないな。
「…俺の話は置いといて。それで僕はどうしてこんな所に呼ばれたんですか。」
至極真っ当な質問に"あっ"と声を上げると、コホンと咳を一度した。どうやら話題を刷らせたようだ。
「樹さんには、これからある場所に行ってもらい、お手伝いをしていただきたいのです。」
「…魔王を倒して世界を救ってとか、そういうことですか?」
現世で読んだファンタジー漫画に多く見られる異世界転生というやつだろうか。それならこの現状にも納得がいく。しかし、それだと女神の言った言葉の意味と少しずれている気もする。
「いいえ、違います。そのままの意味です。」
この女神は自分がどれだけ説明不足か分かっているのだろうか。現状分かっているのはある場所で手伝いをする羽目になりそうな事だけである。
正直、なぜ勝手に女神同士で俺の死後の人生を決められないといけないのか、ある場所とはどこか、期間は決まっているのか、など多々言いたいことはあるが、とりあえず…
「なるほど。うん、嫌です。」
即答である。こんな話、受ける理由がなに一つない。そもそもどうして僕なのか。まともな説明もないということは、どうせある場所というのも口に出せないような危険な…
「ある場所というのは喫茶店なのですが、まだ年端もいかない子ども達もいるので、樹さんがいれば少しは安心だったのですが…仕方ないですね。私の方から断って…」
「行きます。すぐ行きます。まだですか?僕は準備できてますけど。」
即答である。こんな美味し、もといこんな話ほっとくわけにはいかない。子ども達が僕の助けを求めているのだ。
そんな心の声とは裏腹に樹の表情は緩み切り、ニヤけが止まらないでいた。
「…やっぱり別の人に…」
ミーディオが言い終わるより早く、樹は身を翻しミーディオに駆け寄ると慌てたように弁解を始めた。
自分がどれだけノーマルであるか。また、過去に喫茶店でバイトした経験があるため有能であることなど。
「わ、わかりましたから!い、樹さんにお願いしますから!」
樹の熱量に圧倒されたのか、ミーディオは額に手を当てため息を漏らすと、決心をしたように片手を樹の方へと伸ばす。
すると、突如樹の足元に幾何学模様が刻まれた陣が現れ、淡い光が放たれる。
「向こうに着いたらメイリーンという者を訪ねてください。そこで詳しい説明をしてくれると思いますので」
その表情は慈愛に満ちた女神そのものであった。
一瞬ドキッと脈打つ鼓動を感じつつ、樹は光の中へと消えていった。