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もうひとつの日本

 済みません。

 何も言わないでください。

「兵士に聞け」シリーズのパロディだと思ってください。済みませんでした。

 白い波頭を絡め取るように吹き付けてくる二月の風は、寒いという形容詞では不十分、むしろ激痛をともなうものだった。鉛色のまだら模様の空のどこに太陽があるのかがわからず、風に混じって頬を指すのは粉雪だ。津軽海峡を通過したのが昨夜。私はいま、北海道・渡島半島沖の日本海にいる。

 海は荒れている。いや、寄港した函館の漁師に言わせれば、この程度の波は凪のようなものだという。唇の端にちびた煙草をくわえたごま塩ヒゲの漁師は、私が乗ってきた船を見上げて、「俺の船だってたいして揺れないんだ。あんたの船なら、台風の中に突っこんだって平気さ」、そう笑った。

 演歌の歌詞に歌われるような漁船では、いま目の前で荒れ狂う波頭を越えるのはたいていではないだろう。函館の漁師は強がって見せたのだ。あるいは、私が乗ってきた船へのやっかみか、皮肉か。確かに、波頭から砕けた海水が甲板に散ることはあっても、私の足許は頼もしくビクともしない。この程度の波は、この船にとって、実際「凪程度」なのかもしれない。

 横須賀を出港し、房総半島をぐるりと周り、太平洋を北上、二日かけて辿り着いた日本海に、私が乗る船……第一航空艦隊所属の攻撃型原子力空母「赤城」はいま、さらに北、宗谷海峡を目指していた。僚艦にミサイル巡洋艦「妙高」「那智」、ミサイル駆逐艦「雪風」以下数隻を従えた堂々たる艦隊。足の遅い戦艦こそ従えていないが、まさにシーパワー、一級の打撃力を誇る日本海軍の精鋭である。

 飛行甲板があわただしくなる。この荒天をついて、戦闘機が発艦するのだ。スチームカタパルトから漏れ出す蒸気。スポッティングドリーに引かれる艦載機。乗組員たちは若く、そして機敏だ。私は彼らの邪魔にならないよう、広報担当の稲垣少佐に付き従い、しぶきをかぶりそうな甲板の端にいた。

「こんな天気でも飛ばすんですか」

 私が尋ねると、稲垣少佐は力強くうなずく。

「実戦は待ってくれませんから。敵が躊躇するような場面こそ、私たちにはチャンスなんです」

「事故の危険を冒してでもですか」

「ふだんの訓練どおり、基礎に忠実に、しっかりと行動すれば、事故はありません。むしろ、事故の可能性が身近に感じられるこのような天候の日こそ、スキルアップにつながる現場なんだと私たちは思います」

 事実、事故はこうした荒天時には不思議と起こらないという。事故が発生するのは、まさに、乗組員たちが帰港を目前にした平穏な日中、気まぐれないたずら天使がそっと耳許でささやいたかのように起きてしまう。天使のささやきも、手を下してしまえば悪魔の所業と化す。ヒヤリ、ハットで済めばいいが、ひとつの不注意が、何百億もの戦闘機をがらくたに変え、前途洋々な若い乗組員を棺の中へと閉じこめる。

「松山さん、見てください」

 稲垣少佐が指さす方に、カタパルトシャトルへ固定されようとする艦載機があった。

「中西中尉です」

 私は、稲垣少佐の言葉に、高まっていくターボファンエンジンの甲高い音がふと、耳から遠ざかっていくような気がした。眼前、といっても、安全を配慮してかなりの距離があるのだが、それでも陸上基地で目にする戦闘機よりははるかに近い位置で離陸を待つ戦闘機、そのコクピットに座っているのは、あの中西中尉だ。

 中西中尉は、二五歳。「赤城」が寄港した函館市出身、おそらく同年代の女の子が見たならうらやむほどの白い肌をした好青年だ。戦闘機というより、エリート銀行マンか若き医師、そういう風貌をした彼は、実際、高校を卒業するまで、北海道大を目指していた。といっても、医学部ではなく、工学部。

「父親が、路面電車の整備員なんです。小さい頃から、バラバラになった電車の部品や、それを組み立ててしっかり走る電車を見ていたら、機械っていいなぁって」

 狭苦しい空母の談話室で話す中西中尉は、しかし私の目をまっすぐ見て話す。その瞳は、やはり、空に生きるパイロットたち共通とも言える、深く澄んだ濃い色をしていた。

 中西少尉は普通科の高校に進んだが、機械いじりは半ば趣味として忘れられず、中古のバイクをアルバイトで貯めた金で購入し、「学校には内緒で」いじり倒していた。

「乗るよりもバラバラにする方が好きでしたね」

 そんな中西中尉が工学部を目指したのも、「堂々と」機械いじりができるからという理由だった。バイクメーカーや機械メーカーに就職したいと思うよりも、指先の指紋ひとつひとつに機械油が染みこみ、生半可に洗った程度ではその色も匂いも取れないほど、毎日機械に触り続ける日々を続けたいと思ったからだった。

「でも、どうしていま、君は海軍のパイロットなんだろうか?」

 私が質問すると、中西中尉は、わかっていますよ、とでも言いたげな表情で小さくうなずくのだ。

 高校二年の夏だった。中西中尉は親戚がいる札幌へ遊びに行く。北海道に梅雨はないが、それでもその年は雨が続き、遊びに出かけた札幌の街でも、親戚の家の中で家事を手伝ったり、短い晴れ間に菜園でトマトをかじったりする程度、身体を持てあまし気味だった。そんなとき、札幌からほど近い恵庭に住む他の親類から、航空祭に行かないかと誘われる。それが、中西中尉の転機だった。

「圧倒されました」

 当日、雲ひとつもなく晴れ渡った北海道の空は真っ青で、中西中尉は同い年のいとこと連れ立ち、千歳市の空軍基地のゲートをくぐる。千歳に空軍基地があるのは知っていた。しかし、千歳といえば、北海道の空の玄関口、千歳空港があることしか印象になかった。もとよりバイクや車、あるいは路面電車など、地上を走る乗り物は身近に感じていたものの、飛行機には興味が湧かなかった。そんな中西中尉を圧倒したのが、空軍の八一式戦闘機の機動飛行だった。

「音と、速さでしたね。圧倒されたのは」

 紺色を思わせるほどの晴天に、細く鋭いヴェイパートレイルを翼から曳き、アフターバーナーのオレンジ色の炎をノズルから噴き出して飛行する空軍の戦闘機に、十七歳の中西中尉は圧倒されたのだ。

 轟音とともに滑走路を蹴立てたかと思うとまっすぐに天を目指して上昇していく戦闘機を見上げる中西中尉の首は瞬く間に痛くなる。なんという上昇力、パワーだろう。会場を高速で駆け抜けていく戦闘機のスピード。信じられないスピードだった。

 空軍戦技研究班が見せるアクロバット飛行も美しかったが、中西中尉は、現役の戦闘機が見せる驚異的なパワーとスピードに、強烈な憧れを抱いたという。

「まさに、別世界なんです。父が私に見せてくれた路面電車ももちろん機械なんです。路面電車だって、オリンピック選手が走るよりもずっと速く線路の上を走る。けれど、空を飛ぶことはできないわけです。その点、戦闘機はあの圧倒的なパワーとスピードで、自由に空を飛べる」

 中西中尉は、なんども「パワー」「スピード」という言葉を口にする。それは若者らしい感覚なのかもしれない。自分が持っていない超人的な何かに憧れる。それを自分の腕で御してみたい。

 航空祭で熱に浮かされたようになってしまった中西中尉は、空軍が会場内に設けていた入隊案内所でしっかりとパンフレットをもらってきた。勧誘担当の士官も中西中尉が高校二年生だと知るや、熱心に空軍パイロットを目指すように勧めてくれた。中西中尉は、北大工学部を目指すよりも、もうすっかり空軍の戦闘機乗りを目指す気になっていた。

「しかし……」

 中西中尉と私は、海軍の空母「赤城」の艦内にいる。二千名余の乗組員がひしめく空母の中に。ここは空軍基地ではない。

「なぜ海軍に、と。それもよく訊かれるんです」

 中西中尉は今度こそ、声を立てて笑って見せた。

 中西中尉は航空祭から帰って、両親に空軍の戦闘機パイロットを目指したいと口にする。母親は「好きなようにおやり」と素っ気ないが反対もしなかった。父親も、「中途半端な気持ちでないなら」と、賛成もしないが反対もしなかった。中西中尉は次の日から、工学部ではなく、空軍の航空学生と呼ばれるパイロット養成学校受験のための勉強を始める。中西中尉にしてみれば、そのときの学年が高校二年であったことも幸いした。これが高校三年であれば、航空学生の受験日は間近に迫り、準備どころではなかっただろうから、おとなしく北大を目指していただろう。そうした意味でも、やはりあの航空祭は転機だったと思う。しかしそれ以上に転機だったのは、空軍ではなく海軍を選んだきっかけとなった出来事だった。

「あまり威張れた話ではないのですが」

 中西中尉はやや声のトーンを下げて続けた。

「海軍に志望を変えたのは、動機が不純なんですよ」

 中西中尉が育った函館はいうまでもなく港町である。いまではトンネルの開通で役目が終わったとはいえ、かつては北海道と本州を結ぶ大動脈、青函連絡船がふ頭に並び、いまでも本州と北海道をつなぐフェリーが行き来する港町だ。津軽海峡は日本海と太平洋を隔てる重要海峡であると同時に、日本にとっても安全保障上重要な意味を持つ海峡だ。海軍の艦艇も頻繁に寄港する。高校三年のやはり夏、息抜きのランニングコースに組み入れている港近くで、中西中尉は海軍の士官たちとすれ違った。

「かっこよかったんですよ。海軍の制服が」

 海軍の制服といえば、クラスメイトの女の子も着ているセーラー服、というイメージが強かった中西中尉だが、すれ違った士官たちは、上下まぶしい真っ白の制服を着ていた。ついランニングのペースを緩め、汗を拭った中西中尉に、一人の士官が立ち止まり、「気合いを入れていけ、がんばれよ」、そう声をかけてきた。

「まるでドラマかなにかみたいですけれど」

 中西中尉に、立ち止まり笑顔を向けてきた海軍士官の姿が、たまらなくかっこよく見えたのだ。一年前の航空祭で、中西中尉は、空を圧倒的な「パワー」「スピード」で駆ける戦闘機を見、憧れた。しかし、あのとき中西中尉は、その戦闘機を操るパイロットを見ていない。パイロットスーツ姿のパイロットを見ていたなら、また海軍士官の印象も変わったかもしれない。

「いや、あの制服にはやられました」

 機械いじりと同じくらい、中西中尉は中学、高校と剣道部で竹刀を振るっている。すらりと伸びた背筋にさりげないがしかし機敏な所作、いずれもスマートで訓練されているように見えた。事実、海軍に限らず、軍の士官といえば、厳しい訓練を重ねて部下を束ねる教育を仕込まれているわけだが、港ですれ違った士官たちの立居振舞は、剣道部で礼儀作法をうるさく言われてきた中西中尉の心をつかんでしまったのだ。停泊していた艦艇の無骨だが頼もしい威風堂々とした姿にも、戦闘機とはまた違った憧れを感じたという。

「それで知ったんですよ。海軍にも戦闘機があって、戦闘機パイロットがいるってことを」

 中西中尉は、戦闘機は空軍にしかなく、戦闘機に乗ろうと思ったら空軍にはいるしかないと思っていたのだ。それは大きな誤解で、空軍ほどの規模ではないが、もちろん海軍にも戦闘機は配備されていて、戦闘機パイロットも大勢いる。そこで中西中尉は、空軍から海軍を目指すことを決意したのだ。

「父には怒鳴られましたけどね」

 空軍から海軍に志望変更したことを事後報告した中西中尉に、父は激しい言葉をぶつけたという。おそらくは、中西中尉の「浮気性」のような心変わりにたいしてだったのだろう。しかし中西中尉は言う。

「根本的な部分は変わらなかったんです。戦闘機に乗りたいっていう」

 事実、中西中尉はいま、海軍の主力戦闘機、74式戦闘機のパイロットとして操縦桿を握る。戦闘機を降りれば、あの夏の日にすれ違った士官たちと同じ、白い制服の袖に腕を通す。

「まだ頼りないと思いますが」

 制服姿を見せてくれた中西中尉は、あの夏の日の士官たちの姿を思い出すにつけ、まだ自分の姿勢がおよばないことに歯がゆさを感じる。けれど、近づこうとは思う。いつの日か、自分も同じように、街であるいは港で、高校生だった自分に毅然とした笑顔を向けられるように。

 中西中尉がコクピットに座る74式戦闘機は、風上に舳先を立てる空母「赤城」の飛行甲板にいて、いままさに、真冬の空へ打ち上げられようとしている。

 私の頬をいまだ、細かい氷の粒のような雪が刺す。空母は静止しているわけではなく、風上へ向かって全速力で航行しているのだ。戦闘機の離発艦に合わせ、合成風力を作り出すためだ。三〇ノット強、時速にして五十キロ以上。ボアのついたコートを着ていても寒い。

 中西中尉の74式戦闘機がエンジンの回転をあげる。排気管からオレンジ色のアフターバーナーの炎が見える。轟音。次の瞬間、圧倒的な「パワー」で離陸滑走を開始する。滑走と呼ぶにはあまりにも距離が短い。数秒で離陸速度に達した74式戦闘機は、圧倒的な「スピード」で、冬空を駆け上がっていく。

 僚艦を従えた空母「赤城」は、さらに極寒の宗谷海峡、樺太沖を目指して進む。


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