29.彼我の距離 -5-
カナハ嬢の瞳が悲しげに曇った。
「俺のことは、どうだっていいんです。とにかく、俺はラナンに頼まれました。彼はあなたを守ってほしいと言っていた。そして俺はそのとおりにしたいと思っている」
これ以上、この人に不幸になってほしくない。だから王子は殺すし、レオも椎葉もこの人の前からは消えてもらう。
……そうしてやるべきことがすべて済んだら、俺も、この人の前から姿を消すべきだ。
復讐だ仇討ちだと大義名分を掲げてみても、結局は私怨だ。それで人を殺すのだ。俺だって相応しい罰を受けるべきだろう。
「それは、弟のかけた呪いです」
「え?」
思わぬ言葉に視線を上げると、カナハ嬢の夜色の目がまっすぐにこちらを見据えていた。
「お気持ちは嬉しく思いますが、私はどなたかに守ってほしいだなんて思っておりません。己のことは己でなんとかします。それが私の公爵家の娘としての矜恃です。ですから」
その目のあまりの力強さに、俺はまた一歩下がって彼女との距離をとった。
誰だ、彼女のことを華奢で儚い妖精のような女性だなんて言ったのは。
俺だ。
馬鹿か。
「……弟の言葉に囚われるあまりご自身の将来を犠牲にしたりしないで、あなたはあなたの道を行ってください。あなたは殿下の信頼も厚く、すでに側近のお一人でいらっしゃる。その輝かしい道を進んで、そして、どうぞ弟の言葉などお忘れになって」
喉がひりつく。口の中がからからに渇いていた。
呆然と彼女を見つめる。
「でなければ、弟が浮かばれません。私だって……辛い」
そう言って、彼女は自嘲するように微笑んだ。
「呪いなんかじゃない」と叫びたかったが、急に気がそがれた。
辛い? 俺がラナンの今際の言葉を守ることで、なんで彼女が辛くなるんだ?
頭の中にクエスチョンマークが飛び交う。
「どうして、あなたがお辛くなるんですか」
「……どうしてか、よくお考えになってください。いずれ答え合わせをいたしましょう」
どことなく寂しげに笑う彼女が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。真なる力をもっとうまく使いこなせれば、彼女の真意がわかるかもしれないのに。肝心なときに何もわからない。
「あまり遅くなってはいけません。そろそろ戻りましょうか」
カナハ嬢はそう言って笑うと、大通りのほうに向かって歩きはじめた。その後を侍女がつき従う。侍女はちらりとこちらを見たが、とくに何も言わなかった。
歩きながら考える。
……さっきのはどういう意味なんだ。なんでカナハ嬢が辛くなるんだ。
そもそも俺が彼女を守ろうとすることを、なんでラナンの呪いだなんて言うんだ?
カナハ嬢の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
ごくごく機械的に馬車を一台つかまえ、行き先を告げる。女性二人には中に入ってもらい、自分は御者の隣に座る。
それで、ようやく息がちゃんと吸えるようになった。
「呆れ果てて物も言えんわ」
神様は開口一番にそう言った。
機嫌が悪いようで、その背後では尻尾がゆらゆらと揺れている。
なんと言えばいいのかわからず黙り込んだ。
確かにカナハ嬢から逃げるように顔をそむけた俺は、あまりに情けなさすぎた。
「いつまでうじうじと悩んでいるのだ。それとも悩んでいる自覚もないのか?」
「悩んで……?」
俺は悩んでいるのか。
確かにどうするのが一番いいのかいまだによくわからない。いや、やるべきことはわかっているのだ。
王子を殺す。王女に血を飲ませる。それだけだ。
「わかっているのであれば、やればいいであろうが。なぜ躊躇する? ほれ、今すぐ行ってあの小童を殺してこい。そのための力は与えたはずだぞ」
「でも、そうしたらカナハ様が……」
神様がぎょろりと睨めつけてきた。黄金色の竜眼が底光りしている。
「ならば、とっととジルムーンに血を飲ませてこい」
「でも、王女に血を飲ませたら、王女がレオみたいに……」
揺れる尻尾を眺めて、我ながらはっきりしない理由を口にする。
「でもでもばかりではないか」
「だって……」
「今度は『だって』か」
神様がふんと鼻を鳴らした。
その言いように腹が立って、勢いよく顔を上げる。
「じゃあ、どうすればいいって言うんですか。俺にはもうよくわかりません。わかってるんなら、どうすればいいのか教えてくださいよ。何が正解なのか、どうすれば誰も傷つかなくて彼女が幸せになれるのか、教えてくれよ!」
最後のほうはほとんど怒鳴るような調子になっていた。
またやってしまった。感情的になってもいいことなんて何もないのに。
「……知らん。子供ではないのだ、自分のことは自分で決めろ。やりたいようにやればいいであろうが。他人に理由を求めるな、他人のせいにするな。みっともない」
「他人のせいになんて……」
他人のせいにしているつもりはない。これだけは言いたかった。
むしろ俺はラナンを助けられなかった責任を自分でとりたいのだ。だから王子を殺したいし、カナハ嬢には代わりの婚約者が必要だと思っている。
「それが他人のせいにしていると言っておるのだ」
「してない」
食い気味に言い返すと、神様はこれみよがしにため息をついた。
「……まったく。だから己の内なる声に向き合えと言ったのに、すっ飛ばしよって。今のお主では話にならぬ故、我は当分引っ込んでおる。お主も勝手にせよ。だが、よいか。真なる力の練習だけは続けておけよ」
返事をするより先に、界からぺいっと放り出されてしまった。真っ暗な場所からいきなり元々いた場所に戻されたので、目が眩む。
元々いた場所──白百合寮の寮監から間借りしている部屋だ。
「……神様?」
呼びかけるも、返事はない。
室内はしんと静まりかえっていて、自分以外の気配はまったく感じられなかった。
勝手にせよと言われてしまった。あれは、つまり見離されたんだろうか。
わかっている。たぶん俺が悪い。
この世界に来て以来、なんだかんだとずっと面倒見よく相手をしてくれていたのに、俺があまりにも情けなくてはっきりしないせいで神様と喧嘩してしまった。
ベッドに倒れ込んで、顔を覆う。
……これで、俺は本当にひとりだ。




