28.彼我の距離 -4-
カナハ嬢がこちらを振り返った。俺の改まった様子が不思議らしく、ちょっと首を傾げている。
「王子殿下はあなたとの婚約を破棄するつもりでいらっしゃいます。どうぞ身辺にお気をつけください」
侍女から買い物袋を預かりながら、俺はできるだけ真摯な声を作って言った。
「……婚約破棄ですか」
彼女は特に驚いたふうではなかった。王子の様子からして、そんなこともあるだろうと予想くらいはしていたのかもしれない。
「今回のことはたまたまではなく、殿下の思し召しということですか?」
「殿下のお考えかどうかはまだわかりません。しかし後詰めがあったことと言い、先の男はずいぶん尾行に慣れているようでした。失礼ですが、よく外出されますか?」
「いえ。昨年までは弟の面会によく出かけておりましたが、今は……月命日くらいです」
……月命日。
ラナンの月命日のことで間違いないだろう。
喉がつっかえそうになったが、なんともないふうを装って頷く。
「滅多に外出されないカナハ様がお出かけされたときに限って、たまたま尾行されたと」
「つまり、あなたは何が言いたいの?」侍女が声を尖らせた。
頭一つ分低いところにある侍女の顔を見下ろす。
「な、何よ」
「……つまり、何者かがカナハ様の外出予定を把握した上で、今回の尾行を仕組んだのでは、と。そうした可能性があるので、お気をつけくださいと申し上げています」
そもそも、尾行だけで済んだのが奇跡的だった。
この侍女ひとりではごろつきの対応にいっぱいっぱいで、カナハ嬢は後詰めの男たちにさらわれていたかもしれないのだ。
「口に出すのも憚られることではありますが、貴族のご令嬢が誘拐されたとなると……」
拉致されて一時であれ所在のわからなくなった貴族令嬢がどのように噂されるかなど、目に見えている。
最後までは言わなかったが、カナハ嬢と侍女が息を呑んだので俺の言いたいことは伝わったと思う。
「そんな……」
顔色を悪くし、カナハ嬢は口元を覆って呟いた。
「もちろん、殿下のお考えである可能性もあります。俺もそれとなく聞いてみますが、カナハ様も気になることがあれば──」
「白々しいわね。さっきの男だって、殿下とあなたたち取巻きの仕組んだことじゃないの? あなた、お嬢様の味方のふりをしろって殿下に言われて来たんじゃなくて?」
話している途中で、侍女の鋭い声に遮られた。
「あなたのことなんて信用できるはずないでしょう。だいたい、異形を相手になんであなただけ無事に帰ってこれたわけ? あなた、坊ちゃまを囮にしたんじゃないの? じゃなきゃ、従騎士が異形と戦って生還するなんてありえないわ。まさか、騎士になりたいがために坊ちゃまを犠牲にしたんじゃ──」
「ハンナ、やめなさい!」
カナハ嬢が怒声を上げた。眦をつり上げ、自身の侍女を睥睨している。
驚いた。
彼女のこんなところを初めて見た。穏やかそうな彼女もこうして声を荒げることがあるんだな、と薄ぼんやり考える。
そうしていると、大きな音を立てて脈打っていた心臓が次第に落ち着きを取り戻しはじめた。
侍女ははっと口をつぐむと、「申し訳ございません!」と勢いよく頭を下げた。
「……いえ。侍女殿の疑いも、ごもっともです」
なんとかそれらしい返答を喉から捻りだす。
カナハ嬢がこちらを見た。答える自分の声がかすれていることに気づかれてしまっただろうか。
動揺を隠せているか少々不安に思いつつ呟く。
「……事実、俺はあなたの弟御を、」
助けられなかった。
ラナンを囮にしたつもりはない。だけど、異形が夢中で彼を貪り喰っていたからこそ、あそこまで距離を詰められたのも確かだ。
「いいえ、アヤト様。ユキムラ様が助けに戻ったとき、あなたは息があるのも不思議なほど危険な容態であったと聞きました。それでもなお、あの子を連れて帰るのだと言って決して手を放さなかったとも。あなたはあの子を守ろうとしてくださった。そして、私どものもとへ帰してくださった」
カナハ嬢の夜色の目が、真っすぐにこちらを見上げてくる。
「感謝しこそすれ、どうして責められましょうか。それこそ心得違いというものです。この者にはよく言って聞かせます。主である私が代わって謝罪いたします。本当に、申し訳のないことを……」
カナハ嬢がこちらへ向かって一歩踏み出した。
俺は、反射的に一歩退いた。
この人が何を言っているのかよくわからなかった。
どうして俺のことを責めない?
言っていることが理解できない。
レナル・ローレン当主代理やこの侍女のように、彼女も俺を責めるべきなのだ。そうして当然だ。
この人には俺を罵る権利がある。お前が悪いのだとお前のせいで弟は死んだのだと、声高に糾弾する権利だ。
少なくとも弟を死なせた罪を償えと言ってくれたほうが、俺はきっとずいぶん楽だ。
……だって、そうしたらなんだってできる。
何もかもを犠牲にして、犠牲を犠牲とも思わずにひた走ることができるのに。
俺は、もう一歩彼女と距離をとって頭を振った。
「感謝も謝罪も、一切必要ありません」
そしてなんとか絞り出すようにそれだけ言った。




