26.彼我の距離 -2-
「ええ、そうね。でも姫巫女様はどうしても今日と仰るし、……私もここ最近は気づまりで。少し外の空気を吸いたい気分だったの」
彼女のその憂うような口調に胸が痛む。
「お嬢様……」
侍女が眉尻を下げた。
「では、あのいけ好かない姫巫女の用事とやらは早急に済ませましょう。そして、その後は私のカフェ巡りに付き合ってくださいませ」
「カフェ巡り?」
「はい。最近はルードルフ家の店以外にもああした形の店が増えてきたのですよ。中にはシャザラーヌ風の料理を出すところもあって、きっと気分転換に──」
彼女らを尾行していたごろつきが動いた。
「お嬢様」
同時に侍女がカナハ嬢に注意を促す。
思っていたよりも侍女の気づきが早い。公爵家に仕えるだけあり、さすがに優秀だ。
「どうしたの?」
「申し訳ございません。気づくのが遅れました。つけられています」
「……尾行? どうして」
「わかりません。ですが、私に万一のことがあれば、できるだけ人通りの多いほうへお逃げください」
カナハ嬢が息を呑んだ。
「いけません」
「お嬢様、お聞き分けください。あなたにまで大事があれば、御家が──」
侍女がカナハ嬢を説得するより、ごろつきが現れるほうが早かった。路地の角からぬっと現れ、酔っぱらったふりで彼女たちにぶつかろうとする。
侍女がカナハ嬢の肩を抱き寄せ、さっと避けた。やはりかなりできる人だと思う。
だが女性と男性とでは体の大きさが違いすぎる。相手の胴回りは彼女の倍ほどもあるのだ。素手では厳しいはずだ。
「お嬢様、私の合図でお逃げください」
侍女も察したようで、緊張した面持ちでそう囁く。
だけど、きっとそれこそが相手の狙いだ。ここでカナハ嬢がひとりになっては、たぶんよくないことが起こる。
なんとなくだが、エルネストとアーヴィンが噛んでいそうな気がした。特にあの眼鏡は、こういういやらしい手口が好きそうだ。
「姉ちゃんたち、えらい別嬪さんだな。ちょっと付き合って──」
男が口を開き、彼女たちに向けて手を伸ばす。
ほとんど同時に、俺は屋根を蹴って路地に降りていた。
カナハ嬢と男の間に体を入れ、相手の毛むくじゃらの腕をひねる。
「いってえ!! なんだ、お前! どこから湧いて出やがった!! いてえよ、離せ!」
湧いて出たというよりは降ってきたというほうが正しいのだが、説明してやる義理もない。
声がでかい。あまりにうるさいので、ひねり上げていた腕をいったん離した。
「……この人たちは俺の連れだ」
「連れだァ? あんた、ついさっきまでいなかっただろうが」
手をさすりながら、男が怪訝そうに言う。
「どうしてここに……?」
俺が後ろ手に庇ったカナハ嬢も、怪訝そうな度合いならば同じくらいだ。
「尾行されているようだったので、僭越ながら様子を見ていました」
「嘘。あなたの気配なんて、全然……!」
声を高くした侍女を横目で見る。
「他にも二人つけていましたよ」
「ふ、二人も?」
呆然と呟く侍女に頷き、再び目の前のごろつきに視線を戻した。
「……にいちゃん、何者だ?」
「同じことを尋ねよう。あんたたち、いったい誰に頼まれた?」
聞きながら、ごろつきとの距離を一歩詰める。相手が一歩退く。また詰める。
壁際まで追いつめると、ごろつきが叫び声を上げながらナイフを振りかぶった。ベルトに挟んでいたらしい。
その手を掴み、ちょっと力を入れる。相手はそれだけでナイフを取り落した。
一瞬だけ目を瞑り、落下するナイフを頭に思い浮かべる。地面に落ちたナイフが侍女の足元へ転がるイメージ。ただし、不自然に見えてはいけない。
現実のナイフが、想像したとおりの軌道で転がっていく。侍女がすかさずナイフを拾い上げた。
──うまくいった。
まだまだ練習中なので立派なことはできないが、こういうとき外向きの真なる力は便利だ。
「痛い、痛いって!」
ひねり上げた腕にじわじわ力を込めると男が悲鳴を上げた。
「言えば離す。誰に頼まれたか言え」
「言えねえ! 言ったら殺される。離してくれ! なあ、離せって!」
ずいぶんと不思議なことを言う男だと思った。話せば殺されると言うが、話さなくても同じような目に合うとは考えないんだろうか。
首を傾げると、相手が「ひぃ」と情けない声を上げた。
そんなに顔色を悪くするくらいなら、とっとと話せばいいのに。
それでもなお男を眺めていると、
「……その辺りで、おやめくださいませ」
カナハ嬢の硬い声音が響いた。
振り返ると、見慣れたやや硬い表情で彼女がじっとこちらを見つめていた。
「私たちは無事です。ぶつかったわけでも、暴言を吐かれたわけでもありません。ですから、もうその辺りで」
「……わかりました」
あなたがそう言うなら。
手を放してやると、男はこけつまろびつ路地の向こうに姿を消した。そのあとは待機していた二人と合流したようだ。
男たちの気配を追いきれなくなった地点を覚え、俺は改めてカナハ嬢と侍女に向き直った。




