25.彼我の距離 -1-
とんでもないことを言ってしまった。
言うに事欠いて、エルクーン国王のことを「くたばりかけの男」と評した。間違いなく不敬罪だ。なんの言い逃れもできない。
王妃は、ぽかんとした表情で俺を見ていた。
……うん。これでも反省はしている。余命にかぎりのある国王のことをどのように思っていても、心の中に留めている分には問題ない。俺の自由だ。
だけど口に出してしまうのはよくない。まったくもってよくない。
王妃が聞きとがめれば、全部終わりだ。
だが、意外にも王妃はくすくすと声を上げて笑いはじめた。
「あなたったら、おかしい。陛下をそんなふうに……ふふっ」
えらくツボに入ったようで、目に涙まで浮かべて笑っている。
「……申し訳ございません。口が滑りました」
王妃はなおも笑いながら、「ええ、そうね。今のは聞かなかったことにいたします」と頷いた。
つまり無罪だ。王妃が心の広い人でよかった。
「王女殿下との婚約のことは、少し考えさせてください。急すぎて……」
「いいでしょう。ですが聖花祭のころまでには心を決めてください。あの宴で王女のパートナーとなる殿方が、王女の将来の伴侶として目されるのですから」
当然そういうことになるだろう。
それまでには俺も覚悟を決めなければいけない。
カナハ嬢への恋慕を隠して王女のパートナーになり、同時に血の主となる覚悟を、だ。
不意にちくりと胸が痛んだ。本当にそれでいいのかという不安がよぎる。
この場合、王女には俺の目的のために犠牲になってもらうことになる。
……犠牲、だと思う。王女が幸せになれるはずがないからだ。
国自体をどうでもいいと思っている俺のような男と一緒になって、おまけに血まで飲まされるなんて……。たとえそれで体が丈夫になっても、生じた絆で自由意志が制限されるのでは意味がない。
神様の言うとおり、俺の王子への憎悪は王女にもきっとよくない影響を与えるだろう。俺のどろどろとした気持ちは、きっと彼女の性質を変えてしまう。
ふと疑問が生じた。
……俺のやろうとしていることは、本当に正しいことなんだろうか。
王女が前のめりになって国の未来を語る姿を見た。自分のせいではないのに、体が弱いことで迷惑をかける、と心細そうに謝る姿を見た。
猫のように無邪気にこちらを見上げてくる様子が脳裏を過った。「好き」という言葉をはっきりとは言えず、なんでもないとごまかす横顔も。
一方の王妃は、娘を放って死のうとしている以外はそこそこ話の通じる人だと思う。俺が例の取引を持ち掛ければ、今なら乗ってくるだろうとも思う。少なくとも他人には漏らさないはずだ。俺も王妃の急所を掴んでいるからだ。
……だけど、本当にそれでいいのか。
急に迷いが生じた。そして、身動きがとれなくなってしまった。
結局血の話を持ち出すことができず、俺は中奥の王妃の部屋をあとにした。
久々に戻った自室だというのにその夜はどうしても眠れなかった。
異形討滅から帰還した翌日は予備日──つまり通常は非番になる。俺も例に漏れず休みになっていて、この日は前々から写本師について調べる予定でいた。
ひとまず写本師に依頼があるというていで組合を訪ね、公文書の偽造なんかを請け負ってくれる者がいないかカマをかけるつもりだった。
何か変装でもしたほうがいいのかと思ったが、変な仮装で怪しまれてもよくない気がして、普段着で出かけた。
一番近いところで馬車を降り、組合があるという細い通りに向かって進んだ。
緊張していた。
探偵のような仕事が今の睡眠不足の状態でこなせるのか、まったくもって自信がない。
そもそもこの世界の習慣にもまだあまり慣れておらず、こうして歩いているだけで初めて見るようなものがたくさんあるのだ。
あるいはラナンが一緒であれば、とふと思う。物知らずの俺に鼻高々になっていろいろと教えてくれたことだろう。
なんなら、こういう仕事にもやたらと手慣れていそうだ。紛れもなく公爵家の次男なのに、俺などより探偵業がうまかったりして……。
亡くなった人のことをぼんやりと考えていたからか、不意に懐かしい栗色の髪が視界の隅を過った気がして、思わず振り返った。
心臓が一瞬止まったかと思った。
まさか、ラナンのはずがない。髪の色がただ似ているだけだ。
女性だった。栗色の髪を町娘らしく一本で結わい、若い平民が好むような服を着ていた。少し遠目なので、目を細めてよくよく見る。
カナハ・ローレン公爵令嬢、その人だった。初めて訓練所で会った、あのときと同じような平民風の服を着ている。
……なんで、こんな場所に彼女がいるんだ。
まさかひとりかとぎょっとしたが、さすがに違った。隣に侍女らしき者の姿がある。こちらは武芸の心得があるらしく、足運びが独特だ。
小さな手芸用品店が立ち並ぶ雑多な通りだ。こんな場所にいったい何の用で、としばらく観察していると彼女たちを尾行している男がいることに気づく。
人目がないのをいいことに、屋根の上にのぼらせてもらった。
そこから路地を見下ろす。
二人、……いや三人だ。二人一組かと思いきや、最後の一人は尾行者二人とカナハ嬢、両方を視界に入れられる位置をキープしている。
ずいぶん手慣れているようだ。
二人組のほうは没個性的、いたって普通の若者風の出で立ちだが、もうひとりは典型的な飲んだくれかごろつきといった姿だ。
これは、あれかな。
飲んだくれ風の男が彼女たちに絡んで、そこに通りかかった二人組のほうが助けに入る、マッチポンプ式のナンパ。いや、ナンパにしては尾行の質がよすぎるか。
少し距離を詰めて耳をそばだてると、カナハ嬢と侍女の会話が漏れ聞こえてきた。
「……だいたい、どうしてお嬢様がわざわざこんな場所に。他の者にお任せになればよろしかったのに」
「ええ。でも、今日出られるのは私だけだったから」
「天雎祭などまだ先ですし、別に急ぎの用ではないのですから、誰かに外出届を出させればよかったのです」
それで、二人がどうしてこんな場所にいるかおおよその答えは得られた。
天雎祭の準備のためらしい。




