9.分水嶺のありか -後-
「……返せよ」
ようやく絞りだした声は、ちょっと掠れて震えていた。
「えっ?」
なにを言われたかわかっていないようで、椎葉が笑顔のまま顔を上げて俺を見る。
その顔が、俺の怒りをことさら助長させた。
「返せって。他人のデータ見るの、そんなに楽しい?」
「あ、礼人くん怒ってる……? ご、ごめんね。もしかして見られちゃ困る画像とかあった? そうだよね、男の子だもん。そういうのの一つや二つくらいあるよね」
そういうのってなんだよ! ねえよ、そんなもん!
「あるわけないだろ。俺が言ってるのはそういうことじゃない。事務官のあんた、あんたが仕事だからって依頼するなら見せてやる。だけど椎葉。お前のそれは、違うだろ」
どうしても抑えられなくて、怒りの滲んだような言い方になってしまった。
女に向かってこんなふうに言うのはよくはないと思うけど、ちょっと我慢できなかった。
「ご、ごめんなさい……そ、そんな、怒るだなんて思わなくて……ごめ、ごめんなさい」
泣きそうになりながら謝ってくる。それなのに不思議なくらい心が揺れ動かなかった。
それどころか、どちらかというと俺はいまだかつてないくらい残酷な気持ちで頭を下げる椎葉を見ていた。
そもそも、お前のせいじゃないか。お前のせいで、俺は来たくもない異世界に来るはめになった。お前があのとき、めんどくさいことを言ってこなければ、俺は無事に家に帰れていたし、今頃はまた学校に行っていたんだ。
「ごめ、ごめんなさい。さくらが、悪かったの。どうしたら許してくれる? さくら、みんなと仲良くしたいだけだったの。ごめんなさい、お願い許して。ごめ、ごめ……」
椎葉もだんだん興奮してきたのか、また一人称が変わった。しまいには、わっと泣き声を上げて、なにを言ってるんだかわからない状態になる。
カルカーン王子がため息をつきながら泣き崩れた椎葉を抱き寄せた。それでもなお椎葉は泣き止まず、王子の肩に顔を埋めながらぐすぐすやっている。
「まったく、女をここまで泣かせるとはな。お前、本当に屑だな」
「……は?」
お前に言われたくねえよ。
反射的にそう返しそうになったが、それは耐えた。
黙って、テーブルに置かれたままの自分のスマホに手を伸ばす。王子がこちらを睨んでいるのはわかっていたが、目を合わせるとまた蛇に睨まれた蛙みたいになってしまう。無視する形にはなるが、スマホの回収を優先したのだ。
が、その俺の手を阻むものがあった。
一瞬の間に、柔道の技を決めるみたいにしてテーブルの上に引き倒される。
「痛ッ……!」
なにが起きたのかわからなかった。
気がついたら右の肩から肘と手を背中側に捻り上げられ、ついでに頭も上げられないよう上から押さえつけられていた。下手に動けば肩が外れそうだ。
「殿下を無視するのはよくないよ。殿下、こいつどうします? 不敬罪でしょっぴきますか?」
頭の上からレオの声が降ってくる。
カルカーン王子や椎葉、そして事務官は視界の中に収まっている。いないのは、レオだけだ。つまり俺に現在進行形で関節技をきめているのはレオということになる。
全然見えなかった。なにをされたのかもわからなかった。
「不敬罪とするには足りないな。調査に非協力な上、女を泣かせた……これに罪名があるなら、今すぐ兵を呼ぶが」
さっきのあれの、一体どこが調査なんだ。椎葉と一緒になって他人のプライベートを覗き見して、挙げ句に笑っていただけじゃないか。
「じゃあ、お咎めなしってことですか? 納得いかないなあ」
「対応は追々考えるさ。少なくともサクラとは引き離す」
不満そうなレオを王子が窘めた。
「事務官、今日の調査は終わりだ。こいつの荷物を持っていけ」
「しかし……」
「いいから、持っていけ。もちろん、そのすまほも含めてだ」
頭を押さえつけられ、口を挟めないでいる間に物事が進んでいく。
テーブルの上に転がっていたスマホを、事務官が恐る恐る手に取り、教科書の入ったリュックやらと一緒に箱へ入れ、鍵をしている。一応、関係者以外には触られないように配慮してくれているらしい。
その配慮、どうせなら椎葉と王子が笑いながら俺のスマホをいじってるときに見せてほしかった。だがまあ、事務官なんてきっとサラリーマンと同じようなもんだ。偉いさんには逆らえないのもわかる。