20.カナハ・ローレン -6-
椎葉と一緒に学園に来て、一週間と少しが経った朝、
「……あの、どうしよう。明後日の孤児院訪問なんだけど、行ったら駄目って言われちゃった」
いきなりそんなことを言われて俺は目を瞬いた。
「誰にですか」
「カナハ・ローレン公爵令嬢……」
寮から出てきたばかりのカナハ嬢をちらりと見やる。
彼女は椎葉が編入して以来ずっと寮を出るタイミングを合わせてくれているらしく、毎朝ここで顔を合わせる。
できるだけ顔を合わせないようにしようと思っていた手前、不謹慎ではあるが……ちょっと役得だと思っている。
ただし、その表情はいつも硬い。仮面でも被っているかのようだ。
「外出の届出は、我が白百合寮では少なくとも一週間以上前に出していただく決まりになっております。姫巫女様が明後日の届けを出してくださったのは昨晩。寮監、寮母とお話させていただいたとおり、この規則に例外はございません」
そういうことか。
すぐに得心がいった。
王立学園の生徒は学外に出かける際、必ず外出届を出さねばならないと決められている。届け先は所属している寮だ。何日前には出さねばならないという期日があって、これは所属寮によって異なる。
「だって、知らなかったんだもん! だいたい、一週間前って早すぎるよ。私がここに来たの、九日前なんだよ。そんなのわからないに決まってるじゃん」
椎葉がカナハ嬢を振り返って言った。生垣の小路に思いのほか声がよく響く。
「ね、礼人くんもそう思うでしょ。だってリリアーヌのところは三日前でいいんだよ。一週間前なんて、早すぎるよ」
そんなことを言われても、規則は規則だ。
例外は認めないと先手を打たれている以上、届出が出ていない椎葉は外出できない。
「……孤児院には、今日中にキャンセルの連絡を入れます」
「そんな!」
悲壮な顔の椎葉を促し、小路を歩き始める。
無理なものは無理だ。ゴネても仕方がないし、そうやっている時間が無駄だ。キャンセルの口実を考えるほうがまだしも建設的だろう。
「汲んでいただき、ありがとうございます」
「いえ」
俺が頭を振ると、カナハ嬢は「ではお先に」と言い残して足早に去っていった。
「……何あれ、感じわるっ」
彼女の背を見送りながら、椎葉が口を尖らせる。
「仕方ありません。次回から気をつけましょう」
「カーンと出かけられるの、楽しみにしてたのに」
とは言っても、すでに済んでしまったことだ。どうしようもない。
「なんとかならないか、カーンに手紙を書いてみる」
「……殿下に?」
足が止まった。
「明後日、どっちにしてもカーンはここに来るでしょ。頼んでおけば、そのときになんとかしてくれるかもしれない」
……さもありなん。王子がゴリ押しする未来がなんとなく見えて、ちょっとだけ頭が痛くなった。
問題の当日、レオと共にやってきた王子はさっそくカナハ嬢をカフェテリアに呼びつけた。
授業のない休日ではあるが、昼時ということもあってちらほらと他の生徒の姿もある。教養のある貴族子弟のことなので露骨に騒ぎはしないものの、全員が耳をそば立ててこちらの様子を窺っているようだった。
「お呼びとうかがいましたが……」
「ああ。まあ、座れ」
腕組みをしたまま、顎先で椅子を示した王子はどこまでも不遜に見える。機嫌の悪いアピールも露骨だ。
「こうして呼ばれたことに心当たりがあるのではないか?」
「ございません」
「しらばっくれないで。外出届のことに決まってるでしょ」
「……ああ、そのことでしたか。しかしながら、規則は規則ですから」
一方のカナハ嬢はいたって冷静だった。
「だったら、私を紅薔薇に変えてよ」
「……その権限は私にはございません。総寮監にお伝えくださいませ」
「初日に言ったよ、そんなの。でも変えてくれないからこういうことになってるんじゃない」
「では、それが総寮監の決定ということではございませんか? いずれにせよ、所属寮の変更は私の裁量の範囲外です」
堂々巡りである。椎葉の言うことに理はないし、申し出る先も間違えているのだから当然だ。
「もういい、サクラ。ローレン公爵令嬢、あなたの言い分はよくわかった。要するに、あなたは竜の巫女の公務よりも規則のほうを優先するということだな?」
王子は金の竜眼を眇め、ことさら冷たい口調で言った。
……その論旨のすり替えは、ずるいと思う。
「それは……」カナハ嬢が言い淀んだ。
「であれば、例外を認めてもいいのではないか? 竜の巫女が訪ねるだけで、孤児院への寄付がどれほど増えると思うのだ。新しい毛布を孤児全員に与えられる、毎日の夕食の品がひとつ増える……そうした機会を奪う権利が、あなたにあるのか?」
周りの生徒たちが互いの顔を見合わせた。やがて王子の言い分にも一理あるのでは、というような表情を浮かべる者が出てくる。
「規則がそんなに大事か。孤児院の子供たちの笑顔を守るよりも、大切なことなのか。よく考えてみろ」
カナハ嬢はそっと目を伏せると、深く息を吐いた。それからしっかり王子と目線を合わせ、
「……この場では返答いたしかねます。寮監、寮母と再度相談し、回答申し上げます」
と答えた。そのまま王子に押されてしまうのかと思ったが、先延ばしにしたあたりはさすがだと思う。
王子がふんと鼻を鳴らした。
「白百合の寮監と寮母が賢明であることを祈ろう。今回は致し方ない。サクラ、行くぞ」
そう捨て台詞を残し、椎葉とレオを率いてカフェテリアを出ていく。椎葉の孤児院訪問がなくなったので、学園で適当に過ごして帰るつもりなんだろう。
俺は取り残されたカナハ嬢を振り返った。
彼女はひとりぽつねんと立ち尽くしていたが、やがて顔を上げて歩きはじめた。
すれ違いぎわ、彼女と目が合う。
「すみません。外出届のことは今後よく気をつけます」
声をかけるべきかどうか少し躊躇われたが、気がつけばそのように言って頭を下げていた。
俺だって椎葉にきちんと外出届を出しているか確認しておけばよかったのだ。椎葉の性格はよくわかっているのに、そこまで気が回っていなかった。今回のこれは他人事ではなく、俺の失敗でもあった。
カナハ嬢は足を止め、軽く目を瞠って俺を見た。夜色の瞳がわずかに揺らぐ。
「……あなたのせいでは、ありませんから」
そうして俺へ向けてひと言だけ囁いたかと思うと、そのまま去っていく。
さすがにもう一度声をかける勇気はなく、今度は黙って見送った。ここに来てから、彼女の遠ざかっていく背中ばかりを見ているような気がした。




