19.カナハ・ローレン -5-
環境が変わっても日課は変えない。朝一番の走り込みをこなしたら次は真なる力の練習だ。
とはいえ、精神統一や瞑想をしようとするとどうしてもラナンの顔が思い浮かぶ。まったくうまくいかない。なので今日はいさぎよくその段階をすっ飛ばしてみることにした。
テーブルの上に万年筆を出し、自分はベッドの上であぐらをかく。目を閉じた状態で深呼吸する。出しておいた万年筆を、できるだけ鮮明にまぶたの裏に思い浮かべる。
それが、転がるイメージだ。奥に転がるのか、手前に転がるのか。なんとなく手前がいいような気がした。
イメージの中の万年筆が、こちら側にころりと転がる。
同時にことんと現実の物音がして、目を開けた。
テーブルに置いていた万年筆の位置が、確かに変わっている。
「おお」
思わず感嘆の声が漏れた。
一番最初の段階をすっ飛ばしてしまったが、とりあえず関門突破だ。
何度かそうやって万年筆を転がしている間に、ちょうどいい時間になっていた。
家主である寮監に挨拶し、白百合寮の門前へ向かう。
木陰で椎葉を待っていると、何人かの女生徒が俺の前を通り過ぎていった。登校にはかなり早い時間だが、教室で予習でもするのか、それとも運動系の同好会の朝練だろうか。
こちらをちらちらと窺い見る視線を感じつつ、目が合わないようにやや俯いた。そこそこの人数が歩いていくが、だいたいみんな似たり寄ったりの反応だ。
中には通り過ぎた後に「あれが……」「姫巫女様の……」と囁きあう生徒もいる。聞こえていないと思っているんだろうが、言わずもがな筒抜けだ。
非常に気まずい。カナハ嬢には目立たぬようにと言われたし、自分ではそういう場所を選んだつもりだったが、これではすでに失敗している気がした。
女子校に迷い込んだことはないが、それに似たような居心地の悪さを感じる。
朝四つの鐘が鳴って少ししたころ、ようやく椎葉が姿を見せた。
椎葉の姿を見てこれほど嬉しかったことはない。これで落ち着かない気分から解放される。
「礼人くん、おはよう!」
「おはようございます」
椎葉と椎葉の後に続いて出てきたカナハ嬢、他何人かの女子生徒に頭を下げる。
今日は椎葉も他の生徒たちと同じ黒い制服を着ている。胸元に光るのは、白百合寮のバッジだ。
もちろんカナハ嬢も同じ制服だ。ただ彼女は寮長だからか、それとも特待生だからか、他の生徒にはないケープを羽織っている。
それが控え目に言ってもとてもかわいい。かわいいのに清楚だ。
制服っていいものだったんだなあ、とおじさんのようなことを思ってしまった。
「制服どうかな? 似合う?」
「……はい、とても」
尋ねてきた椎葉に頷く。
昨日はそんな感想を抱く余裕がなかったが、改めて朝日の下で見るカナハ嬢にはとてもよく似合っていた。
放課後、すべての授業を終えた椎葉は抜け殻と化していた。朝の元気な様子はどこへやら。
椎葉の姿を見て、リリアーヌ嬢やエルネスト、アーヴィンが苦笑いしている。
「つっかれた~! 歴史も物理も全っ然わかんない!」
「外国語と言語学は素晴らしかったですよ」
外国語や言語学なら自分と同じ、一番上のクラスを受講できるのでは、とエルネストが言う。
超越者の能力として言葉の壁は取り払われているので、椎葉に外国語ができるのは当然と言えば当然だった。
「ですが、気合いを入れてくださいね、サクラ様。来週からは週末ごとに慈善事業を行ってもらいますし、お勉強も礼儀作法ももう少し頑張ってもらわねば」
エルネストに口うるさく勉強や礼儀作法を頑張れと言われ、椎葉は心底嫌そうな顔をした。
「でもこの国の歴史なんて知らないし、物理なんてそもそも習ってなかったし。それに礼儀作法も苦手なんだもん。いちいち優雅なお辞儀なんてしてらんないよ」
「礼儀作法は繰り返し練習して身につけるしかないですから。竜の巫女こそ殿下に相応しいと貴族に認めさせるためです、頑張ってください」
「はぁ〜い」と言いながらテーブルの上にぐてっと突っ伏す椎葉に、俺以外の全員が再び苦笑いを浮かべた。
「それから騎士アヤト、君にも今後のことを話しておきましょう。レナル殿に動いてもらうのは、最後の詰め……つまり年明けのころを予定しています。その前に、まずは人の出入りが多くなる天雎祭です」
エルネストの言う天雎祭とは、ようするに学園祭のことだった。寮別で演劇や歌劇、音楽──そういう出し物をして、得点を競うらしい。
この日だけは、普段入退場の管理が厳しい学園が一般に開放される。招待状が必要だが、逆に言うと生徒や講師陣からの招待状をもらった客ならどこの誰であろうが学内の施設に出入りできるようになるのだ。
「サクラ様には、この天雎祭で襲われてもらいます。あくまでふりです。アーヴィンの家から暴漢役の男を手配してもらう予定です。これはもちろん君に取り押さえてもらいます。そうして捕縛された男が持つ招待状にはカナハ・ローレンの名……どうです?」
どうもこうもない。
要するに馬鹿馬鹿しい茶番劇を仕掛けようと言うのだろう。
「ああ、君は男を取り押さえてくれるだけでいいです。当日は殿下にもおいでいただくことになっているので、君が演技や長口上をする必要はないです。それでいいですね」
いいですねと言いつつ、俺の返答はまったく求めていないような口ぶりだ。
「その招待状は……」
首を傾げると、
「俺が用意する。写本の専門家に伝手があるんだ。裏で公文書の偽造も請け負うやつだから、招待状の偽造なんて朝飯前だ」
すかさずアーヴィンが答えた。
なるほど、写本の専門家。公文書の偽造なんて完全に犯罪だと思うが、世の中にはそうしたことを仕事にしている人間もいるらしい。
冤罪の証拠としておさえたいところだが、いかんせん手が足りない。というか体が足りない。
俺がもうひとりくらいいて、学園の外で自由に動いてくれるのが一番いいんだけど、と思うくらいには足りなかった。




