18.カナハ・ローレン -4-
エルネストとアーヴィンともここでお別れだ。
「僕たちもここで。サクラ様、また明日お会いしましょう」
「また明日な」
「うん! 明日からよろしくね」
男子寮のほう去っていく背を見送り、椎葉と二人で白百合寮へ向かう。
小路をしばらく行くと、生垣の向こうに大きな洋館が見えてきた。規模で言えば、ゲレンデのちょっとしたホテルくらいはある。壁には小さな花の咲いた蔦植物が絡まっていて、趣のある建物だった。
入口には白百合寮の生徒たちがずらりと並び、椎葉の到着を待ち構えていた。下は中学生くらいから、上は俺と同い年くらいまで、みんな揃いの制服を着ている。
その中からカナハ嬢が一歩前へ進みでて、優雅なカーテシーをした。礼儀作法の講師のお手本よりなお美しいカーテシーだった。
「お待ちしておりました、姫巫女様。我ら白百合寮生一同、こうして姫巫女様をお迎えできて大変嬉しく思います」
「……ありがとう。短い間だと思うけど、よろしくね」
椎葉が複雑そうな顔でそう言うと、ほとんどの寮生が目を丸くした。が、ここでざわついたりしないあたり、さすが皆さん育ちのいい貴族のご令嬢だ。
「よろしくお願いいたしますね。この子たちが寮内をご案内いたします。さあ、どうぞ中へ」
「うん……」
カナハ嬢や他の寮生に促され、椎葉はおずおずと不安そうに歩いていく。
椎葉にも心細くなることがあるんだなあ、とぼんやり見送っていると、不意に椎葉が俺のほうを振り返った。
「礼人くん! 明日はちゃんと迎えにきて、ここで待っててね!」
ぱたぱたと走り寄ってきて、こちらの手を握りながらそんなことを言う。
もちろんすっぽかしたりしない。仕事だからだ。わざわざ戻ってきてまで念押しされるようなことでもない。
椎葉の挙動を疑問に思いつつ頷く。
椎葉はそれで満足したらしい。満面の笑みを浮かべてこちらに手を振ると、寮の中に入って行った。
立ち止まり、興味深そうにこちらを見ていた他の寮生たちもその後に続いて姿を消す。
カナハ嬢だけがその場に留まった。
……二人きりになってしまった。
「騎士様、明日は何時ごろにこちらへ?」カナハ嬢が言った。
尋ねてくるその表情、声、どちらもやや硬く、よそよそしく事務的に感じられる。
ラナンのことがあるので当然だと思う。むしろ無視せずに会話してくれるだけましだ。
「朝三つ半には」
「では、寮生にはそのように通達しておきます。申し訳ございませんが、できるだけ目立たぬようにお願いいたします。騎士の方を見るのは初めてという者がほとんどですし、異性と気安く接したことのない者もいますから……」
そう言われて初めて、椎葉と自分のさっきのやり取りが貴族の令嬢たちの目にどう映っていたのかを自覚した。
元の世界とは違う。昼ひなか、人目のあるところで男女が手を取り合うだなんて、未婚の貴族女性からするとさぞかし奇異な光景に見えただろう。
きっと、カナハ嬢からも。
「……ご迷惑をおかけしないよう、重々注意します」
俺がそう言うと、カナハ嬢は小さく頷いて踵を返した。
彼女の背で淡い亜麻色の髪が揺れる。その拍子に香水だろうか、甘い花と柑橘の混ざったような香りがふわっと漂ってきて、思わず目を瞠った。
「……カナハ様」
気がつけば彼女の名を呟いていた。
「はい」
その声が聞こえたようで彼女が振り返った。
しまった。今のは完全に無意識だった。
何か話そうと思って呼び止めたわけではない。彼女の名前がなぜか口から出てしまっただけだ。
どうしよう。呼び止めたのに用事はありませんなんて失礼すぎる。なんでもいいから話題を……。
焦っていると、カナハ嬢が小首を傾げた。その表情はさっきと比べて少しだけ柔らかくなっていた。
ふと、初めて会ったときのことが思い起こされた。
あのときもこの人は、ハンカチを前にしどろもどろになっている俺を見てちょっとだけ首を傾げたんだった。それから、高そうなハンカチをいきなり水浸しにした。
カナハ嬢の唇が綻んだ。彼女ももしかしたら当時のことを思い出したのかもしれない。
その表情の変化にいくぶんか勇気づけられて、俺は緊張しながらも口を開いた。
「あの、他にも何かお困りのことがあれば、ぜひ教えてください。その、サクラ様のことでご迷惑をおかけしますので」
こう言うことで、会話のきっかけになればといいと思った。
だが、彼女の表情はすぐに元に戻ってしまった。
やっぱり、俺と個人的な話なんてしたくないだろう。さっき口元が微笑んだように見えたのは、きっと俺の願望が見せた幻だ。
……調子に乗らなければよかった。
「お気遣い感謝いたします。ですが、今のところはございません。それでは」
優雅にお辞儀をして、彼女は今度こそ去っていく。
その細い背中が完全に見えなくなるまで見送り、俺もその場を後にした。
迷惑がられるだろうことはわかっていた。当たり前だ、歓迎されるはずがない。
彼女からすれば、俺はラナンと共にいながらひとりだけ無事で帰ってきた男なのだ。彼女の兄と一緒に罵ったりはせずとも、内心に思うところがないはずがない。
できるだけ彼女の視界に入らないように気をつけるしかなかった。




