69.瞋恚の炎 -5-
俺は、いつものなにもない真っ暗な界にいた。
今度は一人きりではなく、目の前に竜の形態をとった神様が鎮座している。
「……お主の考えていることは、よくわからん。なぜ大人しくあの者どもに飼われるふりをする? ヒトにしては気が長すぎる」
そう言う神様は、どことなく呆れているようだ。
「気が長いつもりはないです。俺だってあんなやつら、今すぐ死んだらいいと思う」
あいつらはラナンを殺したんだ。なのに平気な顔をして笑っている。許せるはずがない。特に王子は、何度殺したって殺し足りない。
「でも、駄目なんです。殺すにしても、ちゃんと準備を整えなくちゃ駄目。俺があいつらを殺しても、ラナンのお姉さんがなにひとつ困らないようにしてからじゃないと」
仇討ちの結果、例えこの国が滅んだとしても、だ。
「まったく、悠長なことだな。いっそ今すぐ攫ってしまえばどうだ。お主とて、幾度かは考えたはずだぞ」
神様が黄金色の目を眇め首を傾げて言う。
もちろん考えなかったことなんてない。むしろ今もちょっとは考えている。
ラナンの葬儀の日だってそうだ。本当は実の兄に詰られる彼女の手を引いて逃げてしまいたかった。でも、実際にはやらなかった。
「それは駄目です。それじゃあ、俺も彼女から奪ってしまうことになる。全然駄目です。俺はこれ以上彼女からなにも奪いたくないんだ」
正直なところ彼女一人を攫ってこの国を出るなんて、今の俺なら朝飯前だとすら思う。
でもそれは、公爵家の令嬢としての立場だとか、淑女としての評判だとか、王子の婚約者として彼女がこれまで努力して積み上げてきたもの、そのすべてを奪ってしまうのと同じことだ。
彼女の意思も聞かずに、どうしてそんなことができるだろう。ラナンを失ったばかりで、ただでさえ傷ついているだろうに。
「攫うのは、最終手段。それも彼女が自分から望んでくれなきゃ絶対駄目です」
「最終手段、な。それはあの娘が落ちてくるのを待ち構えているのとどう違う? お主の手の届く範囲まで落ちぶれるのを、手ぐすね引いて待つということではないのか?」
「……極めて悪意のある言い方をすれば、同じことかもしれませんね」
否定はできない。
彼女がどん底まで落ちたとき、最後に手を差し伸べるのが俺だけであればいい。他のどんなものもその瞳に映らなければ、もっといいのに。
そういう醜い願望がまったくないとは言えない。というか、そうしたい気持ちは当然ある。
「じゃあ、俺が今すぐ出ていって、王子やレオ、椎葉、あとは誰だろう。……ああ、エルクーン国王と彼女を詰ったローレン家の当主代理も殺しますか。王にはあの屑を作った責任がありますしね。確かに手っ取り早いし、手間がなくていい。神様が言いたいのは、そうした上で彼女を攫えと、そういうことでしょう」
スマートだし、やろうと思えば今すぐにだって実行できる。俺の鬱憤も晴れる。最高だ。
「俺はそれでいいし、むしろそうしたいくらいですけど、彼女はどうかな。そんなことをしたら、気に病んで死んでしまいそうじゃないですか」
ラナンの墓前で俺にまで気を遣った彼女は、きっとそういう人だ。
「王子は必ず殺します。その周囲の人間にも、相応しい罰を受けてもらう。結果この国がなくなっても、それはそれで仕方ない。でも、そのせいで彼女に不利益があってはいけない。全部済んだあと、彼女が心から笑える状況を作っておかないと」
婚約者である王子はいなくなるんだから、彼女を一生愛して支えられる男──それも王子以上の地位と、王子とは正反対の優れた人格を併せもつ者が必要だ。
「ちょっと待て。その男に自分がなるつもりはないのか?」
神様の問いの意味がわからず、思わず首を傾げた。
「えっ? なれるわけないじゃないですか」
彼女からしたら、俺のせいで弟が死んだのも同然だ。弟を助けられなかった男を恨みこそすれ、好ましく思うはずがない。俺が同じ空気を吸うのもおこがましい。
そもそも身分が違いすぎるのだ。騎士になったとはいえ、公爵家のご令嬢とこの世界のことをろくに知らない俺とでは釣り合いがとれない。論外だ。
普通に考えて、俺と彼女がそんな関係になれるはずがない。攫いたいというのはあくまで俺の願望であって、本当にそうするつもりはない。
俺は、彼女がなにひとつ困らない状況を作って、その上で王子を殺す。
全部済んだら、そのときは……。
「……そうこじれたか」
神様がため息をついた。
なにもこじれてなんかいない。これは自明の理というやつだ。
神様の反応にちょっとイライラしつつ、
「とにかく、決めたんです。全部済んだときに彼女が幸せであるように、俺はせっせと状況を整える。それまであいつらの飼い犬でいるくらい、なんてことない。必要だからそうする。それだけです」
と言い捨てた。
神様は黙って見ていてくれたらいいんだ。
「お主の言いたいことは、まあまあわかった。であれば、我は口を出すまい。だが、よいか。我の助けが必要になったら、名を呼ぶのだぞ。まさかお主、我の名を忘れてはいまいな?」
「覚えてますよ、ちゃんと。竜神スヴァローグ、それがあなたの名だ」
俺がきちんと真名を呼ぶと、神様は満足げに頷いた。本気で疑われていたんだろうか。そこまで馬鹿ではないつもりなんだけど……。
目を開くと、自分の部屋に戻っていた。神様に会う直前まで椅子に座って考えごとをしていた。そのときのままだ。
殺風景な部屋だ。ユキムラのコタツに憧れて一時は必ず手に入れようと思っていたが、今はまったくそんな気になれなかった。
それどころか、引っ越しが面倒くさすぎてほとんどの私物は処分した。持ってきた物といえば、最低限の着替えと置物と化したスマホ、それから以前うっかり買ってしまったケープルビナの髪飾りくらいだ。
ふと、あの髪飾りを見てみたい気分になった。箪笥の奥にしまい込んでいたベルベットの小箱を取り出し、蓋を開けてみる。
繊細な花と三日月の意匠は買ったときのまま美しく、月明かりにかざすとささやかに輝いた。
ラナンの最期の言葉は今もはっきりと思い出せる。目を瞑れば、彼の死に顔だって同様に。
俺なんかでは、ラナンの代わりには決してなれないと思う。だけど俺なりに彼の姉を助けることくらいはできるはずだ。
忘れない。ずっと覚えている。
だから、もしラナンに心残りがあるのだとしたら「大丈夫だから安心しろ、任せておけ」と伝えたい。あのときはそこまで言ってやれなかったから。
願わくば、彼の眠りが安らかなものでありますように。
心からそう祈る。
そうして、髪飾りの小箱は箪笥の一番奥へしまい込んだ。
──第一部 了




