60.氷の顎 -5-
「……礼人。礼人、起きよ」
ゆさゆさと肩を揺さぶられ、はっと意識が覚醒した。
目を開けると、俺を見下ろす黄金色の竜眼とばっちり視線が合った。
「カルカーン王子!」
飛び上がって刀に手をかけたが、それよりも早く相手の手が伸びてきて押し留められる。
「よく見よ、違う。我だ、竜神スヴァローグよ」
「え、あ……神様?」
何度か瞬きして目の前の男をしげしげと眺めた。
確かに王子じゃない。王子はこの人ほど髪が長くないし、王子の竜眼はこの人の目のように底光りする黄金色ではない。
状況が飲み込めず、辺りを見渡した。寝てしまう直前と同じく、だだっ広い雪原が広がっている。ただし、いつの間にか太陽がのぼっており、どうもあれから三時間くらいは経っているようだった。
「よく聞け。お主、このままでは人里に辿りつけずに死ぬ。故に、今すぐ選べ。我と共にこの界を立ち去るか、我の血を飲みこの界に留まるか、二つに一つだ」
「ええ……?」
えらい唐突な二択だな。
「俺、死にそうなんですか」
「間違いなくくたばりかけておる。揺らぎの近くに廃屋があっただろうが。止血して素直にそこに引きこもっておればよかったものを、下手に動くから凍傷を起こしておる。加護があるとはいえ、無茶をしすぎだ」
あー、確かに助けを待つべきかな、とは俺もちらっと思ったんだ。でもとにかく早く人里に戻ったほうがいいような気もして、移動を優先した。せめて朝になるまで待てばよかったのかな。
それにしても、腹の傷だけじゃなく凍傷か。本格的に凍死寸前って感じだ。
「出血のせいで体温が低くなりすぎたな。それで、どちらにする?」
そんな、機内食のメニューでビーフライスかチキンヌードルどっちにする、みたいな軽い調子で言われてもなあ。
「えーっと、なんでしたっけ」
神様と一緒にこの界を去るか、それとも神様の血を飲んでここに残るか、そのどちらかだっけ。
「くたばりかけのお主を救うには、それしかない。この界を去り、我々の住む天界へ移れば、お主は今より高次の存在となる。つまり、死とはほぼ無縁の存在となる。もう一方、我の血を飲めば、お主の肉体は一度破壊された後に竜相当に再生される。すなわち、我の眷属と化してこちらも死とはほぼ無縁の存在となる」
「ええ……?」
それってどっちも人間を辞めてません?
「お主、死にかけておるのだぞ。己の状態を甘く見すぎだ。そのくらいせねば救えん」
神様は顔をしかめてそう言うと、ふんっと腕組みをして俺を見下ろした。どうしようもなく偉そうなんだけど、類稀に見る美男子なので腹が立つほど様になっている。
それにしてもどちらかを選べ、とはね。神様、本当はわかっていて聞いてるんじゃないかな、とすら思う。
「俺には、ここでやらなきゃいけないことがあります。だからあなた方の住む界には行けない」
ラナンを家に帰してあげなくちゃいけない。家というよりラナンのお姉さんのもとへ、と言うほうが正しいかもしれない。
それにラナンの我儘を叶えてあげなきゃいけないしな。俺なんかが血の繋がったラナンの代わりになれるとは思えないけど、他人のふりをしながらそれとなく彼女を見守ったり、力になることくらいはできるだろう。
「では、返答は?」
「俺をあなたの眷属にしてください」
神様は鷹揚に頷くと、座り込んだまま立ち上がれない俺と視線の高さを合わせるためにか、腰を下ろした。
それから豪快に袖をまくって自分の左手首に躊躇なく爪を立てる。
うわっと思う間もなく、その傷口から血が溢れてぼとぼとと滴り落ちた。けっこう派手に出血しているが、神様は全然なんとも思っていないような真顔で、懐から木のお椀を取り出した。
みるみるうちに器はいっぱいになり、ずいっと口元に突きつけられた。
血の臭いが鼻をつく。それだけで、どうしようもない吐き気が込み上げてきた。
「うっ」
やっぱり、気持ち悪い。王子や王の血よりはまだましだが、これを口にするのは躊躇われる。
「ええい、はよせんか。仮にも神の血だぞ、そこまで厭そうな顔をするでない」
言いながらも神様が更にぐいぐいとお椀を押しつけてくるので、観念して口を寄せた。
濃厚な血の匂いが口の中に広がる。竜神の血とはいえ鉄っぽいような味は俺たちと変わりなく、……つまり決してうまくはない。はっきり言うとものすごくまずい。
おまけに並々と注いでくれたので、飲み干すのに相当時間がかかる。
本当にこんなので神様の眷属とやらになれるのかなぁ、と半信半疑ながらも何度か飲み込んで、それでようやく突きつけられた器から解放された。
「では、一週間ほど痛むが耐えろ。そのうちユキムラも迎えにくるであろう」
「えっ。痛むって?」
なに、その不穏な響き。
「言ったであろうが。お主の肉体を一度破壊し再生すると。それにおよそ一週間かかる。喜べ、お主は最強の騎士になれるぞ。竜人どころではない、竜神そのものの血を飲んだのだからな」
待って。最強がどうとかそれどころじゃない。一週間も痛いだなんて聞いてないぞ。
愕然としていると早々に心臓の辺りがぴきーんと痛んだ。傷の痛みを忘れるほどの激痛に思わずうめき声が漏れ、かきむしるように手が動く。
心臓が痛いと思ったら、そのぴきーんが全身に広がってきて悶絶した。出血で死ぬより先に、こちらの痛みでショック死するんじゃないかとさえ思うほどだ。
「それで死んだ者はいない。安心せよ」
そりゃあよかったです、と皮肉混じりの返事をする余裕すらなく、ただただ息を止めて痛みに耐えた。




