6.竜神スヴァローグ
東の宮というのは、ある程度成長して公務を行うようになった王子が住む建物の一群のことらしい。さっきまでいた北の宮ほどの規模ではないが、それでも慣れるまでは迷子になりそうな大きさだ。
与えられたのはやっぱり豪華な作りの客間だった。天蓋つきのベッド、歩いて入っていける衣裳部屋、それから風呂とトイレ。
トイレはどういう代物なのかドキドキしながら使ったが、なんと水洗トイレだった。すごい。
一方、風呂のほうはバスタブがデーンとあるだけだった。湯は必要な分だけその都度持ってきてもらうらしい。
風呂から戻ると、テーブルの上に軽食が用意されていた。ちゃんとした夕食は、もう少し遅い時間になるが広間で食べられると言う。
椎葉や王子たちは広間で食べることになっているらしいが、俺は遠慮しておいた。
ものすごく疲れていたし、さっき帰れないということを聞いて思いのほかショックを受けていたからだ。この状態で椎葉と王子のラブロマンスを見せつけられるのは正直きつすぎる。
ふかふかのベッドに横たわり、相変わらず圏外表示のスマホを取り出した。それから、カメラフォルダの中の写真を最近のものから順番にスライド表示させる。
……食べ物の写真ばっかりだな。学校の帰りにラーメンを食べにいったときとか、他は友人と悪ふざけしているときに撮った動画とか、そういうのが多い。
家族の写真なんて改めて撮ろうって機会があんまりなかったからなぁ。
まして、全員がそろった集合写真なんて一枚もない。旅行にでも行かない限りそんなの撮らないしな……。家族旅行だって小学生のときは頻繁に連れていってもらったが、中学高校にもなると行こうという親に対して俺と姉が嫌がった。
……こんなことなら、つまらないから嫌だなんて言わなければよかった。
向こうは、今頃どうしているだろう。夜になっても俺が帰らなくて、心配しているかな。警察とか呼ぶんだろうか。もしかして俺、家出少年ってことになっているのかなあ。
みんな。俺、ちゃんと無事だよ。でも、そっちにはもう戻れないらしい。
だから、できたら探さないでほしい。俺はこっちでなんとか生きていくから、別の世界で元気にやってるだろうってせめて安心していて。
だって、帰らない人間を探し続けるなんて、これ以上に残酷なことはそうないと思うから。
気がつくと俺は、またあの真っ暗な空間に立っていた。
あのときは一人だったが、今回は目の前に黒い竜がいた。
それが一体どういう存在なのか、説明されなくてもわかる気がした。
俺をこっちの世界に招いた者。そして、この世界では竜神と崇められる者。
本物の竜を目前にして悲鳴が出なかったのは、思いのほかそれが小さかったからだ。体長は恐らく二メートル半くらい。
そして、うなだれるように頭を垂れて大人しく座っていたからだ。
「……あんたが、竜神か」
自然と出てきた自分の声は、奇妙なくらい抑揚に欠けていた。尋ねるというよりわかりきっていることを改めて確認するような平坦な声音だった。
「いかにも。我がこの世の神、竜神スヴァローグだ。お主を招いたのは、我だ」
「……神だかなんだか知らないけど、余計なことをしてくれた」
本当に、そうとしかいいようがなかった。
だって、俺は異世界に行きたいだなんて一度も願わなかった。椎葉がいるあの状況に困って、一瞬「誰かどうにかしてくれ」と思っただけだ。
誰だってそう思うことくらいあるだろう。だけど別にみんな本気でそう思っているわけじゃない。
「……誰が。一体、誰が、こんなことを頼んだ? 俺か? 違うだろ! なぁ、違うだろ!?」
言ってる間にだんだんと感情が昂ぶってきて、最後はほとんど怒鳴っているようなもんだった。
スヴァローグと名乗った竜神は、ますます低く頭を垂れた。長い首──つまり急所を俺に差し出す形で、完全に無防備な姿でいる。
「……すまない。本当に、悪いことをした。あれからずっとお主を見ていた。そして、すぐに過ちを犯したことに気がついた。お主は別の世界へ来ることなど望んでなどいなかった」
「わかってるなら、帰せよ。今すぐ、俺を。元の世界に! できるんだろ、神様なら!!」
竜神は頷かなかった。
決して頷きはしなかった。
「できぬ。すまない。だが、できぬのだ。短期間で世界を越えるには、お主の肉体と魂はあまりに脆い。今、再び世界の境界を越えれば、お主は存在もろとも消滅してしまう。もちろん時間を置けば可能だ。だが、可能になる頃には……」
俺はともかく、向こうの家族や友人が亡くなっているだろう、と竜神は言った。
寄る辺のないあっちの世界に戻ったって、意味がない。自分の家が存在しない世界なんて、そんなのもう別の世界も同然だ。
つまるところ、俺は神様の力を持ってしてもあちらの世界には戻れないということだ。
完全に詰んでる。
「礼人、本当にすまない。我にできることならなんでもする。それで償いになるとは思わないが、せめて……」
そんなの、いらない。
神様にして欲しいことなんてなにもない。……あ、いや。一つはあるか。
「あんたの顔、見ていたくない。二度と俺の前に現れないでくれ」
竜神がショックを受けたように顔を上げた。
その目はカルカーン王子と同じ、瞳孔が縦長に伸びた、黄金色の竜眼だった。
「わかった? 俺にその面、二度と見せんなって言ってるんだけど」
「……相わかった。だが、お主が困ったことがあれば呼べ。さすれば、我はいつでも応えよう」
竜神スヴァローグはそのように言い残して、暗闇に同化するように消えていった。
それに釣られるようにして、真っ暗な空間がだんだん白んでいく。なにもないところに今まさに光が生まれているような光景だった。