42.月と花と雪の夜に -4-
「ごめん、アヤト!!」
ラナンは部屋に戻ってくるなりジャンピング土下座をしかねない勢いでそのように謝ってきた。
制服の準備をしていたところだったが、その手を止めて振り返る。
「……藪から棒に、どうしたんだ」
こう言いながらもラナンがなんのことを謝っているのか、俺はわりと正確に理解していた。
「さっきの姉のこと。人目があったからああして初対面の挨拶をしてくれたんでしょう。僕が前に言ったから。なかったことにしてくれって、君に言ったから……」
「まあ、な。でもちゃんと話したこともなかったんだ。改めて初対面の挨拶をしたって、別におかしくはないだろ」
今日ばったり会って話をするまでお互いの名前も知らなかった。いや、彼女のほうはラナンから名前くらいは聞いていたかもしれないな。とにかく俺のほうは初耳だった。
それに初対面を装うなんてそう大したことでもない。それくらいのことでわずかなり彼女のためになるのなら本望だった。
「……僕は君にとても残酷なことをしているね」
「そうかな」
ラナンから「姉には婚約者がいるから手を引け」と言われていなかったら、俺はたぶん犬のように尻尾を振って彼女に懐いていた。俺はそれで幸せだけど、彼女は違うだろうと思う。俺の知らぬところで社交界の噂になったりして、迷惑どころの話ではなかったかもしれない。
それこそ婚約者と修羅場になったりするかも。
自分のせいで彼女がそんなことになったとわかったら、きっと死にたくなるくらい落ち込むだろう。そうなる前にラナンが教えてくれてよかったんだと思う。
「君は本当にいいやつだ。君が姉の婚約者だったら、姉もきっと幸せになれるのに……」
ラナンが独り言のように言う。
「……そっちのほうが残酷だよ、ラナン」
その言葉はちょっと聞きたくなかったな。
忘れろと言われるより、なかったことにしろと言われるより、その言葉のほうが何倍も残酷だ。
「ご、ごめん。そうだよね、ごめん。なにを言ってるんだ、僕は」
ラナンはひとしきり謝ると、完全に項垂れてしまった。
彼女とその婚約者はうまくいっていないのかもしれないと思う。少なくとも恋愛関係にはないだろう。
政略結婚が一般的な貴族階級において、彼女の婚約がいいものなのかどうか、比較対象のない俺にはよくわからない。わからないが、彼女を傍で見ているラナンがうっかりここまで漏らしてしまうほどだ。なんとなく想像はつく。
王宮の四つある宮のうち、公の行事が行われ人の出入りが最も多いのが南の宮だ。騎士団詰所と俺たちの寮はこの南の宮と西の宮のちょうど間あたりにある。
そして、今回王家主催のパーティーが開かれるのもこの南の宮にある迎賓館だ。王宮内で一番金のかかっているのは間違いなくここだと思う。
明治時代の鹿鳴館はたぶんこんな感じだったんじゃなかろうか。
「では、あとでな」
紺色の絨毯がしきつめられた大階段の前で、ユキムラが俺たちを振り返って言った。
パーティーが行われるのはこの階段の上のホール。俺たちが控えておく部屋が並ぶのは一階である。
直接王族にお目見えするには、従騎士では基本的に身分が足りない。姓の名乗りすらまだ許されていないので当然といえば当然だ。
俺たちは不測の事態に備えてユキムラの予備の制服と刀を持っていくだけの要員だ。別にパーティーに出席するわけでもなんでもないし、警備要員ですらない。
つまり、今晩の仕事は控室でパーティーが終わるのを待っているだけだ。
ユキムラとはそこで別れ、さて俺たちも控室に、と踵を返しかけた。
そこへ、
「──礼人くんっ」
階段の上から聞き覚えのありすぎる声が降ってくる。
その声を聞いた瞬間、胃が嫌な感じに震えた。
なんで、いるんだ。
顔を上げると、声の主──椎葉さくらが顔を輝かせて階段を駆け下りてくる姿が目に入った。
そしてその後ろにはいわずもがなのカルカーン王子と騎士レオの姿もある。
王子のあの金色の目と視線が合いかけて、咄嗟に目を逸らした。
あれを直視してはいけない。あの底冷えするような凍える目を見ては駄目だ。また身動きが取れなくなってしまう。
できるだけそちらを見ないようにして椎葉に視線を戻した。
「礼人くん、久しぶり!」
駆け下りてきた椎葉が俺の腕にしがみついた。
「椎葉……」
絡みついてくる体温がフロックコート越しに伝わってくる。場所が場所だけに振り払うわけにもいかず、俺は茫然と立ち尽くして椎葉を見下ろした。
この距離感の近さはなんだ。
「すごいね、礼人くん! 騎士の服、とっても似合ってる。かっこいい!」
「……騎士じゃなくてまだ従騎士だよ」
戸惑いつつ答える。
椎葉は小首を傾げて俺から二三歩距離をとった。そうして上から下まで見渡し、さらに首を傾げる。
「そうなの? レオくんのと違いがわかんないや」
全然違うと思う。上着のデザインも向こうのほうが細かいし、勲章やら装飾の数も違う。従騎士の制服と同じにされたら多くの騎士は嫌がるだろう。




