38.揺らぎから現れ出でるもの -後-
だんだんと東の空が白んできている。もうすぐ朝が来る。
少し風が弱くなり、風向きが変わる間際、無風になる瞬間があった。
……動く。
と思うよりもなお速く、ユキムラの刀が閃く。
その刃は明け方のわずかな光源を反射し、異形の胴体部分に吸い込まれていった。
異形の長身がぐらりと傾ぎ、ニ三歩たたらを踏む。そうかと思えばその腰から上部分が滑り落ち、地面に落ちた。
ユキムラの剣が鍔に収められる音がかちんと鳴った。
異形は真っ二つになって転がっていて、砂のように崩れていこうとしていた。
……どこからどう見ても死んでいる。
思ったとおりすべて一瞬のうちに終わっていた。正直あっけないほどだった。
少しの残心の後、ユキムラは構えをやめてその死骸を振り返った。そうして異形が確実に事切れているのを確認すると、懐から試験管を取り出して異形の残骸を回収した。これが異形を確実に倒したという証明になるのだ。
「二人とも、もういいぞ」
そのように言われて、ようやく普通に息ができるようになった。
「腰は抜けていないか」
「抜けてませんよ」
顔色は確実に悪くなっていると思うけどな。
見ればラナンのほうは顔色が悪いを通り越した土気色、小刻みに震えてすらいる。
「異形を至近距離で見た者は皆そうなる。あれに対抗できるのは、騎士だけだ」
「それはわかります。騎士が騎士たる所以ですから。でも、まさかこんなに影響があるなんて……」
いまだにがたがたと震えるラナンの肩をぽんと叩き、ユキムラは「さて、帰るぞ」と笑った。
騎士によっては異形との戦いに一時間ほどもかかる場合があるらしいが、ことユキムラに関してはすべて一瞬で終わる。毎回王都まで帰るほうが大変なくらいなのだと言う。
神奈備を使ったから距離感があやふやになっているが、あれは一方通行の代物だ。ここから王都まで自力で戻ろうと思うと数日はかかるのだった。
「鉄道を使えば聖花祭には間に合うな」
「鉄道があるんですか」
まずそこに驚く。
いや、車のプロトタイプがあるくらいだからすでに鉄道があってもなにもおかしくはないのかもしれない。
「鉄道とはいえ主要都市を結ぶ路線ではない。輸送用の軌道を使った代物で動力は所詮馬だし、そう速力のあるものでもない。まあその大荷物を担いで徒歩で戻るよりはましだろう」
ユキムラは俺とラナンの担いでいるリュックを改めて見て、ちょっと苦笑いを浮かべた。
必要そうなものはすべて詰め込んできたのでとにかく大荷物になっている。鉄道を使わせてもらえるならそれに越したことはなかった。
揺らぎの発生地点より歩くこと半日ほど、昼頃にようやくついたのは、鉄道が通っていることと少し寂れていること以外の特徴がない小さな村だった。
いわゆる馬車鉄道に乗ったのは、もとの世界での経験も含めてこれが初めてだ。石畳を走る通常の馬車が思いのほか乗り心地が悪かったこともあり、今回も覚悟していたのだが、これがほとんど揺れずなかなか快適な代物だった。
そうしてちょっとした遠足気分で数日をかけて王都へ戻ると、景色が様変わりしていた。
「おお、なんだこれ」
無骨な印象さえあった王都だが、いたるところに薄桃色の花が飾られているせいでまるで別の場所のようだ。どこへ行ってもその花の甘酸っぱいような香りがする。行き交う馬車ですらその花で飾りつけられていて、それを見たときはちょっと笑ってしまった。
「ケープルビナの花だね。聖花祭の飾りつけだよ」
「へえ……」
あの八重咲の薄桃色の花はケープルビナという名前らしい。見た目は控えめな椿といったところか。あの人のハンカチに刺繍されていた花も、もしかしたらこのケープルビナだったのかもしれない。
馬車の中から見ていると道を行く女性はだいたい髪にその花を挿している。男性は普段と変わらない服装だったがどことなく浮かれたような雰囲気だ。
「聖花祭ってよく聞くけどどんなお祭りなんだ?」
尋ねると、ラナンは俺の無知さに呆れることなく教えてくれた。
いわく、この一年無事に過ごせたことを神様に感謝する日らしい。祭りの期間中はそこかしこで出店が出る。最終日は国王が国民を代表して神に感謝する儀式を行い、国民は国の花であるケープルビナをランタンにくくりつけて、それを小さな気球のようにして空に飛ばすのだと言う。
タイのほうにランタンを飛ばすお祭りがあると聞いたことがあった。確か姉がそれに憧れていて、一度でいいからその時期に海外旅行に行きたいとかなんとか唸っていたのだ。俺もそのときに写真を見せてもらったが、たくさんのランタンが浮かんでいく夕空は別の世界のように幻想的な光景だった。
「最終日の夜は王家主催のパーティーがある。私が出席することになっているので、お前たちも丸一日休みにするわけにはいかないが、多少羽を伸ばすくらいはできるだろう。間に合ってよかったよ」
そう言うユキムラとは異形討滅の報告を終えたところで別れた。




