37.揺らぎから現れ出でるもの -前-
「礼人、気をつけよ」
目の前に竜の姿をとった神様がいる。
「なんで神様がここに……? 俺、神奈備を使ったはずじゃ」
ユキムラやラナンの姿は当然ながらなく、真っ暗な闇だけが広がっている。神様が条件を設定するまでここはいつもこうだ。界というのは、なにもしなければ基本的に真っ暗なものなんだろう。
「お主らが神奈備と呼んでおるもの、あれもまた揺らぎの一つよ。真なる力の断片を持つ者らが揺らぎを外から固定し、現し世に留めておるに過ぎん。故に我が干渉するのも容易なこと」
……なるほどわからん。
「それよりも気をつけよ。お主が送られた先の揺らぎ、間違いなく裏の界に通じておるぞ」
「……それってつまり異形が出るということですか?」
「左様」
神様ははっきりと頷いた。
「我の加護がある故、お主は常人より異形の影響を受けにくい。だがくれぐれも油断するな。生身の人間ではあれらには到底敵わぬ。あの騎士に万一があるとも思えぬが、忠告しておかねばならぬと思ってな」
「わかりました」
神様がこうして言いにきてくれるくらいだ。やっぱり異形は相当やばいと思っておいたほうがよさそうだ。
でも、なんで騎士はそんな異形に対応できるんだろう。
いや、騎士が強いのはもうよくわかっている。ユキムラやレオは俺たちと別の生き物なんじゃないかってくらい根本的に強さのレベルが違う。
気になるのはその強さがどこに由来するのかということだ。
「……ふむ。騎士の強さの秘密を知りたいか。確かにそろそろ知っておいてもいい頃合いかもしれぬな」
そう言うと、神様はとぐろを巻くように座ってからおもむろに説明を始めた。
「騎士と従騎士の差は、竜の系譜に連なる者の血を飲んだことがあるか否か、それだけだ。竜の系譜に連なる者とは、つまりお主の今いる国で言うと、……名はなんと申したか。まあいい、要するに竜眼を持つ者がそれに当たる」
「血を、」
飲む。つまり、国王かカルカーン王子のどちらかの……血を、飲む。
そういえば、ラナンもかつて言っていた。騎士になる儀式では、あるものを飲むのだと。それが竜人の血のことだったのだ。
思わず口元を手で覆った。
想像するだけで吐きそうだった。本当に騎士は皆そんなことをしているのか。正気の沙汰ではない。
「異世界から来たお主にはわからずとも仕方のないことだが、この世界の者は竜人の血と聞けば皆喜んで口にするぞ。なにせ、古代においては不老不死の霊薬と言われたほどだ」
「そ、そういうものですか」
返事をしつつも内心ではドン引きしている。
不老不死の霊薬と言われた……もとの世界で言うと、人魚の血みたいなものか?
言ってることはわからないでもないが、所詮は他人の血。そんなものを口にするのは気色が悪い。日本で培われた衛生観念が全力で理解を拒んでいる。
「だとしても、血はなあ……」
聞きたかったような聞きたくなかったような、複雑な気分だ。
「騎士になるのであれば、いずれ避けられぬこと。今から覚悟しておいたほうがよかろう?」
俺が嫌々ながらも頷くと、黄金色の瞳を細めて神様も頷いた。
そんな神様に見送られ、再び界を移動する。
瞬きした次の瞬間には、ユキムラやラナンとともに吹きさらしの丘陵地帯に佇んでいた。
「神奈備を使っての移動ってこういうものなんですね。上から引っ張られているような変な感じです」
ラナンが辺りをしげしげと見渡しながら言う。
「ひとまず移動するぞ。占いの時間まで少しあるが、そう悠長にもしていられないからな」
「わかりました」
俺たちがいるこの場所に揺らぎが現れるのだ。至近距離で異形に出くわすと考えると確かに肝が冷える。ユキムラの言うとおり離れておくに越したことはない。
雪に足を取られないよう気をつけながら五〇メートルほどを移動する。
あの水晶の塊に映っていた光景そのものの寂しい場所だった。雪の合間合間から黒くごつごつした岩が飛び出ているだけで、視界を遮るものはほとんどない。おまけにまだ夜並みに暗いので、日が出てくるまでは自分たちの持っているランタンだけが頼りという心細い有様だった。
「異形が現れるかそれとも別のなにかが現れるか、そのときになるまでわからん。だが私がよしと言うまではとにかくそこで待機していること。わかったな?」
ユキムラは俺とラナンが頷くのを確認すると、一人だけ揺らぎのほうへと戻っていった。
その先には黒い靄のようなものがじわじわと滲み出るように現れつつあった。
靄の中に時折青白くきらきらと光るものがある。吹き上げられた雪が月の光を反射しているかのような、そんな光り方だ。
その光が見えた頃から急に辺り一帯の温度が下がってきた。吐いた息が白く凍え、はっきりと寒気がするほどだ。
「……当たりだ」
ユキムラが言った。
靄の中から枯れ枝のようなものが伸びてくる。いや、枝じゃない。あれは……人の指に似たものだった。白く尖った爪の生えた指。
俺の隣でラナンがひゅっと音を立てて息を飲んだ。
「あれが……」
あれが、異形か。
身をよじるようにしながら、それは闇から這い出るように現れた。
ぼろ布を被った人のようだが、ぱっと見ただけではっきりわかる。あれは決して人ではない。異形とは言い得て妙なもので、実際に見てみればそうとしか表現のできない代物だった。
俺たち人間とは真逆の法則のもとに生きるものだ。どこまで行っても決して相容れることはないだろうと理屈抜きでわかる。
人であれば顔があるであろう位置には闇がたゆたい、その中に青白く輝く炎のようなものが二つ、まるで目のように浮かんでいる。
遠目であってもそれの大きさははっきりとわかった。ユキムラと比較するかぎり、悠に二メートルはあるだろう。二メートル半……恐らくそれくらいだ。
ここからでは口があるようには見えないが、それが息を吸うたびに周囲の温度が低くなっていくように感じられる。
「あんなのと戦うっていうのか」
信じられない。
神様いわく影響を受けにくいらしい俺であっても息がしにくいほど体が凍えている。指もかじかんでいるし、刀を抜くどころの話ではない。
一歩も動けない。あんなものと至近で対峙して平気そうにしているユキムラが異様なのだ。
そのユキムラはなんの気負いもなさそうに異形のもとへ近づいていくと、剣帯から提げている刀に手を添えて居合の構えを取った。
稽古をつけてもらうようになってわかったことだが、ユキムラの剣の根幹は抜刀術だった。もちろん抜いた後の型もあるにはあるが、一太刀目の殺傷力を極端に高めた流派なのは間違いない。
ユキムラが刀を抜けば終わる。
すべては一瞬のはずだった。




