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26. 恋とはどんなものかしら -4-

「姉にはね、婚約者がいるんだ」


 婚約者。なんて重たい言葉だろう、と思った。


 将来結婚することが決まっている相手がいる。つまり、ともに家庭を築き、子を育むと誓い合った男がいるということだ。


 もとの世界でありがちだった「私たち絶対結婚しようね」なんて口約束の婚約もどきなんかじゃない。


 もしかしたら彼女の婚約者も神祇省とやらが占いで定めた相手なのかもしれない。かつて王子やレオは、子を生すにあたって一番最適の相手を占いで決められたと言っていた。彼女の婚約も同じように決められた可能性はある。


 でも、だからって椎葉みたいに「占いで結婚相手を決めるなんてひどい」とは言えなかった。


 それがこの国におけるスタンダードで、彼ら貴族に課せられた義務なのだろう。これは俺たち異世界から来た人間がケチをつけていいような話じゃない。


 彼らは俺たち一般人とは違う。優れた血を残すために最良の相手と子を生す義務がある。例えそれが幸せな結婚には程遠かったとしても、だ。たぶんそれが政略結婚というものなんだろう。


 椎葉のようになにも考えずに声を上げられたらどれだけよかったか。


 ……俺には、できない。


「婚約者、か」


 恋人どころの話では、なかったなぁ。


「姉にとって、今が一番大事な時期なんだ。一点の瑕疵も許されない。本当はここに来ることもあまりよくないんだ。家の者はみんな反対していて……でも、姉がこれだけはと頑なだったから」

「……うん」


 弟のことが大切なんだろう。そして、ラナンもまたお姉さんを大切に思っている。きっといい姉弟なのだ。


「短い付き合いだけど、アヤトがいいやつなのはよくわかっている。姉を思う君の気持ちだって本物だろう。そう思う。でも……」


 駄目なんだ。


 そう言うラナンは、既に半分くらいは泣いていた。


「……忘れてほしい。できればこの件自体なかったことにして。それが姉のためでもあるし、君のためでもある」


 あの人のことを忘れる、か。


「それは、ちょっと無理かなあ」

「アヤト……」


 俺は苦笑いを浮かべることしかできなかった。


 だって、今も目を閉じるだけですぐに彼女のことを思い浮かべることができるのだ。


 妖精みたいに華奢で消えてしまいそうなくらい儚げなのに、俺がハンカチを受け取るまで引かないようなちょっと頑固な一面もあったり。


 めちゃくちゃ綺麗に微笑んだと思ったら、次に会ったときは悲しそうに微笑んだりして。


 たった二度、あわせたって五分にも満たない希薄な関わりだ。


 なのに、なんでだろう。


 なぜか心が惹きつけられる。


 彼女でないと駄目だと思ってしまう自分がいる。


 笑っていてほしい。いつも楽しそうにしてほしい。あんな悲しい笑い方はしないでほしい。そして、できるなら俺が彼女を笑わせたいと思う。


 ……忘れられるわけがなかった。


「怒るなって。忘れることもなかったことにもできそうにはないけどさ……言ったろ、恋人がいるなら素直に諦めるって。いるのは恋人どころか婚約者だったわけだけど」


 忘れることはきっとできないけれど、この気持ちが溢れてしまわないように蓋をしておくくらいはできるだろう。


 彼女にとってもよくないことだというのなら尚のこと。好きな人のためになら、この気持ちを零さないようにするくらい簡単だ。そのはずだ。


 俺は極力明るく見えるように笑って、ラナンの髪をくしゃくしゃと撫でた。


 それから、大切にしまっておいたハンカチを取り出してくる。


 かなり気合を入れて洗ったので、ちょっとだけついてしまった血の汚れもきちんと落ちている。借りたときと同様、真っ白なハンカチだ。


 薄桃色の糸で刺された花を親指でそっとなぞってから、俺はハンカチを差し出した。


「これさ、悪いけどラナンから返してくれないかな。それと俺がありがとうって言ってたってお姉さんに伝えてくれるか」

「ごめん、ごめんね。本当は、……」


 せぐり上げながらなにかを言いかけたラナンは、そこで喉がつっかえたかのようにひゅっと息を呑んだ。かと思うと、その次には子供のように声を放り上げて泣いた。


 普段は本当に年下なのかと疑うばかりの彼だったから、それもまた印象的な姿ではあった。




 そんなことがあっても毎日太陽は昇るし、昇った分だけきちんと沈む。


 婚約者の話を聞いて以来、面会日を意識したり彼女の姿を探したりするのはやめた。もし見れたって、辛いだけだしな。


 それでも面会にやってきた集団とばったり出くわしてしまうことが何度かあった。誓って偶然だ。本当に、狙ってなんかない。


 でも狙ってないときに限ってたまたま遭遇して、さらにうっかり目が合っちゃったりするんだよな。世の中ってきっとそんなふうにもできているんだろう。


 目が、合う。


 それだけのことだ。あの夜色の目と一瞬だけ交錯して、またすぐに離れる。言葉をかけることもない。もちろん彼女に触れることなんてこの先一生ないだろう。


 もともと生きる世界が違う人だった。かたやこの地に家も家族もない、苗字の名乗りも許されない訓練生。かたや貴族で名家の出身だろう身分ある女性。どう考えたって縁のない人なのだから、当然だ。


 ……別に、それでいいんだ。


 俺は彼女を忘れないし、彼女との出会いをなかったことにもしない。だけどそれは誰も知らなくていい。俺一人が知っていればそれだけでいいと思う。


 いつかラナンが言っていた。姉のために騎士になるのだと。王宮勤務の騎士になれば、少しではあるが力になれるからと。


 だったら、俺は……? なんで強くなりたいんだ?


 なんのために頑張るんだ?


 自分の身を守るためか。それだけのため?


 改めて自問自答してみて、自分のやりたいことがぼんやり見えたような気がした。


 外敵から身を守る、その必要に駆られてだけじゃない。


 この世界で自分が将来どういう人間でありたいか、この一件でそれがなんとなく見えてきたのだった。

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