22.ゆくりなくあいまみえ -後-
とても綺麗な人だった。
一瞬、返す言葉を忘れた。
そのくらいその人の存在に心を奪われていた。
「……あの?」
女性がおっとりと首を傾げる。
ぼんやりと彼女を眺めていた俺は、その段になってようやく我に返った。
「は、はい」
「あの、お困りのようでいらしたから……。よろしければ、こちらをお使いくださいな」
そうして差し出されたのは、真っ白な絹のハンカチだった。なんの花だろうか、八重咲きの薄桃色の花が小さく刺しゅうされている。
「え、でも……」
確かに布でもあればいいな、とは思っていた。でもこんな綺麗なハンカチではなくてもっと適当な布巾とか──さすがに雑巾はお断りしたいところだが──とにかく俺が求めていたのはこんな高級そうなハンカチでないのは確かだった。
間違いなく血がつくし、きっとその手のシミはなかなか落ちない。この綺麗なハンカチを汚してしまうのは、ものすごく気の引けることだった。
どのようにして断ろうかと言葉を選びあぐねていると、彼女はもう一度首を傾げて、ハンカチを噴水の水でざばりと濡らした。
「冷やさないと腫れてしまいます」
そう言いながら、びしょびしょになったハンカチをもう一度差し出してきた。
「……!」
水が滴るハンカチは、どう見てももう本来の用途を果たすことはできない。
これ以上固辞するのもはばかられて、俺は恐る恐る真っ白なハンカチを受け取った。だが、それでも傷口に当てるのは戸惑われる。
だってこれ、絶対汚れるぞ。
ハンカチと彼女とを見比べる。
彼女は大きな目で「使わないの?」とでも言うようにじっと俺を見ていた。こちらが動くまで梃子でも動かないぞ、という気持ちがその目にありありと表れている。
結局その視線に負けて、俺は口元の腫れつつある部分にハンカチを当てた。
ひんやり冷たくて気持ちいい。
もう一度彼女を見やると、彼女は満足そうに微笑んでいた。
その笑顔がただただ眩しくて、言葉を忘れた。
綺麗な人だ。今まで見たこともないくらい綺麗な人だった。
いや、見惚れている場合じゃない。
「あ、あの。あり……」
「お嬢さん、困ります! 所定の場所以外での訓練生との接触は禁止されていますから」
告げようとした礼が、彼女の後方からやってきた事務官によって遮られる。
「ごめんなさい、私……」
「もういいですから、早くこちらへ」
そんなやり取りをしながら事務官に手を引かれていく彼女が、去り際に視線だけでふとこちらを振り返った。
よく晴れた夜空と同じ色をした瞳だった。
その目が俺を心配しているかのように少し陰ったのが、ひどく印象的だった。
……さっきのあれは、なんだったのだろう。
妖精かなにかが見せた夢だったんだろうか。あれ、この世界に妖精っているんだったっけ。ああ、妖精がいないならまあ精霊でもなんでもいい。とにかく夢か幻想か本気で疑う。
しかし、夢でない証拠にあの白のハンカチは俺の手元に消えないまま残っている。
それともまさか俺の妄想が具現化したんだろうか。それこそチートっぽい能力だ。そんな都合のいい加護、神様から貰っていたっけ。
……いや、そうじゃない。今の俺が考えるべきはそこじゃない。
まずきちんと礼を言えなかったのがよくない。なんとかお礼をしてこのハンカチを綺麗に洗って返さないといけない。人として当然だ。
そのためには彼女がどういった人なのかを知る必要がある。そのはずだ。そう、これはただ彼女に礼を言うためであってあわよくばもう一度会いたいとか話したいなんて下心があるとかそんなことは決して……、
「ない、とは言い切れない!」
残念ながら言えない。
うわーっ! と独り言の延長である悲鳴を上げ、掛け布団にぼすんっと顔を埋める。
「……なにしてるの、アヤト」
そこへラナンが帰ってきた。
寝室に入ってくるタイミングを狙っていたのか、と疑わんばかりに最悪の頃合いだった。えてして他人には見られたくない姿こそ見られるものだ。世の中はなぜかそういうふうにできている。
「な、なんでもない」
「……そんなふうには見えないけど」
ラナンの視線が痛い。
誤魔化すように顔を背けていると、ちょうど俺の口元の怪我が目に入ったらしい。
「それ、さっきの訓練で?」
眉根を寄せつつ、個人用の衣裳棚から余ったガーゼやら脱脂綿をしまっている紙袋を取り出してきた。
「ああ、ラナンが行った後ちょっとな」
「ちゃんと冷やした? また腫れるよ」
今回は冷やした。途中で諦めようとはしたが、結果的にはちゃんと冷やしたよ。
「ふーん? 自分でちゃんと手当てするなんて珍しいね」
「そ、そんなことないだろ。それより面会はどうだったんだ?」
この世界に寄る辺のない俺からすれば面会日なんてないも同然のイベントだが、ラナンは違う。週に一度きり、訪ねてきた家族や友人と会える特別な日だったのだ。
「家族が一人だけど来てくれたよ。うちはいつも姉が来るんだ」
「例のお姉さんか」
俺にも姉がいるよ、と言いかけたがそれより気になったことがある。出かけた言葉を飲み込んでラナンの言ったことを心の中で反芻する。
……まさか、ハンカチの彼女がラナンのお姉さんだったりはしないだろうな。いや、しないよな。あれだけ人数のいた中、ピンポイントで友人の家族にぶち当たるなんてことはなかろう。
明後日の方向に飛んでいった思考を打ち消し、元の路線に戻す。
えーっと、ラナンのところはお姉さんが来ていた。つまり、あの一団の中に彼の姉もいて、俺たちのやり取りを見ていたことになる。
ラナンのお姉さんはあのハンカチの彼女がどういった人なのか、知っているんじゃないだろうか。
……ラナンを通して、彼女の情報が手に入るのでは?
いや、でも待て。安易に聞くのはよくない。きっとラナンはなぜ俺がそんなことを尋ねるのか、その理由を知りたがるはずだ。そのとき俺は挙動不審にならずに適当な理由を説明できるだろうか。
一番自信がないのは、彼女が誰か他の訓練生の恋人だとわかったときに平常心で対応できるかどうかだ。いや、無理だ。そんな残酷な真実は知りたくない。絶対に落ち込む。
「なんなの、アヤト。さっきから様子がおかしすぎ」
無理だ。今でさえこんなに怪しまれているのに、絶対無理。バレたら絶対に笑われるし無理無理。
ハンカチを借りた、そんなベタな出会いをして人を好きになるなんてまさか少女マンガみたいなそんなそんな……。
え。待って。
もしかして、これが俗に言う一目惚れとかいうやつか?
もしそうなら、椎葉と王子のこと笑えないんだけど……!




