59.ある恋の結末 -2-
異形に喰いつかれても、カルカーン王子は声ひとつ上げなかった。まっすぐに空を見上げて、口元は微笑んですらいた。
「……椎葉、離して」
椎葉からの反応はなかった。悲鳴にもならないような悲鳴を上げて、俺の腕にしがみついている。
息をひとつつくと、ゆっくりその手を離させた。
それから、刀の柄に手をかけながら異形と王子のもとへ近づく。
王子がふっとこちらを見た。
俺のしようとしていることがわかったのか、意外そうな表情を浮かべる。年相応で、普通の同年代の男子と同じような顔だった。
最初からずっとそんなふうであったなら、あるいは……。
王子の顔を見てそんなことを思った。
俺は、刀を抜いた。
騎士をひとり連れて揺らぎから現れたユキムラは、その光景を見て何をするより先に口を覆った。隣の騎士も同様だ。
それは、そうだろうと思う。
雪面に血の池ができている。その中心には王子がいる──胴体部分を異形に喰われ、頭部はいわゆる首の皮一枚つながった状態で、前のめりに。
俺は無言で刀を振るい、こびりついた血を振り落した。
刀はすぐに鞘に収め、それから返り血で汚れた顔を制服の袖で拭う。
隣では腰を抜かした椎葉がぐすぐすと泣きじゃくり、たまにしゃくり上げている。
誰が見ても、何があったのか一目瞭然の状況だった。
遺体の状態をあらためていたユキムラは、やがて大きなため息をついて立ち上がった。
「……見事だ」
ありがとうございますと言うべきなのか、そんなことはないですと言うべきなのか、よくわからなかった。
「神奈備の行き先を調べるのに時間がかかった。すまなかった」
「いえ」
王子の遺体を背負って王都に戻るのは、骨が折れると思っていたところだ。なにせ王子とラナンでは体格が違いすぎる。
それに俺ひとりならともかく今は椎葉もいる。ユキムラがこのタイミングで来てくれてよかったと思う。
そんなことを冷静に考えている自分が、少しおかしかった。
「大丈夫か?」
「……思いのほか」
たぶん、平気だった。もっと精神的な抵抗や衝撃があるかと思ったが、そんなこともなかった。
自分の手を眺める。手袋は血で汚れているが、それだけだ。
「少しだけ殿下と話しました。少しだけ、気持ちがわかったような気がしました」
「……そうか」
騎士が、カルカーン王子の遺体を人目にさらさず運べないか試行錯誤している。
「……結局これは、仇討ちを果たしたことになるんでしょうか」
どっちなんだろう。
俺はカルカーン王子を殺した。当初思い描いていたような形では決してないが、確かにこの手で王子を殺した。
「それは、君がどう思うか次第ではないかな」
「……厳しいですね」
わかりやすい答えがもらえると思ったのに、ユキムラは教えてくれなかった。
「悪いが弟子には厳しくすると決めている。さて、帰るぞ。君のことをローレン公爵代理がお待ちだ」
「そうですね」
言われて初めて胸ポケットに差された髪飾りの存在を思い出した。刀を振るった拍子に落とさなくてよかった。
これを彼女に返して、彼女の話とやらを聞かせてもらわないといけないのだった。
ふわふわと定まらない気持ちのまま、自分の荷物を背負う。半月分も必要なかったな。
それから、呆然と座り込んだまま動こうとしない椎葉の腕を掴み、引っ張りあげる。
「行くぞ」
「……どこに?」
「相応しい場所に」
「……そう」
椎葉は手を引かれるがまま、大人しくついてきた。魂が半分抜けてしまったかのようだった。
王子の遺体は北の宮の地下に安置された。その上で、国内外には病死と発表された。ニースダンの塔についた矢先に体調を崩したという、聞けば誰もが「本当か?」と疑うシナリオだった。
とはいえ、本当のことを発表されて痛くもない腹を探られるのも面倒だ。ルナルーデ王妃のその判断に否やはなかった。
その翌日、椎葉は改めてローレン公爵領に送られた。忙しかったので俺は移送に立ち会わなかった。あとから非常に大人しい様子だったと聞いた。
目の前で王子が化け物に喰われ、同級生がその化け物を殺した。最後には王子の首まで落とした。そんな場面を間近で見た衝撃が、相当大きかったんだろう。
それからすぐにエルクーン国王が崩御した。ここ最近はほとんど意識のない状態で、国王は王子の死を知らないままに亡くなったらしい。それはそれで幸せだと思う。
国王が亡くなったこともあり、国内には自粛ムードが流れた。王子の病死に疑問を呈していた者たちも口を噤んだ。
そうした雰囲気の中、ジルムーン王女の即位式はせめてひと月経ってからということになった。ただし即位自体はすでに済んでいるので、今はもう王女殿下ではなく女王陛下だ。
王の死が大方の想定よりあまりに早かった。
なぜ王の死がこんなにも早まったのか。
その理由は、ルナルーデ王妃……いや、ルナルーデ王太后と話してみて、すぐにわかった。
中奥の部屋で俺を待ち受けていた王太后は、黒のドレスを身にまとっていた。いたってシンプルなドレスだ。もちろん一国の王太后が身につけるに相応しい高級品なのだろうが、喪服はあくまで喪服で、地味な装いだ。
だというのに、なぜかはっと目を引くような美しさがあった。
王太后は俺を迎え入れると艶やかな笑みを浮かべた。真っ赤な唇が弧を描く。
その顔を見た途端、この人もまたすべてのしがらみを吹っ切ったのだとわかった。
国王の死が御典医の予想よりも早かったのはもしかして……。
王太后が苦笑いを浮かべた。
「あなたに隠しごとはできなさそうですね。そう、ご想像のとおりよ」
そんなことを言いながら茶を勧めてくれる。
なんの変哲もないただの茶のようではあるが、思わずその液体をまじまじと見てしまった。
「そこには何も入れておりません」
「……そういうつもりでは」
そもそも何か入っていたとして、飲んだ俺がどうなるとも思えない。
「元々は自分で使うつもりで用意していたのです。ごく少量ずつですが、私も以前服用していました。遅効性ですからすぐには死にません。じわじわじわじわと体の奥を蝕んでいくものです」
返事をしていいものかわからず、とりあえず茶をひと口だけ飲んだ。
妙な味はしなかった。




