55.熾火の跡 -2-
きっちり一週間後、ジルムーン王女が目を覚ました。肩から脇腹にかけてばっさりと斬られた背中はすっかり治り、跡形も残っていないらしいとユキムラから聞いた。
傷が残らずに済んで、勝手ながらよかったと思った。
俺はあのときカルカーン王子の所業をわざと見過ごした。王女が斬られるとわかっていて、自分の目的のために間に入らなかった。
これは、俺が今後背負っていくべき罪だろう。
国王はあれ以来枕も上がらない様子で、ほとんど自室から出られていないらしい。年賀会にも顔を出せなかったほどで、近く御斃れになるのでは、というムードが王宮内に色濃く漂っている。
ユキムラや御典医の見立てより進行が早すぎる気がしたが、おかげでアンゲラ教国がずっと渋っていた立太子が済んだ。王子ではなく王女の立太子だが。
聖花祭の夜、多くの人が竜神スヴァローグを見ていたというのも大きい。主神である竜神がじきじきに血を与えた王女に表立って反発するわけにはいかない、というアンゲラ側の政治的判断もあったのだと思う。
一方のカナハ嬢は、いろいろと揉めたようだがなんとか公爵家の当主代理として立った。いずれ相応しい婿をとり、生まれた子を正式な当主として立てるだろうと言われている。
今は公爵領と王都を行ったりきたりして忙しく過ごしているようだ。王妃から特別に許可を得て、公爵領と王都の神奈備を使わせてもらっているらしい。
学園の籍は残してあるが、鬼のように忙しいせいでほとんど行けていないそうだ。卒業式とそのパーティーくらいには顔を出せるのでは、とユキムラの部下が聞いてもいないのに教えてくれた。
「……そうですか」
内心ちょっといらいらしつつ相槌を打った。なんで俺にわざわざ教えるんだ。
そういう俺は俺で、今はかなり忙しくしている。
国王が使い物にならなくなり、実務が滞っている。どこもかしこも人手が足りず、俺もユキムラに駆り出されてこき使われているのだ。
これは仕方がない。ユキムラには借りがあるし、頭が上がらない。
更にというか、ただでさえ忙しいのに、あの日以来超越者としての意見も求められるようになっている。聖花祭で盛大にばらしてしまったので、そのせいだと思う。
年明けムードもそこそこに忙しなく働いていると、
「アヤト様」
「はい」
事務官がひとり、手紙らしきものを持ってやってきた。
花柄の白い書簡だ。ぱっと見てすぐにわかる女物で、見た瞬間少しだけ固まってしまった。
誰からの手紙だ。話があると言っていたから、カナハ嬢からだろうか。
「王太女殿下の女官が。殿下からのようです」
……そうか、王女か。
囁き声ではあるが執務室はそう広くない。全員に聞こえたようで、生ぬるいような視線がこちらに集中した。
気まずい。
「ありがとうございます」
礼を言うとすぐに内ポケットにしまった。
「見ないんですか?」
「あとで拝見します」
王女からの手紙をこんな場所で開けられるか。
食い気味で返事をしたところ、生ぬるかった視線がさらにぬるくなった。
……なんでだ。
仕事にひと段落つけて手紙を開けると、今夜の食事に同席してほしいというようなことが、王族らしい迂遠な言い回しで書いてあった。王妃も同席するようだ。
王子と椎葉の身柄が移される日が決まったのか、それともなんとなく予想のつく別の用件か……両方のような気がしつつ、俺は約束の時間に中奥を訪ねた。
「この度はお招きいただきまして──」
「どうぞ堅苦しい挨拶はおやめになって。超越者である上に、竜神から血をいただいているあなたには、できれば対等に接していただきたいわ」
王妃がにっこりと微笑んで出迎えてくれた。ずいぶん顔色がいいようだ。
ではジルムーン王女は、と目線をやるとばちりと目が合った。
途端に不思議な感覚に襲われる。
血の主を共にするがゆえの繋がりとでも言えばいいのか、うまく言えないが何かしらの縁が生じているように感じられた。それはたとえば兄妹のような、それでいてもっと明確な絆のような……。
王女が黄色い竜眼を丸くした。たぶん俺も同じように目を見開いていると思う。
「……どうかしまして?」
俺たちの反応に気づいたルナルーデ王妃が首を傾げた。
「あ、いえ。それではお言葉に甘えさせていただきます」
頭を下げ、席につく。
本来であればこの場の主は国王なのだが、やはり部屋から出られないらしく一番上座である王の席は空いたままだ。
程なくして贅を尽くした食事が運ばれてきた。
「さっそくですが、カルカーン王子と竜の巫女の移送を来週に行おうと思います。ユキムラ殿や警備の騎士数名で内々に済ませるつもりです。あなたにはニースダンの塔まで王子に同行していただきたくて」
つまり王子と一緒に神奈備を通り、「ニースダンの塔」とやらに幽閉されるところを見届けてこいということらしい。
「そのニースダンの塔とはどういった場所なのですか」
「先王の代までは、よく使われていたそうです。先にも申し上げたとおり、罪人とはいえ竜人を裁くわけにはいきませんから、そちらに送って二度と出さぬようにしていたとか。古い記録によりますと、竜眼を持たない王族もかつてはそちらに」
なるほど、と頷く。
「代々塔を管理する一族がいて、特別な方法で扉を外側から閉ざしてしまうそうです。鍵ですと、ほら。だいたいは真なる力で開けてしまえるでしょう」
外から溶接でもするのだろうか。思っていたよりもえげつない。
「食事はどうするんでしょう」
「竜人を飢えさせるわけにもいきませんし、食事や水は滑車を使って最上階まで運ぶそうですよ」
つまり塔に入ったあとは誰と話すこともなく、完全にひとりきりというわけだ。やがて寿命が尽きて死ぬそのときまで、完全なる孤独のまま過ごす。
それがどれほど残酷なことなのか、今ならわかる気がした。
「カルカーン王子のその姿を見届ければ、あなたの怒りも多少は冷めるかしら」
顔を上げて王妃を見る。真剣な眼差しで俺を見ていた。
「……もう一度、あなたにお願いをしたいのです。あなたには王女の伴侶になっていただきたい」
「それは」
そういう申し出があるだろうことは、予想していた。
以前断った話だが今は状況が違う。
王女は今後長い時を生きることになるだろう。誰が隣に並び立ったとしても、相手が人間であるかぎり必ず寿命の問題がつきまとう。
神様も言っていたとおり、俺と王女であれば寿命の釣り合いはとれているのだ。
この申し出は、当然王女も同意の上だろう。
王女は猫のようにじっと俺を見ていた。
その顔を眺めながら、やっぱりこの国を離れるべきだと強く思った。
俺はあまりに力を持ちすぎた。
助けようと思えば誰だって助けられるのに、聖花祭の夜のように自分の都合で助けたり助けなかったりする。
王女には恨まれていないようだが、人によっては「助けるだけの力があるのにどうして助けてくれなかったのか」と憤るだろう。
たぶん、ここまで来ると普通の生活なんて望めない。普通であろうとすればするほど、厄介ごとを呼び寄せてしまいそうだ。
ただの厄介ごとならまだいいほうで、それが手に負えない災いでない保障なんてない。
やっぱり俺は、ひとところに長く留まるべきではない。
この話は断ろう。断って、王子の移送が済んだあとは、もうこの国には戻らない。
「……申し訳ございません。気持ちは変わりません」




