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46.心のよるべ -後-

 カナハ嬢の唇がはくはくと動いた。何か言いかけてやめ、また何かを言いかけてはやめる。


 やがて彼女は沈痛な面持ちで俺から視線を逸らした。


「……それは、勘違いというものです。あなたは勘違いしていらっしゃるのです。弟のことがあるから、私に責任を取らねばならないと思っていらっしゃる。あなたは、無意識にそれを好意と置き換えてしまっているだけ。今からでも遅くはありません、王女殿下とのお話を──」

「勘違いではありません。間違ってもいない」


 再び彼女の言葉を遮った。無礼だろうがなんだろうが、もうなんだっていい。


 正直彼女がここまで頑なだとは思っていなかったが、今この状態で引くつもりは一切なかった。


 ラナンの死に囚われているのは、俺だけじゃない。彼女もきっと同じだ。


 彼女の心が動くまで何度だって言葉を重ねよう。夏のあの日、彼女が俺にそうしてくれたように。


「ラナンが亡くなる前から、俺はあなたが好きです。もっとずっと前からあなたには幸せになってほしいと思っているし、今だってそう思っています」


 俺が望んでいることはただひとつだ。


 この人が、他の誰より幸せであってほしい。この人のことが好きだからだ。


「……そんな」


 カナハ嬢が口を覆った。


 唐突に彼女の考えていることがぼんやりとわかった。


 彼女の中に、俺の言うことを信じられないという気持ちと、信じてもいいのだろうかという気持ちが入り混じって渦巻いている。


 彼女も俺の中を見ることができればいい。そうしたらこんなに一目瞭然のことはない。彼女だってきっとわかってくれるはずだ。


「他の誰がなんと言ったっていい。ですが、あなたにだけは否定しないでほしい」

「……いつからですか? いつから私のことを……?」

「訓練所で初めてお会いしたときからずっと」


 彼女がふっと淡いため息をついた。


 開きかけていた彼女の扉が閉じられようとしているのがわかった。


「それは、恋ではありません。あのときのあなたはとても傷ついていらっしゃった。そんなときにたまたま善意に触れて、特別なことのように感じてしまっただけです。たかがハンカチではないですか」

「違う。確かにあのときの俺は周りの人間すべてを敵だと思っていたし、自分で言うのもなんですが相当へこんでいました。ですが、あなたを好きになったのは、ハンカチを貸してくれたからだけではない」


 ハンカチを受け取らない俺に焦れて、まったくためらわずにハンカチを水浸しにした、あなたのそのちょっと強引で、やや短気なところに惹かれたのだ。


 口調も顔立ちもおっとりしたふうなのに、そういう芯の強そうなところに惹かれたのだ。


「優しくしてくれたから好きになったわけじゃない。もし訓練所でお会いせずとも、俺は別のところであなたを好きになっていたでしょう」

「……アヤト様」


 彼女の目に涙が浮かんだ。何かの拍子にこぼれそうなくらい、目のふちいっぱいに涙を溜めている。


 それでも彼女は泣いてはいけないと耐えようとする。


 いっそ、こぼれてしまえばいいのに。


「……このまま行けばあなたは、聖花祭の夜ありもしない罪を着せられて追及されます。いつかの天雎祭と同じように」


 涙に濡れる夜色の目を見つめて言う。


 天雎祭のときは全部後手に回ってしまった。俺ひとりでなんとかしようとせず、前もってカナハ嬢に招待状のことを伝えていればよかった。


 そうすれば、この人を無駄に不安がらせることもなかっただろうし、もっと他にやりようがあったかもしれない。


 今度こそ伝えておくべきだ。


 俺が知っていること、俺がやりたいこと、全部。


「俺はあなたのことが好きだ。だから、あなたが傷つけられる前に、この国から連れ出したい」


 手を差し伸べる。


 彼女の手がやや持ちあがり、指先が開いた。


 けれど、手と手の距離はそれ以上は近づかなかった。彼女の指先が逡巡したように震え、やがて力をなくしてぽたりと脱力する。 


「……いいえ。国を捨てるわけにはまいりません。私は占いの娘で、殿下の婚約者で……国に従うのは、貴族の務めです」


 ……駄目か。


 婚約者の立場が、占いが、貴族の務めが、いったい何ほどのものかと思う。


 だけど俺が日本人としての感覚を捨てられなかったのと同様に、彼女もそれらを捨てられないのかもしれない。それくらい彼女という人間を形成する重要な要素なんだと思う。


 否定はできない。婚約者の立場や占いのこと、貴族の務めを軽んじる彼女は、もはや彼女ではない。それはきっと外側ばかりが似た別の人だ。


 それで話はおしまいだとばかりに、カナハ嬢は踵を返した。


 ……行ってしまう。


「待ってください」


 咄嗟にポケットに突っ込んでいたベルベットの小箱を取り出す。


「もし俺の手を取ってくれるつもりが僅かにでもあるなら、これを聖花祭の夜に」


 ケープルビナの髪飾りはただ自分のお守りとして持ってきた物で、告白と同様今日渡すつもりなんてなかったのだが、こうなってみると今以上のタイミングはない気がした。


 ギリギリだっていい。彼女がいいと言ってくれるなら、俺はなんとしても彼女をさらう。


 カナハ嬢は足をわずかに止めかけたが、また再び歩きはじめた。


「お嬢様」


 侍女が初めて口を開いた。そのまま行ってしまおうとするカナハ嬢を咎めるような声色だった。


 それでもカナハ嬢が振り返らずに再び足を踏み出したので、侍女はため息をついた。


「私がお預かりします」


 そう言いながら、右手を伸ばしてくる。代わりに小箱を受け取ろうとしてくれているのだ。


 正直なところ驚いた。


 この人は俺に好意的ではないと思っていた。


「……お願いします」


 カナハ嬢は受け取ってくれるつもりがないようなので、この人に託すしかない。


 頭を下げると、侍女が微笑んだような気配があった。それもまた意外ではあった。


「あなたがお嬢様に初めて会われたあのとき」


 侍女は目を細めて遠ざかっていくカナハ嬢の背中を見やった。


「私も訓練所の廊下にいたんです。……夏のこと、謝ります。本当にごめんなさい。それじゃあ」


 え。


 カナハ嬢を追って駆けていく侍女を言葉もなく見送った。


 あの侍女……確かハンナさんと言ったっけ。ハンナさん、今なんて。


 つまり俺がハンカチを借りたところを見ていたということか?


 あのしどろもどろで恥ずかしい場面を。見ていた。俺のポンコツぶりを、見ていた。


「恥ずかしすぎる」


 へなへなとしゃがみ込んでしまう。


 ハンナさんはどんな気持ちで俺とカナハ嬢のやり取りを見ていたんだろう。ハンカチのときは? カナハ嬢が尾行された夏のときは?


 ひとりで悲劇のヒーローぶっていた俺に、彼女が苛立つのも理解できるような気がした。


 それでもカナハ嬢の代わりに髪飾りを受け取ってくれたのだ。彼女があの髪飾りを身につけてくれるかどうかは別として、ハンナさんにはそのことを感謝するべきだろう。


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