44.隧道の果てに -4-
ラナンの月命日までまだ少し日にちがある。その前にやっておくべきことがもうひとつあった。
北の宮、中奥の一室。ルナルーデ王妃と王女を前に、俺は緊張しながら席についた。
「以前お話をいただいた、聖花祭のことです」
王妃も王女もあらかじめ俺の用件は予想していたらしく、俺がそう切り出しても驚く様子はなかった。二人ともやや緊張した面持ちで、続きを促すように頷いた。
女性二人の顔をまっすぐに見つめ、俺ははっきりと伝えた。
「エスコートはお断りします。そして、殿下の婚約者になることもできません。申し訳ございません」
王妃は、ふぅと細長く息を吐いた。
「……あなたにとっても悪いお話ではないと申し上げていたはずですが」
異世界から来たわけのわからない人間に王女のパートナーをさせようというのだ。おまけに侯爵という身分までつけて、だ。破格の条件だと思う。
「それは重々承知しております。もったいないようなご提案でした。ですが、俺にはすでに心に決めた人がいます」
もし俺に好きな人がいなかったり、あるいは出世欲のようなものがあれば、アーヴィンの言うとおり一も二もなく飛びついていただろうと思う。
この世界に生まれ、一般的な経緯で騎士になった人間ならばやはり同様に。
だけど、やっぱり無理だ。
俺はカナハ嬢以外の女性をエスコートするつもりはない。
彼女以外に贈り物をするつもりもない。
伴侶や婚約者にはドレスを贈るのが普通らしいが、そんな気がまったく湧いてこない。だって彼女以外の女性がどんな豪華な衣装を身につけようとしたって、「高そうだなあ」という感想しか出てこないのだから、どうしようもない。
「……薄々わかっていました。アヤトの中心に、ひとりの女性がずっといること」
王女がそっと目を伏せ、微笑む。
「どなたなの、とは聞きません。だけど、ジルがもうしばらくアヤトを好きでいることは、許してほしいの」
王女のその笑みを見ているだけで胸が詰まりそうになった。
王女はとてもいい子だ。どうしてこんなにいい子が俺を好いてくれたのか、心底疑問に思う。
最初出会ったときは、王女を利用することしか考えていなかった。使えそうだなんて神様にとんでもないことを言ったりもした。本当に最低だったし、どうかしていたとしか思えない。
神様にも愛想をつかされるはずだ。
王女には、俺なんかよりずっとお似合いの人がいるだろう。
でもそれを口に出すのはやめておいた。それを本人に言うのは、とんでもなく傲慢なような気がして憚られたのだ。
彼女に対して真摯であろうとするなら、きっと言うべきではない。
「……殿下のお気持ち、大変に嬉しく思います。お応えできず申し訳ございません」
深々と頭を下げる。
ジルムーン王女が苦笑したのが気配でわかった。
「ねえ、お母様。ジルの言ったとおりでしょう?」
「ええ、そうね。しかし、それではどうしましょう。カルカーン王子が即位すればジルムーンは……」
王妃が憂鬱そうに言った。
「ご安心ください。カルカーン王子殿下が即位されることはありません」
「えっ?」
「聖花祭の日、王女殿下にはある人の血を飲んでいただきます。その人の血を飲めば、王女殿下の系譜上の格は竜相当まで引き上げられます。つまり、殿下は病から解放されますし、同時に後継者争いから外される理由がなくなります」
王妃が信じられないものを見るような目で俺を見た。
「そんな、……そんな都合のいいこと、あるはずが……」
王妃が腰を浮かせた拍子に腕が当たり、ティーカップが倒れた。カップはそのまま床に転がり落ちて、派手な音を立てて割れる。
こちらへ寄ってこようとする女官を制して、
「あります。俺の目を見ていてください」
自分の目を指差しながら言う。そうしてティーカップの破片を見つめた。
壊れたものは、普通は元には戻らない。だけど今の俺にならできる。できると信じ込むことが大事だ。
動画を巻き戻しするかのように、ティーカップの破片がくっつきはじめ、新品同然にまで戻る。ついでにそれを浮かせて、ソーサーの上に戻した。
「その目は……竜眼? まさか、どうしてあなたが。それに今のは真なる力……」
王妃が唇を震わせた。
一方のジルムーン王女は黄色の竜眼を丸くして、「目が、戻ったわ」ぽかんと呟いた。
「真なる力を使うときだけ竜眼になります」
「……ある人の血って、アヤトの血のことなの?」
ジルムーン王女が目を瞬かせる。
「いいえ。もっとすごい人の血ですよ」
俺がそう答えると、王妃は深い溜め息をついて肘掛けにもたれかかった。
「そう。そういうこと。そうね、あなたは元々……そうだったわね」
「もっとすごい人の血」と言っただけで、王妃は正確に当たりをつけている。一国の妃なだけはある。
「聖花祭で俺の主を呼びます。カルカーン王子殿下には、その日を最後に表舞台から退いていただきます」
「あなた……いえ、よくわかりました。どうぞ、その血の持ち主にはよしなにお伝えください」
「承りました」
王妃はこれで納得してくれたようだ。
王妃が自ら毒を飲むほどの希死念慮から解放されたかどうかはともかく、ひとつ安心してもらえたことは確かだと思う。
「その方の血を飲めば、ジルは宮に閉じこもらずともよくなる? 元気になったら、城下町や地方の視察に出かけてもいい? お父様たちの政の話に加われるようになる?」
一方のジルムーン王女は、矢継ぎ早に尋ねてきた。いずれもカルカーン王子が普通に行い、意識したこともないだろう行為だ。
「ジルムーン……。ええ、きっと」
ルナルーデ王妃が頷く。目の表面が涙で潤んでいる。
「飲むわ、アヤト。ジルはそのお方の血を飲みます」
ジルムーン王女の竜眼には、彼女の決意が滲んでいるように見えた。
「……では、俺の主にはそのように」
王妃と王女に別れの挨拶を述べ、俺は中奥を辞去した。




