36.ラナン・ローレン -3-
劣り腹。
あまり聞き慣れない言葉だが、つまりラナンの母親はカナハ嬢の母親とは別の女性ということか? 同じ母親であれば、わざわざこんな言い方はしないだろう。
あり得ないと断じたいところだったが、思い当たるふしがないでもなかった。
訓練所にいたころだ。カナハ嬢にハンカチを借りていつになく浮ついていたころ、ラナンに尋ねたことがある。人を好きになるとどういう気持ちになるのか、とか……今思えば年下の友人を相手にそんな相談をするなんて正気の沙汰ではない。
とにかく、ラナンはそのときにこう言っていた。
ローレン公爵領は冬の寒さが厳しく、生きて朝日を拝めるかどうか怪しいような生活を送っていた、と。そんな中で彼の初恋の女の子は亡くなってしまったとも言っていた。
よくよく考えたらおかしいことだ。公爵家の次男がそんな生活を送っていたはずがない。
普通、貴族の家の子供は王都の屋敷で育てられるからだ。領地で過ごすのは学園を出て成人して以降になる。
「以前公爵家の屋敷で働いていた女に金を掴ませました。信憑性は高いと思います。君はそうした話を耳にしたことはありませんか? 確か、彼とは訓練生のころから親しくしていたそうですが?」
すぐには返事ができなかった。
……エルネストの話は、恐らく真実だ。
ローレン公爵家当主が領地で正妻以外の女に生ませた子であるなら、ラナンが厳しい環境で育ったことにも納得がいく。公爵が女を追い出したのか女が自ら出ていったかは定かではないが、それはこの際どちらでもいい。
かつてのラナンは、ローレン公爵領で貧民と変わらない生活を送っていた。やがてなんらかの機会に公爵家に引き取られ、体面のためかなんのためか、非嫡子であることを隠匿されて育った。
辻褄のあう部分が多すぎる。
「……さあ。身分に関わる話をするのは禁止されていましたから」
が、適当に答えた。こいつらにラナンのことを話すのは、あまりに癪だった。
本当の意味での自己紹介をする前に、ラナンは死んでしまった。彼の口から偽りのない名前を聞くことは、ついぞなかった。
ラナンの笑顔が蘇る。
自分の手のひらをきつく握った。
「そうですか。まあ、訓練所は規則に厳しいと聞きますから、仕方がないですね」
「事実かどうかは別にどうだっていい。このことは知り合いの記者に知らせた」
はっと顔を上げる。
こいつらは、ラナンの出自をゴシップのように面白おかしく記事にするつもりか。
「『任務中に非業の死を遂げた公爵家の次男、その死に見え隠れするローレン家の秘密を探る』──なんて、いかにも庶民が好みそうだろ」
「この記事は近々出回ります。当然、公爵家には調査が入ります。次男の生母が夫人でないとなれば、戸籍を偽った罪に問えます。当主の蟄居引退が妥当なところでしょうね」
やたらと楽しそうなエルネストとアーヴィンを眺める。
「そうなれば、公爵家には相当の打撃を与えられますよ」
言葉もなかった。
今回のこれは王子もレオも承知の上だろう。エルネストとアーヴィンは王子の許可なく動いた前回、王子から睨まれていた。さすがに王子の許可を得ていると考えるべきだ。
……たぶん、俺だけが知らされていなかった。
エルネストやアーヴィンと信頼関係を築けていなかったからだ。失敗した。こいつらの存在を軽視しすぎた。学園にいる間にもっと交流をはかっておくべきだったのに。
今から新聞の差し止めを国王に頼んだところで、間に合うかどうか。いや、なんとか間に合うように動いてもらうしかなかった。
異形の腕が明後日の方向にすっ飛び、その先で塵となった。
こいつらに痛覚があるとも思えないが、バランスを欠いたように向こうの体が傾いた。
今度はもう一方の腕を斬り飛ばす。また塵になる。
いずれも致命傷ではないのでまだ死なない。
不意にぼろ布がゆらっと揺れて、異形がこちらに突っ込んできた。腕がなくなったので直接喰らいつこうとしたのだろう。
それをかわして背中を蹴り飛ばすと、まるで人間のように地面に倒れ込んだ。化け物の癖に。
いらいらしながら、放り出されたその足部分に刀を突き立てる。
……こんなのただの八つ当たりだ。わかっている。
もしユキムラなり他の誰かが見ていたら、俺の精神状態を疑うだろう。異形で遊ぶなと怒られるかもしれない。
痙攣する異形を見下ろし、ため息をつく。
やめよう、こんな悪趣味なこと。
刀を引き抜き、異形が起き上がってくる前に首部分を凪いだ。ころころと転がっていった頭部が塵になり、残った胴体部分も同じように崩れはじめる。
討滅任務を終えると、俺はすぐさま王都への帰路に立った。
執務室では、いつもどおり国王とユキムラが待ち構えていた。
「異形の討滅ご苦労だったな」
ただし、王の俺を労る声はいつになく気怠そうだった。
なんとなく違和感があり、無礼にならない程度にエルクーン国王の顔を観察する。
……この人、前からこんな顔だったか?
ふと疑問に思った。
以前も疲れているように見えたが、今ほどではなかった。急に痩せたんだろうか? 目もとが落ちくぼんでいるようにも、やつれているようにも見えた。
以前提案していた二院制を議会に上げている最中なので、忙しくてあまり休めていないのだろうか。
「それで、学園のほうはどうだ?」
「亡くなったラナン・ローレンの件で近々動きがありそうです」
国王が「ほう」と目を上げた。その反応からすると、俺の報告書にはまだ目を通していないらしい。側近たちのところで止まっているのか?
「ラナンが公爵夫人の子ではないのでは、とエルネストが。当主が領地で別の女に生ませた子の可能性があると言っています」
しばらくの間、国王の指が机をとんとんと叩く音が続いた。すぐに返答があるものだと思っていたが、それ以外の反応はない。
「……陛下?」
「ああ、すまない。ラナン・ローレンは届出の上では次男となっていたはずだ。確かにこれが非嫡子であれば問題だが……」
どことなく歯切れの悪い調子だ。
「事実であろうとなかろうと、新聞社に記事を書かせようとしています。できれば発行される前に差し止めていただきたく」
「……そうだな」
そうだな、ってなんだ。差し止めするように動いてくれるつもりがあるのかないのかどちらなんだ。




