第2章 出会い その2 竜の娘
翌朝、アッシュールは目を刺す光で目を覚ました。朝露で濡れているマントを広げ、乾燥させる。焚き火を熾し、麦かゆの残りを暖める。アッシュールが動き始めると、タルボとカルボも目を覚ました。アッシュールは手綱を草が生えている別な木に結ぶと、タルボとカルボも草を喰み始めた。アッシュールも麦かゆを食べ、後片付けをした。
火を消し、タルボに跨る。右手に槍を構え、南へ向かう。
朝の陽は低く、大地にアッシュールの長い影を映す。渓谷の山々は段々と低くなり、平地に近づいていることを示していた。このまま川沿いに南下すると、東西を貫く街道に出ると聞いている。街道を西に行くと、街があるらしい。街は人が多く、活気があると聞いている。
伝統として、竜の村の住民は村から出ない。村は自給自足であったが、塩は村で採れなかったし、通貨となる金や銀も村では採れなかった。交易は村長の大事な仕事で、村長と少数の護衛だけが村を出て街へ行っていた。まだ若いアッシュールは交易に参加した事が無く、街道を見たことが無かった。
渓谷が切れ、木々が少なくなり、草原と変わっていった。草原に変わると風が出始めた。アッシュールは槍をタルボに仕舞い、周囲を見まわした。草原が風になびき、せせらぎと似た音を奏でていた。川を覗くと、鱒が跳ねていた。
正面を見ると、一面の草原だった。アッシュールは鹿の親子と目があった。鹿はアッシュールを見ると急いで逃げ出した。
初めて見る大草原にアッシュールは心を奪われた。大草原と言っても、湿地であるようだ。アッシュールが歩みを進めると、水鳥が一斉に飛び立った。水鳥の群れはまるで一羽の鳥のように、混沌としながら整然に飛んで行った。
アッシュールはぬかるむ地面を進んでいくと、踏みしめられた一ジュメほどの幅の道にでた。東西に延びている。
「これが街道なのだろうか」
街道と行っても、獣道に毛が生えた程度の道である。先人が歩き、旅をして踏みしめた跡があるだけだった。よく見ると、石が積んである。
「街道でも、街道で無くてもいいか」
アッシュールは大草原を横切る細い道を西に向かうことにした。
「この先に街があるのか」
アッシュールは大草原の先を眺めるが、地平線が広がり、街らしき影は見えなかった。
「広い」
アッシュールは率直な感想を口にした。草原の向こうには山も無く、遮るものは何も無い。草原が果てしなく広がっているように見えた。
「よし、行こう」
初めて見る広い風景に生まれた怯みを言葉で封じ込め、タルボに進むようたてがみを撫でる。タルボはアッシュールをちらりと見ると、ゆっくりと歩きはじめた。
アッシュールは丸一日、草原の中を進んだ。風が心地よくアッシュールの頬を抜けていった。水鳥がアッシュールを見つける度に飛んで行った。
昼を越えた頃だった。タルボが歩みを止めてしまった。アッシュールも何かを感じた。何か、巨大な何か。アッシュールは周囲を見まわす。前方に川が南北に流れている。北側には森が広がっていた。
「ここだ。ここから、何かを感じる。とてつもない何かだ。タルボ、お前も感じたのか」
アッシュールは槍を構え、森に近づいていく。川沿いは湿地ではなく、しっかり歩くことができた。
森の中にタルボを進ませる。森は木々が生い茂り、地面に太陽を通さない。馬が進めるのは、川沿いのだけだった。
慎重に川沿いを進んでいく。アッシュールの額にに脂汗が光り、槍を握る手に力がこもる。
間違い無かった。何かがいる。遠くからでも、存在をアッシュールに誇示できるほどの何か。
アッシュールはタルボから降り、木に手綱を結んだ。息を殺し、ゆっくりと歩を進める。
「トカゲか、いや、違う。もっと、巨大で強いものだ」
アッシュールは確信と共に進む。
川は滝になっていた。右手には獣道が見える。アッシュールが滝を覗いたとき、強烈な衝撃が襲った。頭を直接打ち抜かれた様な、精神の衝撃がアッシュールを襲った。アッシュールは意識を失い、滝壺に落ちていった。
体に激痛が走る。アッシュールは恐る恐る空を眺めようとするが、背中と左足の打撲のため、目を開けることが出来ない。大きく息をする。目をゆっくりと開けていく。木が見える。木は一本ではなく、森の中にいる。水しぶきが音と共にアッシュールに降りかかる。
痛みが冷たさに癒されていく。アッシュールはようやく体を起こし、周囲を見渡す。目の前には川が流れていた。右手から水の轟音が響いている。顔をゆっくりと向けると、滝壺となっていた。青年は滝壺の溜まりに打ち上げられていた。
手頃な石の上に座ろうとした時、背中が酷く痛んだ。
「僕とした事が、滝に落ちたのか」
アッシュールは滝を見上げる。木よりも高い滝だった。滝は並々と水を吐き出し、下流の森を潤している。
改めて、青年は森を見回す。深い森だった。森を横手に、川沿いを歩いて来たのだが、滝壺で行く手を阻まれたのだった。
大きく息をすると、痛みが和らいでいくが、両手に得物が無いことに気が付いた。
「まずい!」
青年は声にならない叫び声を上げ、立ち上がる。鍛冶屋のエンメンから譲り受けた槍が無いのだ。代わりの武器、剣を取ろうと左腰に手を向けるが、主を失った鞘だけが、青年の左手の中で揺れていた。槍と剣を一度に失ってしまったのだ。
周囲を見回し、槍と剣を探す。川の中に入ろうとしたが、流れが強くて入る事が出来ない。滝壺の方へ歩いて行き、落ちていないか探すが、見つけることが出来なかった。滝壺の下にあるのかも知れない。
「さぁ、アッシュール・イズドゥバル、行くぞ!」
アッシュールは自分の名を叫び鼓舞すると、滝壺へ飛び込んだ。
滝壺の水量は圧倒的で、落下する水が作り出す水泡で何も見る事が出来ない。何も出来ず、下流へ流されていく。
「死ぬかと思った・・・」
アッシュールは川岸に這い上がると、横になった。陽光が眩しく、衣類を乾かしてくれる。
「槍と剣を無くしてしまったか・・・」
アッシュールは一人呟くと、刃渡り拳三つ分ほどのナイフを眺める。片刃のナイフだ。
森は深く、大きい。アッシュールは実際に足を踏み入れて初めて実感した。アッシュールは森は生命の生まれる地であり、豊かであると思っていたが、この森は生命の息吹が感じられない。小鳥すら見つからない。静寂の森だった。
森の中、身を守る武器はナイフだけになってしまった。何者かに襲われたとき、ナイフだけだと分が悪い。草を薙いだり、小枝を払うだけだとナイフで十分である。干し肉を切ったり、むしろナイフの方が有用だ。森の中を進むだけであれば問題ない。盗人や人攫い、大型の獣、それにトカゲに出会ったら、ナイフでは心細い。
アッシュールは森から出ようか迷った。墨婆から貰った業物だった。同じレベルの品は手に入らないに違いない。
「せめて剣が欲しい」
深い森に問いかけたが、木々は何も答えない。時より、風が吹き葉の音を奏でるだけだ。
「森に入ったのは失敗だったかな。妙な胸騒ぎがしたのだけど。槍や剣を落としてしまうようじゃ駄目だね。森を抜けたら、剣をどうするか考えないと。しばらくは、下働きしないと駄目か」
アッシュールは衣類が乾くと、意を決して進むことにした。剣は手にないが、すながねを打ったナイフは、剣よりも硬く、良く切れた。エンメンの自慢の作だ。
森の外から、アッシュールにも感じられるほどの大きな何かがある。存在が大きすぎて、小鳥も飛び出せないのだ。森の生き物たちも感じ、動くことが出来ないでいる。アッシュールは存在感、強烈な何かを放つ存在に向けて足を向ける。いや、向けようと努力する。滝に落ちる前より、存在感は大きくなっている。まるで見えない壁の様に、アッシュールの歩みを止めようとしている。
アッシュールの後頭部が痺れてくる。アッシュールの奥底が、もう歩くなと警告を発する。行くと、自分の存在が危ういと、深層に働きかけてくる。働きかけは功を奏し、アッシュールの歩みを止めさせた。
「一体何があるのだろう。行くぞ、アッシュール・イズドゥバル」
再び自分に発破を掛け、歩みを始める。アッシュールは、心が恐怖を感じる以上に、好奇心を、知りたい欲求を抑えられなかった。
「あっ」
アッシュールは声を上げ、一ジュメの距離を飛ばされた。目の上で、木々から黒い鳥が一斉に飛び出した。お腹の黄色い小鳥がアッシュールの上を通過する。鹿の鳴き声がする。唐突に森が動き始めた。
アッシュールはまとわりつく虫を叩きつつ、起き上がる。静寂だった森に、命が巡って来たかのようだった。アッシュールの心を萎縮させた強烈な存在感が消え失せた。
「何があった・・・」
アッシュールは歩みを始める。足が軽い。ナイフで藪を払いつつ、進んでいく。
「あっ」
アッシュールは再び驚きの声を上げる。
「赤い。竜神様か」
アッシュールの前に、真っ赤な山がそびえていた。山ではない。
アッシュールは初めて見る姿にうちひしがれ、呆然と巨体を見上げた。
竜であれば、先ほどの、生命を奥底から萎縮させる存在感は納得できた。同時に、存在感が消失した理由も理解出来た。
竜の喉元に一本の剣が突き刺さり、大きな岩をも貫いていた。竜は岩の上に横たわり、動くことが出来ないでいる。
「死んでいるのか?」
アッシュールは一人、勇気を出すように声を出した。
大きい。アッシュールは大きさに驚嘆した。三十ジュメほどの長さであろうか。
美しい。
アッシュールは純粋に、目の前の巨大な生物を美しいと感じた。
胴から出ている大きな翼が、飛び立とうと動き始めるが、アッシュールの目に見ても無理に思えた。剣が貫いている喉元から、血が溢れるように流れ始めた。
「まずい、血を止めないと!」
アッシュールは竜に向かって走った。岩を登ると、竜の大きな口が、ゆっくりと開き、アッシュールでは聞き取れない呻き声を発した。アッシュールは不思議に思い、耳を澄ますと、今度はアッシュールに聞き取れる言葉を発した。
「短命よ。あなたに、お願いが、あります。私の最後の願い、です。どうか、聞いて、貰えぬでしょう、か」
アッシュールに向かって、竜が話し始めた。話しているのか、直接心に届いているのか。声は苦しそうで、残りの命を振り絞っているに違いなかった。
「私の、逆鱗に、剣が、刺さって、います。抜いて、」
アッシュールは驚と同時に、必死に竜が言おうとしている内容を聞き取ろうとした。
「抜いて・・・私の息を・・・止めて・・・ください・・・」
「おい、何を言っているんだ、しっかりしろ!」
「後生・・・です。何処の・・・誰かより・・・私を見た、あなたに・・・託したい・・・」
竜の目は徐々に力を失い、声も小さくなっていった。
「駄目だ、最後まで生きるんだ! お前、竜だろう!」
竜の目が空を見る。
「確かに、私は・・・竜・・・ 剣、に・・・力を・・・ほとんど・・・うば、わ、れた」
「しっかりしろ! 良いか、今から剣を抜く! お前は、俺と同じ姿に作り替えろ! 良いか、人になれば、手当が出来るかも知れない! 希望を持て、お前は竜だろう!」
アッシュールは立ち上がり、剣の柄を掴む。剣の長さは靴三足分より短い。太さは拳一つ分だ。両刃の直剣だった。
「いいか、抜くぞ!」
アッシュールは、竜と目があった気がした。生きる気力が沸いてきたのだと、思うことにした。
剣を掴む。剣は竜を貫き、岩に突き刺さっている。動かない。両手で剣を掴む。
「抜けろ、抜けろ! 頼む、抜けてくれ!」
ふっと剣の感触が軽くなると同時に、鮮血がアッシュールを襲う。
剣が抜けた勢いと、鮮血の衝撃でアッシュールは岩から落ちた。
「う」
アッシュールは息が詰まり、一瞬視界が消え失せた。視界は漆黒であったが。目を開けると赤く染まった。段々息が出来る様になる。
「竜!」
アッシュールは立ち上がると、竜の姿が消え失せていた。一頭の白い獣が、岩の上から走り抜けた。
「獣!」
アッシュールは竜が獣になって逃げ失せたかと思い、慌てて岩の上に駆け上がる。
アッシュールは息を飲んだ。余りの美しさに声が出なかった。
「どうです、短命。私は生き残りました。手を貸してくれませんか」
アッシュールは竜の声が入らなかった。
目の前には、白い女性が横たわっている。白い。腰まである長い髪も、細い腕も、長い足も、美しいとしか表現出来ない顔も、何もかも白い。目だけが赤い。赤い眼が、アッシュールを見つめている。喉に赤い血で濡れていたが、声も出ていて、血の量も増えていない。大丈夫の様だ。
「余り見ないでくれませんか。裸ですので、恥ずかしいです」
竜が言い終わると、大粒の雨が降り始めた。消失した竜の力が、天候までも狂わせているかのようだった。
ヒロイン登場回となります。
かなり少ないのですが、拙作を読んで下さる方、
本当にありがとうございます。




