泥水溜まり
シャワーの水音を、こうも客観的に聞いた事はなかった。低温を響かせながら稼働する洗濯機の音は、いつも通りに響いているというのに。
現状を整理しようと考えを巡らすも、水の音がそれこそ水滴のようにそれを弾けさせる。雨戸も閉め切ったままの薄暗い部屋、いつも通りの自室の中が、いつもとは違う空気を孕んでいた。
自分の部屋なのに落ち着かない。落ち着けない。
溜息を一つ吐き、何をそんなに気にする必要があるのかと自分自身に苛立つ。そして、その苛立ちを抱いたままベッドの上に転がった。仰向けに横たわり、右手で額を覆うようにして押さえる。頭痛はない、熱もない。ただ、戸惑っているのだろうその中身に落ち着けと言い聞かせたくて。
瞼を閉じては開き、考えを巡らそうとしては霧散させて。自分の物ではない水音を背景に、そんな事を繰り返している内に。夜勤明けの身体が欲求に抗うのを止めていた。
引き摺り込まれるようなイメージが頭の奥に浮かんでくる。身体の内奥に巣くう魂を、背中から掻き出されていくような。
かぎ爪に引っ掛けられるように、或いは無数の白い手に覆われていくように。疲れた身体は眠りに落ちていく。意識が攪拌されていく最中、思い浮かぶのは荒唐無稽な化け物でも何でもなく、あの少女がここにいる理由だった。
コンビニの夜勤を済ませ、いつも通りの帰路についていた。別に特筆するような事は何もない。つらいことは何もない。だって仕事だから。そうしなければ何も出来ないのだからそれをやる。そこにつらいも苦しいもない。少なくとも、周りの誰もそんな事は言っていない。ならば、もしやつらくて苦しいのは自分だけなのではないか?
そんなくだらない事を考えている内に、苦痛の時間はいつも通りに終わっていく。どんな弱音も慟哭さえも、仕事だから仕方がないと言われてきたのだから。
つらいことは何もない。それが日常という名前を持っているのならば、これはつらいのではなく普通なのだ。ただそれだけ。生きているのだから、仕方がない。
そんな不毛な時間を終え、不毛でも何でもない、何者でもない時間がやってきた。帰り道でいつも通りの公園の前を通り、いつも通りの先客がいるのを確認してからその領域に侵入する。
そこで、いつも通りではない事が起きた。
ベンチに腰掛けた少女は、足音に気付いたのか顔を上げる。学校指定の制服の上から、薄手のパーカーを羽織っている。パーカーのフードを目深に被り、こうして見下ろすと口元ぐらいしか見えない。
少女が戸惑ったように口を開き、掠れたような声を出す。出したように見えた。実際に届いた音は、それこそ風が鈴を掠めた時の音でしかない。
そして、近付くにつれてその姿がいつもと違う事に気付いた。
灰色に染まったパーカーが、所々泥に汚れている。一度気付いてしまえば、すぐにどういう状態か分かった。パーカーの裾から覗くプリーツスカートも泥が染み付いており、その下のタイツも湿っている事が見て取れる。人形用と言われても納得出来る小さな革靴も、乾き掛けた泥が光の反射を妨げていた。
「その格好……」
頭の中に過ぎるのは、そうなった原因だ。好き好んで泥塗れになる人間はいない。泥に紛れなければ生きていけない人達はその限りではないが、この少女はそういう場所に生きている訳ではない。
不穏な映像が目の奥に流れる。なぜ泥に塗れなければいけなかったのか。ひどく不愉快で、それでいてどこにでも転がっているような。
「……お兄さん、私」
何とか言葉を紡ぎ出した少女は、細い指で公園の入り口を指差す。その方向を見ると、小さな水溜まりが目の入った。水溜まりというよりは、泥水溜まりと表現した方が正しいだろう。
時折降り出す雨によって作られた、何て事はない泥水溜まりだ。
今の惨状は、あれが原因だと言うのだろうか。そうだとして、一体何が?
「どうしよう、おこ、怒られます」
自分自身の身体を庇うように抱き留めねがら、少女はそう言った。フードの奥で煌めく目が、こちらを真っ直ぐに射止めている。青ざめた表情をしている少女は、堰を切ったように話し始めた。
「こんなに汚したら、ダメな事になります。学校も、あんまりひどいと連絡しちゃう」
少女の顔は、どこか無表情にも見える。
「それは良くなくて、でも、家は今日ダメで。人がいるから」
感情が表から消えてしまう程、切羽詰まった状態なのだろう。
「大変な事を……ジャンプなんかするから」
少女の顔が後悔に歪む。だが、その一言がまず引っ掛かった。
「ジャンプって、もしかしてあれを?」
先程指差していた水溜まり、もとい泥水溜まりだ。
「足が変な感じになって、ばしゃんしました。それは、いいんです」
どうばしゃんしたのかはいまいち分からないが、要するに。
「自分で転んで、そうなったって事?」
「そうです。何でほっとした顔してるんですか、怒られちゃうのに!」
少女にしては珍しく、声を荒げて訴えている。そんな少女には悪いが、ほっとしたのは事実だった。思い描いていたような、最悪な光景はここにはなかったという訳だ。
「どうしよう、怒られる」
いよいよ泣きそうになった少女を前に、少し冷静になって考えてみる。
少女は自ら転び、服を泥だらけにしてしまった。このぐらいの歳の子ならば、まああってもおかしくはない事態だ。いつ如何なる時も綺麗でいられる程、この世は清潔には出来ていない。
だが、それは少女にとって取り乱す程の事態なのだ。発言の内容から、その真意を探る。
このまま学校にはいけない。あまりに汚れていると、連絡されてしまうから。だが、家に戻る事も出来ない。人がいるから。
携帯電話を取り出し、時間を確認する。夜勤明け、朝の六時半だ。
「……学校は何時から?」
目を伏せ考え込んでいる少女に、そう問い掛けてみる。何をするのにも、時間が肝要だしそれ以外は重要ではない。今はそういう事にしよう。
「えっと、朝のがあります。朝のが、八時三十分です。それで、遅刻の人が決まります」
少女は顔を上げ、たどたどしくはあったがきちんと説明してくれた。八時三十分……それまでに、少女が綺麗な状態で学校に居ればいい。
「えっと、その」
どうにか出来るかも知れない。その手段が浮かび、声を掛けてしまってから気付いた。言い淀み、自分の行動が正しいか否かを熟考する。
少女がフードを僅かに上げ、調った目鼻立ちと絶望の跡を外気に晒す。目の奥が揺れている。初めて見る表情だった。刻み込まれた恐怖が、心の奥底から染み出しているかのような。
自分の取ろうとしている手段は、きっと間違っている。近しい存在だからといって、近付いていい訳ではない。近付き過ぎない方がいいのだ。
「……分かった。選んで」
近付いてはいけない。だが、‘何か’に怯える少女の目を見ていると、いつものように突き放せなかった。だから、幾つかの案を出した。学校を休んで、クリーニング代を出すからそれで何とかする、とか。そういう現実的な案も出した。
だが、何を言っても少女の顔は曇り空のままだ。
「それか……その」
仕方がなく……またこの言い訳を頭に思い描きながら……最後の案を口にする。最初に思い浮かんだ案でもあり、誰がどう考えても間違っているとしか思えない案だ。
だが結局、少女の笑顔を取り戻したのはそのどうしようもない案だけだった。
目を開き、腹の底に溜まった倦怠感を呼吸と共に吐き出す。薄暗い天井が視界に入り、どうしようもなく間違っている筈の案を思い返す。
八時三十分までに、少女が学校に着いていればいい。時間が充分にあるのなら、洗濯し乾かす事ぐらいは出来る。洗濯機と乾燥機、後はアイロンがあればどうとでもなる事だ。
それらは全部、この部屋に揃っている。そう思い浮かんでしまったのが、そもそも間違いだったのだ。そして、少女の悲痛な目に耐えきれず、それを話してしまった事も。また、間違いだったと思う。
だから、現状を言葉に置き換えるとこうだ。
「小学四年生女児を、部屋に連れ込んだ」
ぽつりと呟きながら、あまりにもよろしくない字面に苦笑する。
「お兄さん、起きました? 早起きです」
天井を眺めるのを止め、声の方向に頭を向ける。そして、夢でも何でもなかったのだと改めて気付かされた。
ベッドの端に頬杖をつきながら、少女は思いの外近い位置にいる。まさかと思うが、ずっと寝ている様を見ていたのだろうか。
吐き出した筈の倦怠感は、まだ腹の奥に幾らか残っている。頭の中に蔓延る靄を追い払いながら、いつも通りフードを被った少女の姿を確認していく。
乾燥機の稼働している時の騒々しい低温が部屋に響いている。そして、どうもおかしいと少女の姿を見直す。
「あ、お洋服を借りてます。本当は、聞いてから着なきゃです。でも落ち着かなくて」
その視線に気付いたのか、少女が頬杖を止めて立ち上がる。黒のパーカーを羽織り、フードを被っている。洋服を借りている。その言葉がようやく処理を通ったのか、それが自分の持っていたパーカーだと分かった。男物の大きなパーカー、その裾から、細くて白い足が伸びている。
「全部洗っちゃったので、私困って。これ、やっぱりないと変な感じがして」
そう言うと、少女は両手でフードをひょいと持ち上げた。少女にとって、フードを被るという行為は何かしらの防御手段なのだろうか。
そこまで考えて、ようやく正常に回り始めた頭が、目の前の光景を理解し始めた。
少女に提案し、この部屋まで来て貰った。幸い、洗濯機や乾燥機の使い方は分かっていたので問題はない。だが、少女は髪に付いていた泥を気にしている様子だった。だから、部屋にあるものは自由に使っていいと言ったのだ。気になるなら、頭も洗ってきてもいいとも言った。
笑顔で頷き、少女は浴室の方に駆けていく。シャワーの音が聞こえ始めて、気付いたら自分は眠っていた。
「でもお兄さん、髪綺麗になりました。さらさらです、ほら」
そう言って、少女は再びベッドの端に頬杖をつくようにして顔を近付けてきた。そして少女が前のめりになった時に、ぶかぶかのパーカーの中が少しだけ見えてしまった。
「ちょ、っと……!」
言葉にはなっていたものの、上げてしまった声はそれこそ悲鳴みたいなものだ。顔を背けるようにして、その白に近い肌色を視界から消し去る。
「お兄さん、どうしました?」
当の本人は、全く気にしていない。きょとんとしている少女を見ていると、自分が間違っているのかとちょっと感性を疑いたくなる。見てはいけないものを見てしまわぬように顔を背けたのだが、見てはいけないと考えている時点で自分は間違っているのだろうか、とか。
「そうか、全部って」
少女は、全部洗ったと言っていた。要するに、身に着けていた物全てだ。少女の身体を包んでいたあらゆる物は、今乾燥機の中で攪拌されている。
それで、フードがないと落ち着かないのでパーカーを借りた、という訳だ。
「フードの問題じゃないだろ……」
「ん、何か問題……を? あ、これ大切な物だったり」
そう言って、少女はパーカーの裾を掴む。
「大丈夫、大丈夫だから。ただの部屋着、着ててもいいから、その」
あまり少女を低い位置から見ない方がいい。まだ横になっていたいと訴える身体に動けと渇を入れ、上体を起こす。そのままベッドの端に腰掛け、少女の顔だけを見るように心掛けた。
「……その?」
言葉尻を拾い上げ、少女が小首を傾げる。何かを言おうと思って口走った訳ではない。とりあえずその行動を制止する為に、思わず口をついてしまったのだ。
「……その、大人しくしてて。飛び跳ねたりしないように」
それらしい言葉を繋ぎ合わせ、疑問符を頭の上に出している少女に伝える。
「もう飛ばない。私転んじゃったから」
神妙そうな顔をして、少女はそう返してきた。この事案の発端となった、泥水溜まりジャンプ事件についてだ。
「ならいいよ。時間は……まだ間に合いそうか」
時計を確認すると、七時半を回った所だった。乾燥機が唸るのを止めれば、後はアイロンを掛けておしまいだ。この事件は片が付く。
「はい。お兄さんのお陰です」
そう言って、少女は同じようにベッドの端に腰掛けた。いつもベンチで座っているように、それが当然の在り方だと主張するように。
いや、いつもとは少し違う。あのベンチよりも広いベッドに腰掛けているのに、少女の熱が間近に感じられる。
いつもは、拳一つ分程空けて座っている。だが、今はそこに僅かな隙間も存在していない。身体の半身から、じわじわと少女の熱が染み込んでくる。
「……近い」
絞り出すような声でそう抗議した。石鹸の匂いが、自分とは違う体温が、息を詰まらせるような緊張を生じさせていた。乾燥機から漏れ出す低温が、心音と混じって聞こえてくる。
「……嫌ですか?」
少女の表情は、フードに隠れてしまって見えない。ただその声色に、嫌だと突き付けるのはあまりにも酷な気がして。
何をどう言えばいいのか。何が正解なのか、何もかも間違っているのか。言葉に詰まっていると、部屋を占めていた唸り声がぴたりと止んだ。間の抜けた電子音が三回、静寂を打ち破るようにして響く。
「あ、乾いた奴です」
ぴょんと立ち上がり、少女は乾燥機に向かって駆け出す。その小さな背中が見えなくなって初めて、まともに呼吸が出来るようになった。
「……子ども相手に何してるんだ」
そう、自身に言い聞かせるように呟いた。
呼吸を整え、掻き乱れてしまった意識を元通りに繋ぎ合わせる。気の迷い、疲れから来た何かだと強引に納得させ、深く考えないように問題を切り離す。
両手にほかほかの服やら何やらを抱えて戻ってきた少女が、歯を見せて微笑んでいる。あんな笑い方も出来るのかと、また少し意識が乱れた。
「アイロン、使えるの?」
動揺を表に出さないように、当たり障りのない言葉を掛ける。
「使えます。見てて下さい!」
服を地面に放ると、少女は手際良く準備を始める。アイロンが熱を持つまでの間に、アイロン台を立て、服を並べていく。
それから少女のアイロン捌きを拝見する事になったのだが、分かった事は二つだけだった。一つは、少女はアイロンを危なげなく使える。洗濯機や乾燥機も問題なく使えている辺り、相当手慣れているように見える。
もう一つ。これはあまり重要ではない事かも知れないが。
少女の言う「全部洗った」という宣言は、間違いではなかった。