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取るに足らない物語  作者: 秋久 麻衣
むしろ暑い
8/9

ミルクティー党

 暗い部屋の中で、真っ白な紙をただ見詰めている。暗闇に沈みつつあるこの世界の中で、目の前のノートパソコンの画面だけが幾分か明るい。そこに映し出された白いままの紙は……いつも使っているワードソフトの白紙は、未だに黒く染まる気配はない。

 白い用紙の上で、黒い縦線が一定間隔で明滅している。ここから文字を打つのだと教えてくれているその縦線を、ぼうっと眺める事しかしていない。

 死体の生活は、少しは変化したと思っていた。コンビニの夜勤を盲目的にこなし、朝に例の少女と公園で会う。会わない時もあるが、大体は少女が待っている。そして、取り留めのない話ばかりをする。大抵は少女が何かしらの話題を振り、それに自分が答えるだけの時間だ。

 少しは変わった。だからこうして、埃の被ったノートパソコンを開いてみたのだが。

 溜息を吐き、ワードソフトのバツ印をクリックする。何一つ思い付かなかった。書きたい物はある。書ける物も多分、ある。でも、それを書いてどうするのか。

 ただ書いていれば楽しかったあの頃とは違う。これが、無意味な行為だともう分かってしまっている。自分がどれだけ世界を作ったとしても、そこに意味はない。希薄な人生を歩んできた自分には、等しく希薄な物しか作り得ない。

 時々後悔する。どうしてもっと、分かりやすい物を好きになれなかったのかと。ひたすら自身の内側に埋没し、文章を作り出す。それが誰かに認められる保証なんてないのに。だからいっそ、もっと分かりやすい物の方が良い。一目で分かるような何かとか、誰から見ても明らかな何かとか。

 そこまで考えて、そんな物こそありはしないと笑みを浮かべる。誰に認められないのも、自分自身すら認められなくなったのも。多分きっと全部、自分が悪い。

「好きな事、か」

 一人呟き、死体には過ぎた真似だったのかもと自嘲気味に笑う。

 本当に、好きだった筈なのに。







 夜勤を終え、すっかり当たり前となった道を通る。朝だというのに、もう既に蒸し暑い。下げているビニール袋にも、もうホットコーヒーは入っていなかった。そこには代わりに、アイスコーヒーとミルクティーが入っている。

 やたらめったらに照りつける太陽に、何がそんなに楽しいのかと聞いてみたくなる。薄手のシャツは、少し歩いただけで湿り始めていた。じわりと滲み出る汗が、内側からシャツを濡らしていく。今日はまた、一段と暑く感じる。

 目的地である公園に辿り着くと、思わず息を吐いてしまった。暑さのせいもあるが、いつものベンチに腰掛けている少女のせいでもあった。

 少女の格好は、出会った頃とあまり変わっていない。相も変わらずパーカーを着て、フードを目深に被っている。そうしなければいけない理由も分かるのだが、さすがにこれは暑いのではないかと心配になる。

 公園に入り、ベンチに近付く。ぎりぎりになっても、少女はこちらに気付かなかった。

「あ、お兄さんです。暑そうです」

 鈴の音を鳴らすような声が、自分に向けて放たれている。いつもの少女の声だが、やはりこの暑さにやられているのだろう。声に力が込められていない。

 フードの付いた大きめのパーカーに、学校指定のプリーツスカート、濃いデニールのタイツの先には、同じく指定された革靴がちょこんと突っ掛かっている。フードの奥から、少女の疲れた表情が見て取れた。もしかしなくても、暑さのせいだ。

「そっちの方が暑そうだけど」

 そう答えながら、少女の隣に腰掛ける。このベンチは木陰の中に置いてあった。その為、こうして座ってみると多少は暑さが和らいでくれたように思える。それでも、やはりパーカーを羽織りフードを被るには足りない。マシなだけで、暑いものは暑い。

 ビニール袋からミルクティーの缶を取り出し、少女の前に差し出す。少しは涼しげな気分になるだろう。

「あ、冷たいの! お兄さんありがとう、甘くて冷たいのです」

 少女は両手でそれを受け取り、少しだけこちらとの距離を詰める。いつも自分は、拳一つ分空けて隣に座っている。意識してやっている事ではない。それを、こうして少女はいつも詰めてくる。意識してやっているのかどうかは、本人でなければ分からないけれど。

「つめたーい」

 ミルクティーの缶を、少女は自身のおでこに当てていた。そうしたくなる気持ちは分かるし、自分も同じような事をするつもりだ。自分用のアイスコーヒーを取り出すと、よく冷えているその缶を首の後ろに当てる。缶に込められた冷気が、肌を通り抜けて脊髄に浸透していくような……そんな感覚だ。

「おでこじゃないです?」

 その様子を見ていたのか、少女がミルクティーの缶をおでこに当てたまま問い掛けてきた。姿勢を少しだけ変え、こちらを見上げるようにしている。少しだけフードが捲れ、その素顔が顕わになっていた。

「えっと、確か。血液が通ってる所に当てると、一番身体が冷えるって」

 どこかでそんな事を聞いた事がある、程度の話だ。

「私のおでこには、血がない……?」

 少女は缶をおでこから離し、神妙そうな顔でこちらの言葉を待っている。衝撃の事実を目の当たりにでもしているのか、その目は期待と恐怖の色が見て取れた。まさかそんな、というような表情だ。

「血はあるけど。大きな血管があるところに、って事。おでこに大きな血管はないでしょ?」

 少女はふうむと小首を傾げ、自身のおでこをさすっている。

「ない、と思います。見た事がない……? 多分ない? ない……」

 断言は出来ないけれど、概ねないだろう。と言いたげな声と表情だ。

「見た事はないけど、おでこにはないよ。大きな血管は傷が付くと大変だから、あんまり肌に近い場所にはない。でも、首の後ろとか。あと、腋の下とか。そういう所にはあるんだ」

 動脈についての話だが。自分よりも一回り二回りも小さい女の子に、何を教えようとしているのだろうか。少女は小学四年生になったらしいが、動脈などを学ぶのはもっと先だったような気もする。

「だからそこを冷やすと、冷えた血液が身体中を回っていくから体温が下がるんだ。熱がある時とかも、首の後ろを冷やすとよく効く……ような気がする」

 じっとこちらを見て、話を聞いている少女に向けて説明をする。なるべく分かりやすいような言葉を使い、話してはみたが。理解出来たのだろうか。

「私のおでこにはないけど、首の後ろにはあって。冷やすと、冷やした場所だけじゃなくてみんな冷えていく、から、そっちの方が涼しい……?」

 少女なりに因果関係を整理したのだろう。たどたどしい言葉ではあったが、間違ってはいない。

「そんな感じ。まあ、おでこを冷やしても気持ちいいから、好きなようにすればいいんだけど」

 ふむふむと少女は頷き、ミルクティーの缶をフードの奥に入れ始めた。首の後ろを冷やしているのだろう。まずは試してみてから、という奴だ。

 目を閉じ、しばらく少女はそのまま硬直していた。その姿を横目で見ながら、自身の首の後ろに当てていたコーヒーの缶を目の前に持っていく。プルタブを開け、アイスコーヒーを飲み始める。

 少女は目をぱちりと開け、こちらに再び顔を向けた。

「冷たいです! まん、まんべんなく……?」

 少女の言葉に頷いて返し、もう一口コーヒーを飲む。

「お兄さん、もう飲んでます。じゃあ、私も」

 そう言うと、少女はフードの奥に突っ込んだミルクティーの缶をひょいと取り出した。細い指がプルタブに引っ掛かり、空気の抜けるような音を響かせながらプルタブが持ち上がる。

 両手で缶を持ち、少女はミルクティーを飲み始めた。何となく、フードから見え隠れする口元に目が行ってしまう。

「うん、甘くて冷たいです。お昼の牛乳も全部ミルクティーになればいいのに」

 少女の舌が、上唇に付いたミルクティーを舐め取る。口元を見ていたから、その動作が目に入ってしまったのだ。何でもないような動きの筈なのに、見てはいけない所を見てしまったような気分にさせられる。

 扇情的だなんて、こんな小さな子に使うような言葉ではないけれど。

「給食の事?」

 意識的に気持ちを切り替え、そんな質問をする。ミルクティーになればいいの下りだ。

「そうです。嫌いではないです、冷たくておいしいです。でも、もっと好きになる方法があります。ミルクティーです」

 鈴の音が、声高らかにスピーチしているような。そんな印象を受ける喋り方だ。

「ご飯に合うかな」

「牛乳とお味噌汁は合ってません。合ってないと思います。ささい……そう、些細な問題です」

 少女がこちらを向き、些細な問題だと力説する。常日頃から思っているのですと言いたげな目が、フードの奥で煌めいていた。

 つまり、牛乳がデフォルトの時点で食べ合わせなんて概念は崩れている。そう少女は言いたいのだろう。

「そう言われると……そうかも。じゃあ、ミルクティーでもいいのか」

 少女はふふんと誇らしげな笑みを浮かべ、ミルクティーをくいと飲む。

「いいと思うのです。良い匂いもします」

 変な所で押しが強いな、と少女を見ていると思う。それは多分、少女の本質に関わる部分だ。

 でも、家や学校にいる時の少女はこうではないのだろう。ここにいない時の自分が、決められた常套句しか口にしていないのと同じように。沢山の言葉を貯め込んで、ここで他愛の無い会話をする。

「そうです。こぼしても、多分、良い匂いがします」

「……どうだろう。結局ほっとけば、臭くなるんじゃないかな」

 それだけの時間が、今ここには流れていた。

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