ごっこ遊び
時折音を吐き出す電話を、煩わしいと思いながらも捨て置けない。実家で今も頑張っている、母からの便りだ。
夕方に差し掛かったものの、太陽が未だに出張っている。そんな時間に掛かってきた一本の電話に、無視するという選択は適用出来なかった。
今日、仕事が休みだという事も理由の一つだろう。だが、それだけではない。
「……もしもし」
ベッドに腰掛けたまま、どこか窮屈な思いを抱きながら。通話の文字に指を重ね、遠く離れた場所とここを繋いでいく。
いつもと変わらない母の声が、他人事のように耳を通っていく。母の話は、いつも他愛のない内容ばかりだ。でも、その裏に潜んだ意味が何となく分かってしまう。
午前だけではなく午後もパートをやるようになったとか、独立した弟が苦労しながらも頑張っているだとか。そんな話をされる度に、詰問されているような気分になる。いつまでそうやっているつもりなのかと、回りを見ろと言われているような気がして。
まあ、そう言いたくなる母親の気持ちも分かるのだ。長男だというのに、定職にも就かずアルバイトで食い繋いでいる。
そんな風に、直接言われた事はない。だけど、言葉の端々から読み取れてしまう。
全部ただの被害妄想ならば、少しは楽になるのだろうか。もっとちゃんと、言葉を返す事が出来るのだろうか。
ああ、そうかと一人納得する。結局自分は後ろめたいのだ。立派に、真面目に、まともに生きられない事が。だからこんなにも空っぽな返答しか出来ない。
父も母も、弟だってちゃんと生きている。立派に、真面目に、まともに生きている。かつては自分も、そうならなければいけないと思っていた。そうなるように努力した事もあった。
「うん。それじゃ」
結局、形にはならなかったけれど。体調に気を付けてという母にうわべだけの言葉を返し、携帯電話をベッドの上に放る。
立派に生きている二人から、色々な物を受け継いでいる筈なのに。自分はそれを生かす事なく死んでいる。
立派に、真面目に、まともに生きていく。どうして、そんな簡単な事が自分には出来なかったのだろう。あげく、自分の作る世界にばかり引き込もって。それが全てだと思い込んで。
そして事実、ここには何も残らなかった。
だから後ろめたい。こんな生き方は不遜だと分かっているのに、それを変える事が自分には出来ない。
もう一度時計を見る。太陽が幅を効かせていても、夕方と表現出来る時間帯だ。
じっとしていても、嫌な考えばかりが頭を過る。全部を無視し、眠ってしまうのも一つの手だろう。
溜め息を一つ吐き、乱雑に置いてある上着に袖を通す。ベッドの上に放った携帯電話を拾い上げ、幾らも入っていない小銭入れと一緒に上着のポケットに詰め込んだ。
行き先に当てなどない。ただ、この部屋から少しでも逃げたいだけだ。
暗い部屋に一瞥もくれず、玄関先に置いてある鍵を掴む。
逃げ場所なんて、この世のどこにもないだろうけど。
そんな事を思いながら、何もない部屋に鍵を掛けた。
どこをどう歩いたのか、どこへ向かっていたのか。何も考えていなかったのだから、ここを通過するのは必然と言えるのかも知れない。
段々と太陽が傾き始め、早合点した街灯がささやかに主張を始めていた。日中は暑いのに、ここから先はまた肌寒くなる。今晩は、いつもより冷え込みそうだ。
そんな寒々とした空気が滞留している公園で、意外な先客を見付けてしまった。
と言っても、この寂れた公園だ。鉄錆以外にここを訪れるのは、自分かもう一人しかいない。
影に侵食されかけているいつものベンチに、あの少女が寝転がっていた。身体を縮め、横を向くようにして寝転んでいる。フードのついた灰色のパーカーに、紺色のプリーツスカート、そこから伸びる細足は黒のタイツに包まれていた。細い足に見合った小さな爪先は、これまた小さな革靴で覆われている。
ベンチの下には赤いランドセルが無造作に置いてあった。影に沈み、色味の薄い光景の中で、その赤だけがやけに鮮明に見える。
少女に大きな動きはない。ベンチに寝転がったまま、時折肩が僅かに動く。そんな状態にあっても、フードを目深に被っているものだから。表情は愚か起きているのかどうかも分からない。
どうすべきか分からない。だが、あまりにも無防備に見えるその姿を見ていると、さすがに心配になってくるというか。
状況から察するに。少女は学校が終わっても、ここのお世話になっているのかも知れない。
想像する事しか出来ないが。少女にとって、家は長居をしたい場所ではないという事だろうか。幾つかの断片を繋ぎ合わせれば、ある程度の憶測は立てられるけれど。それが真実かどうかは、本人でなければ分からない。
そして、自分は面と向かってそれを聞けるような人間じゃない。聞いた所で何も出来ない。
だけど、今はこの状況をどうするかだ。無視をするか近付くか、どちらかを選ばないと。
そこまで考えて、自分の事ながら苦笑してしまう。合理的な理由を、必死になって考えている。或いは、後ろめたくない理由を。
そんなもの、この世のどこにもありはしないのに。
少女だけしかいない公園に足を踏み入れ、二人掛けのベンチに近付いていく。少女に気付く様子はない。近付いてみて、顔の前に携帯電話が転がっているのが分かった。小さな手からこぼれ落ちているそれを見て、やはり眠っているのかと溜息を吐く。
フードを目深に被っている為、ここからでは口元しか見えないが。小さく開いた口からは、穏やかな吐息が漏れているように見える。
そうこうしている内に、太陽はそそくさと退勤してしまった。
このまま寝かせておくのは良くない。しかし、触れるという行動に朧気な抵抗感を抱くのも事実だった。だが、そもそも手が届く距離まで近付いてしまっている。このまま踵を返すのも、目を醒ますまで見ているのもおかしいだろう。
細い肩に恐る恐る触れながら、その肢体を遠慮がちに揺らす。されるがままに振れる少女から、吐息混じりの声が漏れ始めた。言葉にはなっていない、呻き声のような音だ。
「……起きて。こんな所で寝るなんて」
そう声を掛けながら、先程よりも強く揺さぶる。
「ん……」
僅かに身動ぎした少女が、億劫そうに手を動かす。目深に被っているフードを、少しだけずらしている。夢と現実の境界にいるのだろう。蕩けた視線がこちらと交わり、小さな口が音にしかならない声を吐き出す。
つい、その顔をまじまじと見てしまった。そこに刻まれた絶望の痕は、その要因ではない。
整った目鼻立ちに、現実と対峙した者特有の相が色濃く表れている。子どもらしい、無邪気な雰囲気とは無縁の相だ。
そのせいだろうか。小さな子ども相手に、我を忘れて見詰めてしまうなんて。少しだけ頭を振り、少女の意識がはっきりと繋がるまで待つ。
こちらをじっと見据えたまま、ぱちぱちとまつげが上下する。そして、それを皮切りに段々と目に理性的な光が宿っていく。
「……びっくりしました」
それはこちらの台詞だと、反射的に言いそうになる。
やけに肝の据わっている第一声だが、少女にとってここで寝るという行為はそう驚くべき事ではないのだろうか。
「あ……いつもじゃないです。体育の時間がある時は疲れちゃうから、時々なんです」
ベンチに寝そべったまま、少女はこちらの思考を先回りして答える。いそいそとフードを被り直しながら答えてくれているが、まずは起き上がった方が良いと思う。
「体育の授業が時々あるから? それとも、体育の授業の後に時々?」
「ん……」
少女は右手の人差し指で、自身の唇をなぞっている。ちょっとした手癖だろうか。
「体育の時間の後の、時々のです」
特別疲れた時は眠ってしまう時もある、という事らしい。
律儀に答えてくれた後、少女は思い出したように身体を起こし始めた。のそのそと上体を起こし、パーカーに付いた汚れを手で簡単に払っている。細い指がひょいひょいと、パーカーの生地を撫でていた。
「いつ、帰るの? その……まだここに?」
家という単語を、無意識の内に避けてしまう。その癖、聞きたい事は聞いてしまうのだから質が悪い。結果として、中途半端な問いを少女にぶつけてしまった。
「そろそろ帰らないといけない、です。でも、私がじゃなくて。お巡りさんとか。えっと……きちんとした大人? の人とかに見つかってしまうと、心配の種になります。いけません」
鈴を鳴らすような声で、たどたどしく少女はそう言う。考えながら喋っているのだろう。所々言葉がおかしいが、何を言いたいのかは分かる。
少女や家の事情は、顧みなくてもいい。だが、少女を見掛けた別の誰かから、過剰に心配されるのが嫌だと言っているのだろう。そこは傷跡だから、不用意に触れて欲しくないと、そう言っているようにも聞こえた。
「きちんとした大人……か」
小声でそう呟く。本当は自分も、そういう何かになりたかったのに。そういうものになれば、後ろめたいという感情を抱かなくても済むかも知れないのに。少なくとも、今よりは。
「きちんとした大人の人は、きちんとした振りが上手です。えっと、だから私が、それの、材料にされてしまいます」
こちらの呟きを拾い上げた少女が、またたどたどしく鈴の音を鳴らす。
「それが嫌です。大丈夫ってみんな聞きます。私は大丈夫って答えます。それが一番早く、きちんとした大人の人が安心するからです。そういうごっこ遊びにお付き合いするのが、私は嫌です」
そう言って、少女はこちらの顔を覗き込む。分かりますか、分かりますよね? と目の奥の光がこちらに問い掛けている。
「……うん」
大丈夫なんかじゃない。でも、それを共有するには苦痛を伴う。わざわざ傷を見せて、ここがこうだと説明しなければならない。外気に晒されて、好奇に晒されて、痛む傷を引き摺りながらそれを成し遂げたとして。そこには何の意味もない。誰もその傷を治せないという事実しかそこには残らない上に、そんな事は始めから分かりきっているのだ。
だから、大丈夫だと答える。そういう演技をする。自分も他人も騙し通す。傷などない、あったとしても治っていると嘘を語る。
そうすれば、それ以上に傷を曝かれる事はない。そして、そんな質問をした方も安心する。時には、互いに演技だと分かっていて尚それをやる。大丈夫? 大丈夫です。そんな様を、少女はごっこ遊びだと評した。
「ちょっと私、いじわるな事を言いました。内緒です」
そう言って、少女はばつが悪そうに立ち上がる。ひょいとベンチの上にある携帯電話を拾い上げ、それをパーカーのポケットに放り込んでいる。ベンチの下にある赤いランドセルを引っ張り出し、少女は手慣れた様子でそれを背負い込む。
小柄で細身の少女が背負っていると、やけにランドセルが大きく見えてくる。アンバランスだが当然とも言える光景に、本当に小学生なんだなと今更な感想を抱く。
「今日は、朝お喋り出来なかったです。でも、お喋り出来て良かったです。寝てると良い事があります」
僅かに上がったフードの向こうから、少女がにへらと笑みを浮かべるのが見える。細い指が少しだけこちらの袖を引っ張り、かと思うとさっと駆け出した。
革靴特有の足音が、寂れた公園から離れていく。少女が触れた袖を何とはなしに眺め、何だかあっと言う間だったと夕方の時間を顧みる。
もうすっかり暗闇が世界を支配し、街灯が仕事を始めていた。