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取るに足らない物語  作者: 秋久 麻衣
おわりのはじまり
4/9

神様の不在

 思わず足を止め、唖然とするしかない。公園では、予想に反して少女がベンチに腰掛けていた。灰色の、サイズが大きいパーカーを着て、フードを目深に被っている。パーカーの裾からは、やはり紺色のプリーツスカートが見えた。濃い黒のタイツが細い足を包んでいるが、防寒は充分とは言えない。学校指定の小さな革靴が、とんとんと踵を鳴らす。少しでも動いていないと、肌寒いのだろう。間違えようもない、あの時の少女だ。

 他に誰かがいる様子もない。少女が一人だけで、ただ黙って座っている。まるで誰かを待っているかのように。

 そこまで考えて、少女の言葉を思い出す。少女の言った次という言葉を。あれは、自分にとってはただの言葉に過ぎない。決まりきった常套句と同じような、意味のない音の連なりだ。そう思っていたのに。あれはもしや、言葉ではなく約束だったのだろうか。

「おかしいだろ……」

 三週間も経っているのに?

 それとも、友人と待ち合わせをしているとか。そう考えれば、まだ辻褄が合う。

 だが、悠長に考えている場合ではなかった。足を止め、呆然と眺めているその前に。引き返すか通り過ぎるか、少女が気付かない内に決めないと。気付かれてしまえば、また後手に回る事になる。

 引き返そう。気付かれずに通りすぎる自信はない。そう決め、背を向けようとした時、少女のフードが僅かに動いた。様々な事を察する少女の意識が、こちらに傾けられた気がする。

 どう反応するのだろうか。そして、自分はどう反応をすべきか。あの時のように話しかけてくるのだろうか。それとも、もう他人に過ぎないと判断し、そのまま目を逸らすのか。一番現実的なのは、挨拶だけをする、とか。それが無難な選択だろう。

 少女は目を逸らした。何も見なかったと言わんばかりに、何事もなかったかのように。それでいいと思った。自分だって忘れていたのだ。君の事なんて何も知らないし、これから知る事もない。

 だが……だが。それだけではなかった。少女は胸の前で両手を組み、少しだけ俯いてみせる。何だろう、どこかで見たような。

 冷たい風が吹き、少女のフードがそれに引っ張られた。素顔があらわになり、フードの下がどうなっているのかようやっと見えてきた。顔立ちの綺麗な子だったが、年相応のあどけなさは微塵も感じない。

 少女は目を閉じ、口を結んでる。冷たい風に眉をひそめる事もなく、ただ静かに祈っていた。

 そう、祈りだ。両手を胸の前で組み、僅かに俯いて。目を閉じ、何かを祈っている。まるで聖職者のように。形だけを真似た、偶像崇拝とは違う。その静かな表情を見れば、その祈りぐらいは真摯に届くのではと信じてみたくなる。

 だが、そうではないのだと少女を見ていると分かった。フードを目深に被っていた理由が、少女の側頭部や頬に刻まれているのが見える。少女の顔に残されたそれらの痕跡が、何を意味しているのか。想像する事しか自分には出来ない。想像した上で、少女の祈りは届かなかったのだと思うのだ。

 今、少女は何を祈っているのだろうか。それもやはり、想像するしかないのだが。

 そこまで考えて、少女の思惑が分かった気がした。少女は敢えて目を逸らしたのだ。この状況を、自分は後手に回されたと思っていた。でも、違うのだ。

 少女が、後手に回してくれた。声を掛けてしまえば、強引に付き合わせてしまう。だから、選んでもいいのだと。敢えて目を逸らし、それでも諦めたくないが故に祈るしかない。

 引き返してもいい、通り過ぎてもいい。少女はどちらも赦してくれる。

 止まってしまった足を動かす。動く事を忘れた頭を動かす。

 真っ直ぐに、迷いながら、戸惑いながら、その答えを知っている者の元へ。

「……どうして、君は」

 俺を待っていたのか。もうとっくに、生きているだけで死んでいる俺を。

 少女の目の前に立ち、問い掛けようとして。続きを口に出せないまま、ただ見据える事しか出来ない。

「答えてくれるかも知れないって、思ったからです」

 少女は目を開き、微笑みながらフードを戻す。きらきらした目が、隠しきれない痕跡が、フードの奥に消えていく。フードを目深に被っていても、笑顔でいる事は分かる。

 少女はこちらの言葉を察し、そんな風に返してきた。

「こっちはお兄さんの席です。ずっと」

 少女は、そう言うと自身の腰かけているベンチをぽんと叩いた。よく見れば、少女はベンチ一つを占有するような座り方をしていなかった。端に腰掛け、一人分のスペースを空けている。

 三週間、毎朝こうして待っていたのだろうか。聞いてみようかとも思ったが、わざわざ聞き出す事でもない気がした。その代わり、黙って隣に招かれる。少女の隣に腰を下ろし、久しぶりに見る寂れた光景を眺めた。鉄錆と空白にまみれた、とても寂しい光景を。

 この光景の中、少女は待ち続けていたのだろうか。時々ここに来る、と少女は言っていたが。この様子を見ると、どうもそうは思えない。

 負い目がない訳ではなかった。だが、それを言ってみても何にもならない。だから、袋の中から缶コーヒーを取り出した。充分な熱を持ったそれを、少女の前に差し出す。

「コーヒー、ですか」

 受け取りながら、少女はそう呟く。

「中身は何でもいいんだ。熱い物であれば何でも」

 少女はこくりと頷き、少しだけフードを上げて表情が見えるようにした。どうすれば正解なのか分からないと、その目は言っているように見えた。

「あげるよ。寒いだろうし」

 出会った時にくれたカイロの礼でもあるし、都合の良いように忘れていた詫びでもある。

 少女の目が僅かに煌めき、またフードの奥に消えていく。フードから手を離し、パーカーのポケットを探り始めた。

「あ、ありがとうございます。私、私はこれです」

 少女の小さな手が、見覚えのある四角形を掴んでいる。使い捨てのカイロだ。差し出されたそれを、幾らか自然な面持ちで受け取った。

「飲む事ですか? それとも、あたたまる……?」

 本心を察する事の出来る少女が、やはり分からないといった様子で尋ねてくる。受け取った物をどうすれば正解なのか、分からないのだと声に乗せて。

 そうか、と納得する。この少女は、悪意に敏感なだけなのだ。不審や警戒を読み取れても、善意には疎い。そんな物があったのかと、まるで初めて見たとでも言わんばかりに。

 普段、少女が受けている感情の色が、垣間見えた気がした。

「どちらでも。好きにしていいよ」

 そう答えてから、これでは正しく伝わらないと考え直す。悪意に慣れた者は、どんな言葉からでも悪意を拾い上げてしまう。選択肢の一番上が、自然とそれに切り替わってしまうのだ。何を言われても、それがまず自分を突き刺すかどうかを判断する。善意の内奥に悪意を忍ばせている人間だって少なくはない。だから、それが胸に突き刺さる前に。人の言葉も行動も、疑って掛かるのが普通だ。

 そうしなければ、満足に人と話す事すら出来ない。そういう人も、この世にはいるのだ。この少女のように、そして自分のように。

 だから、今の言葉ではだめだ。自分の言葉は、善意の内奥に無関心と拒絶が入り交じっている。言葉を吐くときに息を吐くように、それらの感情が顔を出す。もっとちゃんと、分かるように言わなくてはいけない。もう充分に、そんな悪意は察して貰ったのだから。

「今は、寒いから。熱い物を飲むと、真ん中から温まっていく気がして。俺は、そういう風に使ってる」

 そうでもしなければ、冷え固まって動けなくなる。或いは、無理矢理動かす為に使っている。

 少女が手に持った缶コーヒーを見詰め、たどたどしい手付きでプルタブを開ける。多少手間取ってはいたが、自分で開けられるらしい。

 片手でフードを僅かに上げ、少女はこちらをちらと見る。飲みますよ、いいですかと聞いているようにも見えたし、飲むので見ていて下さいと言っているようにも見えた。

 そんな少女に、頷いて了承を返す。いいよ、分かったと伝える為に。

 少女はフードを元に戻し、両手で缶コーヒーを握った。そして、恐る恐るそれに口を付ける。フードを目深に被っている為、横からでは口元しか見えない。発色の良い小さな唇が、スチール缶にあてがわれている。

 缶コーヒーを傾け、少女は少しずつそれを飲んでいく。一口二口それを繰り返し、少女はフードを被ったままこちらを向いた。

「あたたかいものです。でもにがいです」

「味は何でもいいんだ。温度さえあれば」

 ただそれだけの為に買っている物だ。外側を幾ら暖めても、何も意味がなかったから。

 そんな事を考えながら、手の中にある使い捨てカイロを見遣る。或いは、内側が暖まってくれないのは。もう、そこには空洞しか残されていないからだろうか。

「ないものなら、ある方がいいです」

 分かっているような、分かっていないような、そんな返事だ。いや、この少女は分かっているのだろう。自分がうまく言葉に変換出来ない分も、多分きっと。

 缶コーヒーをもう一度傾け、少女はまたこちらに向き直った。身に纏った空気が、どこか冷えきっているように見える。冷たいとか寒いとか、そういった事ではない。

 心の芯まで冷えている者が醸し出す、諦念と絶望が。自分も散々慣れ親しんだその温度が、なぜだか少女から発せられたような気がした。

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