おなじものを
「お隣、いいですか?」
もう一度、幾分かはっきりとした口調で少女は言った。意を決したとでも言うのだろうか。目深に被ったフードの奥で、あどけない目がこちらを真っ直ぐ捉えている。
小学生ぐらいだろうか。幼稚園児程小さくはないし、中学生には到底見えない。
目立つのは、やはりパーカーに付いたフードだろう。大抵のパーカーに付いているとはいえ、こうも大きいものを目深に被る子はそうそういない。くすんだ灰色のパーカーは、サイズが一回り程大きいのだろう。もしや、フードを目深に被るために、大きいサイズを選んだのではないか。そう考えてしまう程、その姿は印象に残る。
パーカーの裾から出ているのは、きっちりとしたプリーツスカートだ。紺色のそれは、学校指定の品物にも見える。年相応に細い足は、黒いタイツに包まれていた。小さな革靴が、やはり学校指定の存在感を醸し出している。
公園に遊びに来た小学生、そう処理すればいいのだろうか。この、誰もいない寂れた公園に?
そこまで考えて、まじまじと見詰めてしまっている事に気付いた。少女は真っ直ぐとこちらを見据え、次は貴方の番だとでも言いたげな表情をしている。
何を待っているのか、何を求めているのか。何を、自分は問われているのか。
「お隣、です」
こちらの思考を先回りしたのか、少女が鈴の音色で答える。
「ええ、どうぞ……?」
状況が掴めないまま肯定を返してしまった。肯定を返してから、少しおかしいと気付く。自分は確かにベンチを占有していたが、この公園にベンチは二つある。わざわざ他人と共有しなくとも、何の問題もない筈だ。
しかし、肯定を受け取った側は既に動き始めていた。ベンチに背を向け、小さなお尻を下ろそうとしている。幾ら小さいと言っても、こちらが動かなければ少女は座る事が出来ないだろう。反射的に場所を空けてしまってから、これで断るという選択は消えたのだと気付いた。何一つ理解はしていないが、自分は少女を受け入れてしまった事になる。
食べようと思っていたおにぎりを袋に戻し、ちらと横目で少女を確認した。フードを目深に被っている為、表情は愚か顔さえ分からない。正面に立っていた時は見えていたのだが、こうして隣にいるともう分からない。
今、自分の置かれている立場が分からなかった。頭の奥深くに仕舞い込んだ、埃まみれの対人マニュアルを引っ張り出したとして。果たして、この事態に相応しいトラブルシューティングが記載されているのだろうか。
「あ、あの!」
呆けている場合ではないと察したのか、こちらの緊張を読み取ったのか。少女はそう切り出した。マニュアルを引っ張り出すのはやめて、答えないと。
「……何?」
どうにかその一言だけを吐き出し、少女の様子を窺う。正解が何か分からないから、この間が凄く息苦しい。
すると、少女は恐らく……フードを被っている為恐らくだが。こちらに顔を向けて佇まいを正した。
「いきなりお隣です。でも、私、あやしい人じゃありません。あの、はい」
たどたどしく弁明を始めながら、少女はフードを少しだけつまみ上げた。冷たい外気に晒された、少女の白い素肌を、薄ら暗い朝の太陽が照らしている。
フードをつまみ上げ、こちらを覗き込むようにしていた。そうやって素顔を見せている少女の動作は、どこかで見た映画の登場人物を連想させる。シルクハットを被った英国紳士が、帽子をちょいとつまみ上げて挨拶をするような。そして、実際に少女にとってそれは挨拶代わりなのだ。
「どう、どうですか? 信用が、出来ますか?」
信用が、出来るかどうか。随分と直截な聞き方でもある。初対面の人間に言うような言葉ではないだろう。では、自分と少女はどこかで出会っているのだろうか。記憶を探ってみても、該当するフード姿は浮かび上がっては来ない。フードを抜きにして考えても、この顔は見たことがない。
まじまじと見詰めてしまったのを、不審と捉えたのか。少女は困ったような表情を浮かべると、フードを元に戻した。
「そう、そうです。では、これをあげます」
少女はそう言うと、パーカーのポケットから小さな丸い物を取り出した。小さい事には小さい。だが、袖からぴんと伸びた細い指がつまんでいると、どこか大きく見えてくる。その黄色い卵のようなものを、両手でつまんでとぐいと差し出してきた。
おどおどとしている癖に、こうして強引な動作をしてくる。そのせいだろうか、いつも何事も後手に回るしかない自分は、それを黙って受け取る事しか出来なかった。
「……防犯ブザー?」
黄色い卵のようなもの、それは所謂防犯ブザーと呼ばれる物だった。紐を抜けば、けたたましい電子音が鳴り響くあれだ。
「はい。貸してあげます」
手のひらを転がる防犯ブザーは、やはり小さい。手の大きさがそもそも違いすぎるのだと考えながら、これを渡してきた理由を考える。
信用が出来るかどうか。この少女はそう聞いてきた。それに答えなかった自分を見て、これを渡してきたのだが。これは要するに、武装解除のようなものだろうか。武器を捨てろとがなり立てる犯人の前で、分かったから落ち着けと銃を地面に捨てるような。いや、こちらに渡してきたのだから、武器を捨てろではなく武器を寄越せの方が正しいのか。
つまり、こういう事だろうか。この少女は、抵抗する術を全部投げ捨てた。貴方を攻撃する手段はないので、信用をして欲しいと。
「いや、いいよ。いらない」
信用出来るか出来ないかではない。信用する必要があるか否か。見極めるべきはそれだ。
「……じゃあ、えっと。これ、これはどうでしょう」
顔の下半分しか見えなくとも、悲しんでいるというのがよく分かる口と声だった。少女は防犯ブザーを受け取ると、パーカーのポケット、先程探った方とは別のそれに手を入れる。
「だから、何もいらないって。君に物を貰う理由がない」
君を信用する必要がない。そうはっきりと告げる事は出来ず、湾曲した言葉が口をつく。
だが、ぴたりと動きを止めた少女を見れば。その言葉が、湾曲せずに突き刺さった事は明確だった。
「……ごめん」
そう謝るも、弁明はしなかった。この少女はきっと、人の心を読むのに慣れている。顔色を窺う、と言い換えてもいい。だから、言葉を言葉のまま受け取らない。その裏に潜んだ本心を、幸か不幸か悟ってしまう。
だから、それ以上の言葉は使わなかった。何かを言えば、それを足掛かりに全て暴かれるような、そんな気がしたから。
「ううん。ごめんなさいは私が言わないといけないです。私がそうしようって決めてもお兄さんは……はじめてです。次、次にしましょう」
そう言って、少女はぴょんと立ち上がる。パーカーのポケットから何かを取り出し、小さな、それでもやはりその手にあっては大きく見える物をこちらに突き出した。
断ればいいのに、後手にしか回れない自分がまたもやそれを手に取ってしまう。長方形で白くて、熱を持った物……使い捨てのカイロだ。
「とっておきです。あげます」
そう言って、少女は僅かに微笑んだ。
「次にしましょう。私も、時々ここに来るからです」
時々ここに来る、この寂れた公園に? 鉄錆と空白しかないこの光景に、君がどうして。
頭に浮かび上がってきた幾つかの疑問は、結局頭の中だけで消えていった。背を向けた少女に、わざわざ投げ掛けようとは思わない。思えない。
フードを目深に被ったまま、少女は振り返らずに去っていった。
今の時間は、一体何の為にあったのだろうか。気にならない訳ではなかったが、判断するには何もかもが足りなかった。
手元に残されたのは、使い掛けのカイロとおにぎり二つのみ。
充分な熱を持った四角形だけが、少女の存在が白昼夢ではなく現実だと証明していた。