重要参考人−1
残酷な運命は神が与えた試練だという考えは結構面白いと思う。理不尽な出来事は誰かによって引き起こされたものでないと、受け入れ難いのだろう。神を崇拝しているようで責任を押し付けているようだ。
だから、神様を恨むことにする。存在は信じていないが、もし存在するならば思考のネタにはなるだろう。
今日はバイト先を出るのが遅かった。いつもより帰路は闇に包まれ、苦しささえ感じる沈黙を身に纏う。この時間帯特有の、飲み込まれそうな静寂は嫌いではない。同じ景色であるはずなのに、まるで異世界のように雰囲気を変える深夜は、冒険心に似た高揚を感じる。
しかし未知の世界には、不幸は付き物だった。
アパートに借りた住居に向かうための階段、そこに足をかけようとしたとき、妙な音が鼓膜を震わせたのだ。
どさり、と何かが落ちたような、倒れたような音だ。今が昼の車が往来する時間帯であれば、気付かなかったと思われるほど小さい音だ。沈黙の世界に突如響いたそれは、当然人に疑問をもたせる。
音源はアパートのすぐ裏、放置されている雑木林の前にあった。誰も手入れしないその場所は何時でも暗がりで不気味な雰囲気だが、何故か、今日はやけに月明かりが差し込んでいた。
人が二人。
一人は全身が黒い羽織もので包まれ、フードを目深にかぶっているため様子が伺えない。
もう一人は一般的な服装で、体型が目立つ男。男は立っている黒フードの足元で倒れている。
黒フードが屈んだ。その手には、月明かりを良く反射する何か。男はピクリとも動かない。
「ぁ……あ」
後悔先に立たず。先に立つことがあれば、それは未来予知である。
行われている光景は余りにも現実離れしていて、認識するのに時間がかかった。
黒フードがもっている物はナイフだ。それを男の胴体、胸から腹の辺りまで一直線に差し入れた。引き抜くと同時に、にちゃり、と生々しい音とともに液体が溢れ出す。その後、なんの躊躇いもなく片手を入れた。"切り口"から。
手が動く。その度に音が響く。ぐちゃぬちゃと。その行動は余りにも自然に行われていた。
逃げなければ。
ここにいてはいけない。防衛本能がそう警鐘を鳴らす。
しかし恐怖に囚われた足は動かす、気持ちの悪い汗が全身から滲み出るばかりだった。
と、ふいに手が止まり、音が聞こえなくなった。
そしてゆっくりと、恐れていたことが、手を動かしていた人の顔が、ゆっくりと、こちらに向いたのが分かった。
「 」
ぐちゃり、と手が引き抜かれ、その人は立ち上がった。一歩、また一歩と近づいてくる。その動きに合わせて僕もなんとか少しずつ後ずさりする。服のせいで顔はおろか、性別さえも分からない。しかし全身で感じる威圧、気迫、殺意に気圧されて、
殺される、そう確信した。
「uaーーーー!!!!」
ふいに背中側から強い力が加わった。何かがぶつかってきたような強い力に押され、僕は呆気なくうつ伏せに倒れ額を強くぶつけた。急いで起き上がろうとするが上手くいかない。
何かが背中に乗っている。
「…………っ?!」
「……auweu」
なんとか顔を向けると、見知らぬ女性が僕の背中に乗り、笑顔でこちらを見下ろしていた。
「……」
「……」
「iifa!」
「……え?」
何かを言った。だか発された言葉は知る言葉ではなかった。外国人なのか。何故乗っかってきたんだ。
女性というよりまだ少女が当てはまる顔立ちだ。しかしなにより驚いたのは、後頭部から伸びた2束の長い髪が、それがひとりでにふわふわと、枝分かれしながら動き回っていた。
「ご、ゴルゴン……!?」
「dy?」
「££ #%$∂ ∂!」
するともう一つまた別の声が響いた。顔を向けるとまたも知らぬ女性。右目にかけたモノクルのようなものが目を惹く。モノクルが再び喋ると、ゴルゴンが立ち上がり背中が軽くなるのが分かった。急いで立ち上がる。
ハッとして、あの場所を見やった。そこは何も起きなかったように、人も、死体も、血も、全て消えていた。中をかき回されていた男も、あの殺気を放った黒フードも。
「#%∃≯ ∈∈∋∋ ↻πµ △♢□◁◁」
信じられず混乱していると、モノクルが話しかけきた。真剣な顔で、口調もどこか冷たい。明らかに何か重大そうなことを話しているのだが、彼女の言葉もまた理解出来ない。日本語と、少しの英語が分かるが、そのどちらでもない。
とりあえず、何を言っているか理解できない、という態度を精一杯とっていると、急にモノクルが口を閉じ、まじまじと僕の顔を観察しだした。
「…………」
「……な、なんですか」
「……velhi?」
「!」
それは彼女の言葉で唯一理解できた。『ヴェリ』と確かに言ったのだ。その名は嫌というほど馴染み深いものであり、忌々しいものだった。
恐らく、彼女は僕の容姿を見て、僕がヴェリなのかと問いかけてきたのだ。
それを理解した途端、なんだか腹が立ってきた。
「なんなんですかさっきから。乗りかかってきたり、意味分かんない言語で話されてもっ?!」
「≡∃∂! ☆□⊗$$≯£!」
突然、モノクルが僕の手首を力強く掴んだ。驚き慌てて振り払おうとするが全く解けない。見た目以上に力が強い。血が止まりそうだ。
「ちょっと、はなして、くださ」
「∋ ∃∂ ◐∂♧」
抵抗する僕に構わず、モノクルは腰につけているポーチから球体を取り出した。それはピンボン玉程野小さいものだが、深夜の暗さでも分かるほどキラキラと光っている。
ゴルゴンがモノクルに抱きついた。顔色一つ変えずそれを確認すると、モノクルは球体を割った。パリン、と音がした瞬間、視界が急にぼやけ始める。
「な、な!」
雨に振られる窓ガラスのように、段々と輪郭が曖昧になり、色が混ざり、自分が自分でない感覚が襲う。
訳も分からず僕は叫んだ、その声も程なくして聞こえなくなった。
…
……
………
「うわあびっくりしたなぁ、人の部屋ん中にテレポしないでよ」
声が聞こえた。
高層ビルのエレベーターのような感覚が全身を包む。視界と共に意識がはっきりしてくる。映った景色に、僕は幾度目かの驚愕を覚えた。
自分が立っている場所は、それまで確かに居た筈のアパートの裏では無く、見知らぬ事務的な部屋だった。辺り一面オフホワイト色に包まれ、病院のような非生命感があった。
目の前には、事務机と事務椅子。あと幾つかの本棚類と、自販機サイズの重々しい機械が少しこの部屋の異常性を醸し出している。
そして、椅子にはこちらを見ながら目を瞬かせている、知らないおじさん。
「こ、ここは、えっ、誰、えっと」
「ん? 君は誰? 新人?」
「……! 日本語!」
それはもう随分と聞いていないような感覚だった。目の前にいるおじさんは日本語を発し、やっと言葉の通じる相手と会うことが出来たと安堵する。
と、視界の端から青色が躍り出た。同時に左手首に痛みが走る。見ればその青色はモノクルで、未だに僕を離すまいと掴んでいた。
あの場所では暗く分かりづらかったが、モノクルの髪は鮮やかな青のグラデーションで、明らかに普通の人でない。
「%$ $◐∂∈∋ ◐⬜△∃@≯」
「やあソフィアちゃん。それにミライも。急に来られたらびっくりするよ」
「↫×⊗∩ ∮∷εⁿ ¢¤µπ †↻‰」
「ええ?! 彼が?! それは大変だ!」
「bue hya da」
僕が口を開くより先にモノクルがおじさんに話しかけた。気づけばゴルゴンも隣でニコニコしながら会話に加わっている。とてもこちらの話を聞いてくれる様子はない。
おじさんは立ち上がると、自販機サイズの機械に近づき、何かを取った。それを両手で支えながら、こちらに近づいてくる。
「きみ、これ被って」
それはヘルメットに幾つかのアンテナらしきものがついたものだった。
とても怪しい。被ったら何かされるということがひしひしと感じる。
「な、なんですかこれ。それよりあの、日本語」
「俺が喋ってるのはきみの母国語じゃないよ。その意味も分かるから。さあ早く被って」
日本語じゃない? どういう事だろうか。しかし見れば、おじさんは日本人らしくないヨーロッパ辺りの容姿だ。それに何か違和感がある。まるで吹き替えのように、聞こえてくる言葉と口の動きが合っていないような……。
「ああもう、被せてあげるよ」
「ちょっ?!」
思案していると無理やり怪しげなヘルメットを被せられた。刹那、脳が膨れるような、視界が眩み、思考がかき混ぜられ、
と感じた瞬間全てが治った。
ゴルゴンが興味深げにこちらを見てくる。彼女のクリーム色の長い髪が上がったり下がったりしていた。特に異変はない……?
「終わったのですか」
その声は聞き覚えがあった。しかし初めて聞くように思えた。
「に、日本語……!!」
「ほら、終わった」
モノクルが日本語を喋っていた。つい先程まで一ミリも理解出来なかったというのに、これは、まるで魔法、いや。
「もしかしてこれ、ヴェいててていたい痛い痛いいたい!!!!!!」
「言葉が通じますね?」
鮮やかな動きだった。掴まれたままの右手が左斜め後ろ方向に捻り回され、あらぬ力が加わった腕から強烈な痛みが送られる。
その痛みに叫ぶ僕に全く反応していない、モノクルの冷静な声が背中から聞こえた。
「いたいいたい!!!!! 腕が!!!!!!! 折れる!!!!!!!!!」
「正直に吐きなさい。貴方のヴェライアははなんですか?」
「ヴェラっ……!!?? ない!!!!! まだ!!!!!! わからない!!!!!!」
「そんなあからさまな嘘を吐きますと、貴方の肘が関節としての機能を失います」
「ほんとだって!!!!!!!!! まだわからないの!!!!!!!!!! 使ったことない!!!!!!」
「そうですか、では少々痛い目に」
「まあまあ、後で調べれば分かることだから。あんまり虐めたらだめだよ」
あと少しで腕の可動範囲が広がるところで、おじさんの制止が入った。モノクルは一瞬止まると、パッと手を離す。僕は慌てて距離を置いた。鋭い視線が刺さる。
先程から、いつの間にか違う場所だったり、いきなり変な装置を被せられたり、関節技をかけられたりと碌な目に合っていない。そもそもあれを見た時点で運が尽きたというべきか。
腕をさすりながら警戒していると、おじさんが慰めるように話しかけてくる。
「ごめんね、大丈夫?」
「……全く」
「ううん、動揺してるね。当たり前か。ソフィアちゃんはエリオに連絡してここに来てもらって」
「分かりました」
「とりあえず現状を説明しなきゃ可哀想だ」
おじさんはモノクルより優しそうだ。ヘルメットを無理矢理被せてきたが。
「ここは特種総合研究施設。ヴェリによる、ヴェリの為の場所だ」
正直、あまり驚かなかった。薄々勘付いていた。
いきなり別の場所にいることも、突然言葉が分かるようになったのも、そうさせることが可能な種族が、この世にはいる。
それらはヴェリと呼ばれている。そして僕は、それらしい。