朝露
それから数日が経った。
マークは自室の机で日記を書いていた。いつもと変わらぬ内容が、ルウと出会ってから少しずつ変わってきている。
「え~っと、アグリスト暦一六五七年、春の三月十八日、今日はルウ様が女性禁制塔にお入りになられてしまい、大変でした」
~・~
まだ夜の宵が残る日の出前、マークは自然に目が覚めた。
昨晩は夜遅くまで起きていたのにも拘らず、習慣とは便利なものである。
「ふあ~~」
腕を伸ばして伸びをする。その声に気がついたのか、同室の友人も、目が覚めたようだ。
「あれ? もう朝?」
「うん、一応ね」
友人はまだ閉じている瞼を擦り、カーテンを少し開ける。
外はまだ暗いけれども、山の向こうから薄日が差している。後、三十分もしない内に、星や月が姿を消して、太陽が山から顔を出すだろう。
友人はカーテンを閉めて、ベットの上で胡坐を掻く。
友人の栗色の髪は寝癖で全て逆立ってしまっていた。瞳は焦げ茶色で木々を思い出させてくれる。白地に青縞の入った寝巻きを身につけていた。
友人がぼんやりとしている間、マークは寝巻きから制服に着替えを始めていた。見習いの着る蒼の制服ではなく、正式の黒い制服だ。
友人はそれをぼんやりと見ていた。
「いいよな~。マークは」
「は?」
「だってさ、見習いすっ飛ばして、隊員の一員になっちまうんだぜ」
友人は両手を後頭部に当てて、体を斜めにした。マークは肩を竦めてから、上着に袖を通す。
「あまり良いものじゃないよ」
「そうか? でも史上初十五歳での就任だぜ。俺的には羨ましい限りだぜ」
「なら、交代する? 王の許可も貰ってあるよ」
「う~ん。止めとくは。俺は騎士になりたいからな。王族だけじゃあなく、民の全てを守りたいからパスだ」
今日までで、十六人目の交代拒否だった。
親衛隊になった当日は、やはり先輩や同僚たちからの批判がすごかったのだが、隊長の「交代したければするが良い。ただし、ルウリアナ様の世話係も含まれているのだがな」と言う言葉で、交代したい人は0になった。
正直、マークも覚悟はしていたが、予想以上だった。相手の機嫌を損なわないように且つ、無礼のない様に振舞わなくてはいけない上に、親衛隊の訓練も入ってくる。
正直、ここまで重労働だとは思ってもいなかった。
先日も、ルウに水遊びをしようと言われて、城の頂上からホースで水を頭から掛けられた揚げ句、城を濡らしたということで、マークは全ての屋根の掃除をさせられた。
実はそのせいで、就寝が遅くなったのである。
マークは自然とため息をついた。
(今日はどんないたずらをさせられるのだろう)
思っただけで気が滅入る。親衛隊になる前までは、日々、勉強と訓練に勤しみ、入隊後は厳しい訓練の中、懸命に頑張る自分を想像しては気合を入れていたのだが、今となっては全て過去のことだ。
今ではルウに振り回されないようにするには、どうすればいいのかばかり考えてしまう。
「そろそろ、君も着替えた方がいいんじゃないか?」
「ん、そうだな。でも、なんで親衛隊は見習いでも制服があるのに、騎士にはないんだろう。これって、絶対に不公平だと思うわ」
「いや、僕に言われても……」
コンコンコンコン。
「ん? 誰かきたぞ」
「こんな朝早くに、誰でしょう」
コココココココココココココココ。
連続で叩かれる音に、マークは嫌な予感がした。そんなマークにお構い無しに、友人は扉を開ける。
「誰ですか~?」
友人は扉を開け放つが、誰もいない。
廊下に出て、左右を見回すが、人っ子一人いない。暗い回廊が続くだけだ。友人は首を傾げて、扉を閉めてから振り返る。
「誰もいなかったぜ」
マークは目を閉じてホッと、息を零してから友人を見た。その瞬間、絶句した。
「? どうしたんだよ」
「…………」
マークは床に膝をついて項垂れた。その様子に、友人は困惑しつつもマークに近づいた。
「? おい、マー……」
「マーク! おっはよー」
「! うおおっ。姫様、いつの間に!」
友人は真後ろについていたルウに驚き、横に飛んでベットの上に逃げた。
「何よ。人を化け物みたいに言わないで。扉の裏に張り付いていて、扉が閉まる瞬間に中に入っただけじゃない」
腕を組んで怒るルウに、マークは体を起こして、ツカツカとルウの目の前に立つ。
「それ以前に、ここは女性禁制塔です! ルウ様は女性ですから、入ってはいけない塔なのです!」
「きんせー?」
「……女の子は入っちゃいけない塔って事ですよ」
「そうだったんだー」
ルウは感心したように言った。確かにまだ五歳の少女に禁制と言う言葉は難しかったかもしれない。
マークは制服の胸ポケットから、小型の手帳を出して細い木炭で書き込みを入れる。その手帳はルウ専用の教育手帳である。
ちなみにこの国は森に囲まれているため、繊維資源は多く取れるのだが、鉄類はほとんど取れないので、鉛筆の元となる黒鉛が皆無に等しかった。一般の人は高価な鉛筆ではなく、紙で巻かれた細い木炭を主流に使っている。
ルウの教育は王族としての生き方だけではなく、一般常識の教養も身につけなければならない。それを教えるのは親衛隊の試験を主席で合格したマークの仕事である。
書き終わると、手帳を閉じて胸ポケットに戻して、またルウを見下ろした。
ルウはマークと目が合い、笑顔になって早口で言った。
「あのね、あのね。すぐにでもマークに見せたいものがあったの」
両手を後ろにして飛び跳ねるルウに、友人はベットの上から身を乗り出した。
「へえ、何々? 俺にも見せてくださいよ」
「嫌~。でも、マークに見せてからなら良いよ」
マークは床に肩膝をつけて、ルウと目線を合わせた。
「何ですか?」
「これー」
ルウは小瓶に入った葉っぱをマークの目の前に出した。
「これは……」
「朝露だよ。朝露を飲むと良いことがあるって、マークが言ってたから持ってきたの。ちゃんと、庭師の人にお願いしたよ」
嬉々としているルウに、マークは微笑みを浮かべてルウの頭を撫でる。
「ありがとうございます」
「えへへ。じゃあ、これはマークにあげるね」
「え? ルウ様が飲むのでは」
「あたしはもう、飲んだからいいの。これはマークの分だよ」
ルウはマークに小瓶を押し付けて、扉の方へ走る。
「ルウ様!」
「ちゃんと飲んでね」
マークの呼びかけを無視して、ルウはにっこりと笑い、扉の向こうへ去ってしまった。
唖然としたまま、マークは手に残った小瓶の中を見る。
青々とした葉っぱの先端に、朝露が光を中に閉じ込めて輝く。
友人はマークの肩越しに立ち、小瓶の中を見る。
「良い子じゃん」
「ああ」
「朝露、綺麗だな」
「ああ」
生返事を続けるマークに、友人は口端を上げて笑い顔を作っていた。