第三話 砦の戦い(2)
幸い、今日は晴れていた。
「ちょっと飛ぼうかな」
雨が降っていればいろいろ魔法を併用する羽目になるのだが、飛ぶだけなら少し風を操ればなんとかなるものだ。
魔女の少ない現代では、空を飛ぶ人間もとても目立ってしまう。
だから飛べる範囲は人の目に付かないと安心できるところだけだ。
歩くよりは多少疲れるが、それでも目的地まで早く着けるし、人命救助に比べれば疲れもしない。
アストレイアは目をつむり、そして「少しの力をお貸しください」と、風に呼びかけた。
そして鳥になるように、自分に翼があるように、頭の中でイメージを膨らませる。
そして再び目を開いたと同時、アストレイアは白い雲が浮かぶ空へと飛び上がった。
アストレイアはイオスが赴任した砦の街を一度も訪ねたことはない。
けれどこうやって飛び上がれば街の場所は目視できる。
「それなりには大きいのよね」
砦というのは昔からの呼称で、今は城塞都市といったほうが正解だろう。
割合国境に近いところにあるものの、地形の関係上、砦が奇襲をかけられることはほとんどないはずだ。
「そもそも最近買い物ついでに聞いた噂から察するに、隣国には攻め込む余裕なんてこれっぽっちも残ってないみたいだけどね。かつての帝国もいまやその影なし、か」
それだけつぶやいたアストレイアは砦の方に向かって宙を滑り始めた。
初めて飛んだときは『まるで背中に風の羽根が生えたみたい』だと思ったし、今もその感覚に変わりはない。それほど高く飛ぶわけではないが、それでも木々よりは高いところをアストレイアは真っ直ぐ進んだ。一応、イオスともすれ違いがないように森の中もみてはいたが、人の気配は関知できなかった。
「……」
何となく気にしてしまったことが悔しいので、万が一すれ違ってもイオスのせいだと思うことにした。
森の端まで飛んだ後は、一旦街道を歩き、再び人の歩かないような場所を飛んで進んだ。
森を抜け、山を越え……これで時間は大幅に短縮できる。
(……こんな道、イオスは来てたんだ)
『見たことある』と、『行ってみる』では大きく違うなと、改めてアストレイアは気が付いた。遠いとは知っていたけれど、どれほど遠いかは理解していなかった。
そして城壁が見えたところで、アストレイアはゆっくりと森に降りた。
そしてそこから街道に向かい、まっすぐと城門へ向かおうとして、ふと気が付いた。
「人が、少なすぎる気がする」
砦は大きな城塞なのだから、少しくらい人の行き来があってもいいはずだ。
だが、アストレイアの周囲には荷馬車どころか人っ子一人見当たらない。何か起こっているのだろうか――? そう、アストレイアが首を傾げた時、遠くから馬の足音が耳に近づいてきた。
思わずアストレイアが振り向くと、そこには見慣れた青鹿毛の馬、ラズールと――
「どうして君がここにいるんだ……!?」
「……イオス、その格好……なに?」
いつもとは違い、まるで立派に働いている人のようだった。
いや、いつもだって清潔感のある服を選んでいるのはわかっていた。が、まるで軍人だ。
「いや、イオスは軍人なのは知ってるんだけど」
「話はあとで。ここは危ない、はやく城門の中へ」
「危険なの?」
普通の街道のどこが危険なのか。そう首を傾げているうちに、気づけば馬上に引っ張り上げられていた。
そして、気づけば城門を抜け、更には街を抜け、それから――
「ここ、どこ?」
「……」
気づけば明らかに軍事施設……もとい砦に入り、ラズールから降り、そのまま引っ張られるようにして入ったのはそれなりに上等そうな、けれど年期が入ったソファがある部屋だった。しかし古そうといえども、座り心地はなかなか良かった。
「一応、相談室」
「入ってよかったの?」
「一般市民の相談聞く部屋だから問題はないよ」
なるほど、だからソファも新調は難しいのか。予算も厳しいのかもしれないな……などと考え始めたアストレイアは、しかし途中で『ちがうちがう、今の問題そこじゃない』と自分に突っ込みを入れた。
そして、まだイオスからの「どうしてここにいるんだ」という問いにも答えていない。
「イオス、お守りを忘れて帰ってたでしょ。持ってきたわよ」
「……まさか、これのためだけに?」
「これだけって……イオスが置いていって、取りに来ないのが悪いんでしょう」
気が抜けるようなイオスの声に、アストレイアは眉を吊り上げた。
するとイオスは額に手を当てて長い息をついた。
「いや、ありがとう。でも、よりによってこんな時期に……何もなかったから、よかったけど……」
「こんな時期って?」
「……十数年ぶりに大きな魔物が出ている。討伐のために軍は動いてるけど、城壁の外には出ないよう、市民には伝えてあるんだ。生憎王都でも別の魔物が数体出ているらしくて、救援が期待できない」
ああ、だから人がいなかったのか、と納得したが……魔物という言葉がひっかかった。
かつて魔女がいた時代に魔物は珍しくはなかった。しかし現代においては魔女の減少と同じくらい魔物の出現も少ないと耳にしている。
いや、だからこそ十数年ぶりと言っているのだろうが……
「魔物って、どんな様子なの?」
「俺自身は対峙してないから、伝聞だけど、獅子の頭に羊の体、更には蛇の尾を持った炎を吐く怪物らしい。何度か追い払ってはいるが、とどめは刺せていない」
「それなら……キマイラかしら?」
魔物の特徴、それから軍が苦戦している様子から考えるに、おそらく間違いではないだろう。
(しかしキマイラとは、また随分厄介な魔物が出たものね)
魔女が多くいた時代でも、キマイラは手強い魔物とされていた。
しかしかつてほど魔物がいない世界で、あれほどの魔物とは――情報がない中では苦戦するのも無理はないと思ってしまう。
「君は……あの魔物を知っているのか?」
「え? あ、ああ……書物で、読んだことがあるだけだけど」
そういえば自分がキマイラを知っているとなるとおかしいのだったと、アストレイアは少し焦った。歴史を記録している国の機関が魔物の名を特定できていないとなれば、前に出現したのは相当昔のことになるのだろう。
(……って、そうだとすればどんな古書を持ってるのよ、私の設定は!!)
しかし、口にしてしまったことはどうしようもない。
なるべくそれらしく聞こえるよう、アストレイアは平静を装った。
「この砦には、魔術師……魔女か魔術法使いはいる? 書物には、魔術の援護が望ましいと書いてあったわ」
「魔術を得意とする者は一人だけいた。だが……負傷した。怪我が酷く、精神的な面からも戦いに戻れるかどうかは定かでない」
そう言ったイオスは視線を少しだけ落とした。
魔術を得意とするといっても、アストレイアたちの時代とは『得意』だと言えるレベルが異なるのかもしれない。
「……俺は、まだ魔物が現れた現場に居合わせていない。だから、早く見つけて倒さなければいけないと思ってる。これ以上犠牲者は増やしたくない」
声に滲む悔しさに、アストレイアも目を伏せた。
(守りたいのね)
絵に描いたような騎士の気質だな、と、アストレイアは思った。
それは皮肉でも何でもなく、ただただ、純粋な思いだ。
規範を口にすることができる人間は多くいるが、それを一分の隙もなく本心から言えるのは、さて、どのくらいの割合でいるだろうか?
そんなことを考えていたアストレイアの前で、イオスはゆっくりと立ち上がった。
「この辺りは今は本当に危ないから、早く君も自宅に戻った方がいい。途中までだけど、安全だと思うところまでは送るから」
「……ちょっと待って、今の流れでなんでそうなるの?」
「え?」
ひどくまじめな顔をしていたイオスは、アストレイアの言葉に目を丸くした。
しかしその顔にアストレイアは長いため息をついた。
(強大な魔物から皆を守りたいと思うなら、手段を選んでる場合じゃないでしょうに)
そう思いながらアストレイアは腕を伸ばし、テーブル向こうにあったイオスの胸倉をつかんだ。そして、イオスをしたから睨み上げながら告げた。
「ねえ、忘れてない? 私も魔女よ?」
アストレイアの言葉に、イオスは目を丸くした。