第二話 暖かなご飯と来訪者(1)
「やっぱり人として、礼を欠くのはどうかと思って」
そう言いきった青年に、アストレイアは大きく肩を落とした。
「人の意見を尊重しようと思わなかったの?」
「それに関しては申し訳ないと思ってるよ」
「……。謝るなら来ないでよ」
なんで来たの、と、睨むアストレイアに、青年は申し訳なさそうに目尻を下げた。
「いや、むしろ本当ならもっと早く来たかったんだ」
「……あのね、話、聞いてる?」
「でも、どうしても着任したばかりの砦で、上官に休暇は申し出にくくて……ようやく休日をいただけたから」
「砦の上官……って、あなた軍人なの!?」
おそらく砦というのは、ここからは一番近い街である、砦の街のことだろう。
このあたりは首都と比べればド田舎といっても差し支えない地域ではあるが、一応国境沿いということもあり、それなりの街も存在している。ただし街はひとつだけで、あとはほとんど村であるのだけれど。
しかし、そんな中でもアストレイアの頭の中には疑問が浮かび上がった。
(軍人ってこんなに空気が緩かったっけ!?)
平和な時代の空気かもしれないが、アストレイアの記憶の中の軍人とは大きく異なっている気がしている。
そして、同時に思う。
どうして、この青年を助けてしまったんだろう、と。
時間を巻き戻したとしても再び助けてしまうのは目に見えているが、ならばどうしてあの場に通りかかったのかと自分を問い詰めたくなってしまう。
せめて、この青年が話を聞いてくれる人ならば――再び目の前に現れるようなことがなければ、そんなことも思わなかったのだろうけど。
「そういえば、まだ名乗ってなかったね。俺はイオス――」
「聞いてないんだけど!!」
言葉を中断させられた青年ことイオスは目を見開いたが、すぐに苦笑した。
「で、これがお礼の品です」
やや芝居がかった様子でアストレイアに差し出した籠には、パンやチーズ、生ハムらしきものが見えていた。籠の中に敷かれている布から察しても、高級そうである。けれど、アストレイアは表情をゆがめた。
「いらない」
生命維持に食事を必要としないアストレイアは、森に入ってからはほとんどものを口にしたことがない。食べられないわけではないが、食べる必要がない。
だから礼だと言われても食欲は刺激されなかった。思いはただ一つ、帰ってほしいということだけだ。
しかし、イオスにとってその反応は予想範囲内のものだったようだった。
彼は大して驚くでも、気を悪くするでもない様子で、次のものを取り出した。取りだされたそれは石のようなもので出来た筒だった。
眉根に力を入れるアストレイアを前に、イオスは蓋を開けた。
すると辺りにふんわりと、どこか優しい匂いが漂った。
「豆のスープは、嫌いじゃないかな?」
「……」
否定する言葉が、アストレイアには発せられなかった。
喉がなりそうになる、そんな香りが漂っている。
しかし、ここで食べてしまえば青年の長居を助長することになりかねない。
だが、葛藤しているアストレイアをよそに唐突な音がその場を支配した。
それは、巨大な腹の虫が鳴く音だった。
もちろんそれはイオスからではない。
アストレイアの、腹の虫だ。
「……」
「……」
腹の虫が鳴き止んだ後は、小鳥のさえずりだけがその場を支配した。
(というか、待って! 私のおなかって、鳴るの!?)
しばらく彫刻のように二人はかたまっていたが、ゆっくりとイオスが籠からやや長めの木製スプーンをとりだした。
そして筒とともにアストレイアに差し出した。
「どうぞ」
「……」
ここで空腹でないなどと主張したところで、どうやって信じてもらえるだろうか。いや、信じてもらえるわけがない。
それならば、このおいしそうな匂いにつられてしまってもいいのではないか……そんな想いが頭をよぎった。
いかんせん、この森ではまず嗅ぐことのない美味しそうな匂いは今もなお鼻孔をくすぐる。
いや、しかし、食べるということはやはり関わりを持つということで、避けるべきことだ。しかし食べなければイオスも帰らないだろう……そんな風に考えを巡らせていると、再度腹の虫が早い決断をと催促してきた。
「……食べる」
「一応、たくさんは持ってきたつもりだから、遠慮なく食べてね」
この際誰が遠慮などするものかと思いつつ、アストレイアはまずは一口スープを含んだ。じんわりと舌先から温もりが伝わるスープは、イオスがいったとおり豆の香りが強い、しかしそれでいてまろやかな味わいになっていた。しかし薫製された小さな肉が入っているおかげで、一方では香ばしさも感じられる。それから甘めの野菜が、原型にならないほどとろとろに煮込まれてもいる。
「……おいしい」
無意識のうちにその言葉をつぶやいてしまったアストレイアは、自分の声を耳にして、あわててパンを口に放り込んだ。
なんということをいってしまったのだ、と。
「スープにパンを付けてもおいしいよ。生ハムとか挟むなら、切り込みも入れるよ」
イオスの言葉に悔しさを覚えつつも、一度口にしてしまった食の魅力にアストレイアは逆らうことができなかった。悔しい、悔しいと思いつつ、しかし気づけば「もう、これでなくなっちゃったかな」とイオスにいわれるまで食事をひたすら続けていた。
「ごめん、食後のデザートは用意してなかったんだけど……満足してもらえたかな?」
食べない、いらないといっていたのにこのざまだ――そう思ったアストレイアは悔しさにさいなまれるも、しかし美味しかったという事実は否定できなかった。
「……ごちそうさまでした」
アストレイアの返事に、イオスは少し目を見開いてからにこりと微笑んだ。
「お粗末さまでした」
しかしアストレイアは抗議したい。食後の挨拶を私がいうのは、驚かなくてはいけないことなのか、と。もっとも、散々な態度を取っていた自覚が……ないわけではないのだが。
だからこそ、余計に悔しいところだ。
「……でも、これでお礼も済んだんでしょう。早く帰りなさいよ」
それでもう来ないでよねと、アストレイアは視線でもイオスに告げた。
「そうだね、思ったより距離があったからけっこうな時間になってるね」
「休みに休まないで何やってるの、軍人ならしっかりしなさいよ」
アストレイアの言葉にイオスは苦笑しつつも、「じゃあ、残念だけど」と、ラズールに乗って帰っていった。何が残念なものなのか。
しかしイオスの姿が見えなくなった後でも口の中に残ったスープの味に、アストレイアは複雑な感情を抱いてしまった。こんなにスープって美味しいものだったっけ、と。
食べなくても死なない――そう思った時から遠ざかってしまった食事というものを、少しだけ思い出した気がした。
(でも、もう次はないわね。この森の中じゃ、とても自分のために用意なんてできないもの)
しかし、更に数日後。
「……だから、何で来てるのよ」
「今日はデザートまで持ってきたから」
「いや、そういう問題じゃないって」
再びイオスが姿を現し、アストレイアは頭を抱えた。