王都に行くお話(3)
イオスの実家はアストレイアの想像を超えた巨大な建物だった。
さすがに砦や城とは比べられないが、それでも公的機関の何かの建物だと思わせる大きさだ。
「……これ、本当に家なの?」
「うん。大きいよね」
まるで他人事のように言っているが、ここに住んでいたというのなら砦の街で借りている部屋など本格的に小屋でしかないのだろうか。そう、アストレイアは目を白黒させているが、イオスはあまり気にした様子も見せず……いや、顔を少しひきつらせている。
アストレイアに実家はないが、これが久々に実家に帰る者の顔ではないような気がする。しかも、自分を実家に誘っている相手の顔となると、なおさらだ。
「イオス?」
自分の緊張も忘れ、アストレイアは呼びかけてみた。
「アストレイア、ひとつだけ言いそびれていたんだけど……」
「うん?」
「ひかないでね」
「え?」
何をいっているのだ?
そう思った瞬間だった。
「やーっと連れてきてくれたのね! 待ちくたびれたわ!」
女性の明るい声が辺りに響き、アストレイアはそちらを見た――はずだったが、視界はまっくらだった。自分の身体が前のめりになり、人に頭を抱きかかえられているのだと知ったときには、頬に柔らかい感触と耳元にリップ音が届いていた。
「……え?」
「あなたがレイちゃんね! 待っていたのよ! 私はイルメ。イオスの母よ」
それがイオスの母親との衝撃的な出会いだった。
**
場所はかわって、中庭でアストレイアとイオスはイルメから菓子と茶を振る舞われていた。社交的では収まらないほど、そしてアストレイアが戸惑うほどにイルメは陽気な女性であった。
「レイちゃんが来てくれるって手紙が届いたのが、昨日だったの! もう、もっと早くこの子が連絡くれていればちゃんとしたおもてなしの準備もできたし、前から連れてきてって言ってたのに」
「休暇が急だったんだ。早馬で連絡いれただけよかったって思ってほしいんだけど」
「でも、いっつも連れてきてって言ってたのにひとことも言ってくれなかったじゃない。何通手紙を書いたと思っているの?」
その言い方でアストレイアは来訪を本当に心待ちにされていたと理解し、赤面した。
何を話せばいいだろうかと、どう挨拶をすればいいのだろうかと悩んでいたことは無用だったようだが、ここまで歓迎されることも想定していなかった。
もっとも、イオスの様子を見るに、イオスにとっては想定範囲内といったところのようではあるのだが。
「しかし本当に可愛い子ね。レイちゃん、こっちでしばらく暮らさない? どうせ仕事ばっかりでイオスったらほったらかしにしてるんでしょ?」
「母さん」
「あら、失礼。寂しいわよね」
アストレイアが口を挟む間もなく、イオスが突っ込みイルメは笑う。
母親と息子というよりは姉弟のやりとりのような気もしながらも、アストレイアはおずおずと割り入った。
「イオスさんには、その、よくしてもらっています」
しかしアストレイアの言葉にイオスとイルメはともに目を丸くしていた。
イルメはともかく、イオスは自身のことなどとうに知っているだろうに何を驚いているのかとアストレイア自身も目を丸くしてしまった。しかしその時間は長くは続かず、やがてイルメが「あ」と声を出した。
「足りないわ」
「何が?」
「あなたが好きなチョコチップのクッキーも用意していたのよ。イオス、あなたお菓子のお替りとってきて」
イルメはそう言うが、イオスは眉を顰めた。
「まだたくさんあるから、あとでもいいだろ」
「あなたはたまにしか家にいないのだから、親孝行してちょうだいな」
「……」
にこにこと一切引く気を見せない様子のイルメを前に、イオスは立ち上がった。
「戻るまでの間にレイをいじめないでね」
「そんな悪いことなんてしないわよ。私の義娘になってくれる子に」
「……」
「ほら、早く行ってらっしゃいな」
そうして屋敷の方に向かったイオスを見送り、イルメと二人きりになったアストレイアはどうしたらと内心焦った。
しかしそこでようやくまだ自分が名乗ることすらできていなかったことを思い出し、慌てて立ち上がった。
「その……ご挨拶が遅れて申し訳ございません。レイ、と、申します」
「あら、ごめんなさい。私ったら喜びすぎて、お名前を言っていただく時間すら奪ってしまっていたわね」
「いえ、そんなことは……!」
だが、緊張したアストレイアをよそにイルメもまた立ち上がり、ゆっくりとアストレイアに近づいてその両手をとった。
「さて……レイさん、改めて、あの子を助けてくれたこと、御礼もうしあげます」
「え? い、いえ、そんな……」
急に態度が改まったことに驚いていると、イルメは優しく微笑んだ。
「当然ですわ。母親ですから」
それは先ほどまでの雰囲気ではなく、慈愛に満ちた表情であった。
「イオスから連絡をもらったときは驚いたわ。そして、あの子を助けてくれた方はどんな方なんだろうってずっと思っていたの。その子と思い合うことができたなんて、あの子は本当に幸運に恵まれていると思うわ。それから……あの子は頑張っているかしら?」
「はい、とっても皆から慕われています」
「あなたも慕ってくれている?」
「え、その」
「あらあら、その表情でごちそうさまと言わざるを得ないわね」
その言葉でアストレイアは自分がどのような表情をしているのか知ってしまい、ますます火照るような思いになった。
「あの子は小さい頃から無理をするし、我儘も言わないから……それに甘えた私がいうのもおかしな話だとは思うのだけど、支えてやってちょうだい」
「はい」
「私に時間ができたときには、もうあの子は大人になってしまっていたのだもの。どうしたって後悔が残るわ。だからって、いまさら私が構っても嫌がられると思ってはいるのだけれど」
「そんなことはないと思います」
確かに困ってはいたが、嫌がっているならそもそもここにアストレイアを連れて来ていないだろう。イルメだってそれを理解しているだろうに、けれど、その後悔が懸念を払拭できないのだろうか。
「あなたは優しいのね」
「イオスさんの方が優しいですよ」
「あの子のどこがいいのか教えてくれる? あなたがいう、優しいところ?」
「そ……それは……その……」
ここでその質問がくるとは思っていなかったとアストレイアが口ごもったとき、後ろからイオスの声が飛んできた。
「母さん、あまりレイを苛めないで」
「もう、戻ってくるのが早すぎるわよ。それに苛めてなんていないんだから」
とん、とテーブルにクッキーをおきながら、イオスはアストレイアの肩に手を置いた……というよりは身体を引っ張った形になり、その拍子にイルメから握られていた手も離れてしまった。
「大丈夫?」
「あの、その、素敵なお母様ね」
「ほら。聞いた?」
「……あまり褒めないでいいと思うよ」
調子に乗るから、と、言外に含ませるような物言いのイオスだったが、それでも否定はしなかった。素敵だという言葉自体は否定したくなかったのだろうかと、アストレイアは、小さく笑った。
「私、『お母さん』の記憶がほとんどないので、とても羨ましいです」
しかしそれを言ってから、はっとした。
この場で言うにはあまりにも重い話題だった――しかし、その拍子に再びイルメから両手が握られた。
「イオス、やっぱり私がしばらくレイちゃんを甘やかすからあなたは一人で帰りなさい」
「勝手なことを言わないでもらえるかな」
取り合われることになるなど、誰が想像していただろうか?
けれど、温かく「お母さんって呼んでいいんだからね!」と言われれば、笑顔で頷くしかできなかった。そして、この場所に連れてきてくれたイオスにも感謝した。
「……ところで、レイ」
「なに?」
「父さんや兄さんたち、それから義姉さんたちも楽しみにしてるから、まだまだこの状態が続くのは覚悟しておいて」
「……」
それはありがたいことではあるけれど、できればもう少しだけ質問は手加減してもらえたら……そう思ってしまったが、それよりも楽しみな気持ちがアストレイアの中では上回ってしまっていた。