第六話 魔女が憧れていた世界(3)
暗闇の中、うごめく魔力――それが、決して良い存在でないことはアストレイアには残念なことに分かってしまう。
「でも……キマイラ倒したあとだったら、なんだアダンクか、っていえるわね」
アダンクは湖の近くの洞窟を好む魔獣だ。
鋭く長い爪に巨大なネズミを思わせる胴体を持つが、見た目よりも俊敏で、そして爪の殺傷能力も高い。昔はその爪で武器も作られていたくらい、固いのだ。
アダンクには若者を食らう性質があるが、幸いにもここは老人しかいないので、襲われてはいなかったのだろう。
「まあ、私を若者にカウントしてくれることには敬意を表しましょうか?」
しかし、一度暴れはじめた以上は収めなくては危険が高い。
ある程度距離をとってタイミングを測りたいが、アダンクは素早く懐に飛び込んでくるのが難点だ。
(さっきのマズイ山菜汁のおかげで、けっこう元気なのよね)
アストレイアが体に風を纏ったと同時、アダンクは飛び出した。
後ろに飛び退いたアストレイアは地面を蹴り上げ、今度はアダンクを飛び越えて背後を取る。だがアダンクの動きも素早く、再びアストレイアに接近しようとする。
(魔力使用ゼロで時間を稼ぐのはやっぱり無理、か)
そう判断した瞬間、アストレイアは右手を振り上げ、氷の粒をアダンクに向けて放った。
大したダメージにならないのは充分承知だが、これでほんの少しは余裕ができる。アダンクが少し怯んだところに、アストレイアは正面から蹴りを放った。
アダンクは派手に飛び、木にぶつかった。
物理ができないわけじゃない。だが、トドメをさせるほどに強くないだけだ。
(アダンク、ああ見えて打たれ強いからね!)
だから鋭利なもので切断しなければ、勝利は巡ってくるものではない。
攻撃を加えられたアダンクは低くうなり、威嚇を露わにした。
だが、威嚇などされようがされまいが、アストレイアが行うことは同じだ。
「切らなきゃ、いけないんだもんね」
そうしてアストレイアが精製したのは氷の刀だ。
本来なら遠距離のままとどめを刺したいところなのだが、あいにくアダンクは刃を突き刺したところで動きを止める魔物ではない。まっぷたつが必要なのだ。
とはいえ、純粋な剣の力を試すわけではない。
「風の助力があってこそ、よ」
飛びかかろうとしていたアダンクを、強い風で押さえつける。
一方でアストレイアは風に乗り、そのままアダンクに飛びかかった。
そして、その首元をねらい、一気にその剣を振り下ろした。
「よし、終わりかな?」
思った以上に楽だった。
しかしアストレイアが思ったのはつかの間のことで、アダンクの亡骸――になったはずのものから、まがまがしい気が発せられた。驚き飛び退いたアストレイアは刀を構えたまま、アダンクの切れた首もとから「何か」が出てくるのをみた。
その「何か」は、先ほどまでのアダンクより一回りもふた回りも大きいアダンクだった。
「……脱皮とでも、いうのかしら?」
脱皮にしては、明らかに体の中に収まっていない質量になっている――そう思いながらも、アストレイアは再び戦闘態勢に戻った。
顔は少し顔をひきつってしまっている。
(あんまり大きいの、私斬るのしんどいかもしれないな……。そんなに腕力ないし、もっと強い風を作って一緒に押すしかないかな……?)
しかし、巨大化してもアダンクはアダンクなので、そう苦戦はしないだろう――そう、油断をしかけ、けれど気を引き締め直した。
『人間、生命の危機にゃ敏感なんだよ』
老女はそう言っていた。
自分が死なないというアストレイアには、その危機感は薄い。
そしてキマイラの時のように『誰かが死ぬかもしれない』という状況も、今はない。
(でも、今、私が油断すれば誰かの迷惑につながるかもしれないのよ)
しっかりと見極めて、ただ、倒せ。
そう思いながら、アストレイアはアダンクが振り上げた爪を氷の刃で受け止めた。しかし巨大化したアダンクの爪は想像以上に衝撃的だった。
砕けそうになる氷の剣に、より堅くなるよう力をそそぎ込む。ビシビシビシと氷がうなる。
(にしても、重い!!)
渾身の力と魔術で巻き起こした風の力でアストレイアはアダンクから距離をとるも、さて、どうして戦おうかと考えた、まさにそのとき。
急にアダンクの頭が宙に舞うなど、誰が想像していただろうか。
「……へ?」
自爆だろうか?
アストレイアがそう思ったのはほんの一瞬。
スローモーションで倒れるアダンクのその奥に、イオスが立っているなど想像していなかった。
夜目の利くアストレイアと違い、イオスがこの暗闇で相手を認識するのは無理なはずだ。しかし、イオスの胸元には赤い魔石が光っており、ぼんやりと彼の輪郭を映し出している。したがって、彼もぼんやりと周囲をみることができるのだろう――と、理解すると同時、アダンクは巨体を地に倒し、ピクリとも動かなくなった。
「……イオス、なんでここにいるの?」
剣についた血を払い、それを鞘に収めるイオスを見ながらアストレイアは呆然とつぶやいた。心配させる前に戻ろう……という作戦は見事に砕け散ったのだが、もはやそんなことはどうでもいい。確かに老女を背負って移動した時間と、滞在していた時間を考えれば馬でなら追いつく時間ではあると思うのだが――
(って、うわっ!?)
イオスが近づいた――と思ったのだが、急に正面から抱きしめられてアストレイアは声も出すことができなかった。一方イオスは明らかに安堵だとわかるため息をついていた。
「心配した」
「……ごめん、ちょっと用事ができたから」
「用事って、この魔物? ……討伐なら、一言声かけてほしかった。さっきまで倒れてたのに、危ないだろ」
「……ごめん。でも、場所、どうして……」
「いや、無事ならよかったんだけど。場所は魔石が教えてくれた。俺が持ってる魔石、きみのこと怖がってるのか、反対に行こうとするから」
……魔石にそんな力があるのか。
そんなことを思いつつ、しかし今大切な話は、それではない。
「ごめん、違うの、別に魔物の気配感じて来たわけじゃなくて……」
一人でも倒せたことかもしれない。いや、倒せたとは思う。
でも、来てくれていたことがうれしかった。
「その、あの、ありがとう。助かった」
そして、今なら言ってしまってもいいのかもしれない……とアストレイアはぼんやり思った。
「ねぇ、イオス。私、イオスと一緒に生きたいの」
「え?」
「……え?」
今、私、何を言った?
アストレイアは考え、そして頭の中で自分の声を再生し――そして叫んだ。
「あああ、間違えた…………!! ち、違うの!!」
「あ、うん、ちょ、落ち着こう……!?」
「言い間違え、言い間違えだから!! 順番色々違ってるだけだから!!」
森にアストレイアの叫び声と、そしてイオスの同様する声が響き渡った。