第六話 魔女が憧れていた世界(2)
やがて見えた老女の家は、アストレイアにとってはギリギリ遠くない、といえるかもしれない微妙な距離だった。
老女の家はアストレイアの小屋よりは少し立派なものだった。
家の外には小さな畑が作られており、ロバの姿も見受けられる。
「あんたもこんな時間だ、今日は泊まっていったらどうだい」
「……」
老女の誘いに返事をしなかったのは、先を急いでいるからではない。
息が切れて返事ができなかっただけだ。もはや、動くのも億劫なほど疲れている。
(さ、さっき回復したっておもったのが気力だけだったって、本気で気づかされてしまったわ……)
おまけに老女が軽い調子なものだから、彼女が口を開くたびに考えていたことが吹き飛ばされてしまう。おかしい、いくら自分が流されがちだとしても、あまりにペースをもっていかれている気がする――そう、アストレイアは思わずにはいられなかった。
(彼女、老女っていっても精々七十歳、よね)
こちとら四百歳をこえているのだが、これ、いかに。
そう思わずにはいられないほど、老女の言葉は軽快だ。
(人生経験の差、なら、私も大概だと思ってたけど……)
引きこもって一人でいては、全く成長していなかったということだろうか。
そもそも成長する必要も、成長する意味も考えたことなどなかったのだが……。
老女をおぶったままアストレイアは扉の前に立った。
両手がふさがっていたので、ノックをしたのは老女で、ドアを開けたのも老女だった。
そのドアを開けるタイミングはドアをノックした直後で、全く以てノックの意味がないようなものだった。
「ただいま、帰ったよ! 遅くなって悪かったね」
「あああ、よかった、心配していたんだ。あまりに遅いから、探しにいこうかとしていたところなんだ」
「よしとくれ、怪我してるあんたが森に入ったら、また探しにいかなくちゃいけなくなるからね!」
老女を出迎えたのは彼女と同じくらいの年齢の男性で、その言葉通り夜の森に出ていくのに必要だろう灯りと杖を手にしていた。女性はアストレイアから降りると、近場にあった、おそらく男性のスペアだろう杖を手にしてから男性の方へ近づいた。
「とりあえず、その灯りは片付けておくれよ。それから、あの子はお客さんだ。ここまで運んできてくれたんだ」
「なんと、まぁ。お客さんは、神様かい?」
「いえ、通りすがりです」
神様だったらおぶるよりももう少し格好のよい登場もできただろうが、生憎ただの燃料切れもとい魔力切れ直前の魔女である。
しかし間入れず老女は笑い飛ばした。
「だが、よくもまぁ、あんなところに通りすがってくれたもんだよ。獣じゃなけりゃ盗賊か山賊くらいしか通らないって思ってたよ」
「それにしては、あっさり信用してくれてましたよね。普通賊だと疑ってる相手の背中に、乗りますか?」
「だってさ、賊の類にしちゃぁ、間抜けそうだっただろう?」
「……」
この人は恩人に何を言うんだ。
そうは思ったものの、どうも否定できる気にもならなかった。
正確に言えば、否定してもすぐに何か言われそうなきがしたので黙った……というほうが近い。なんとなく、この勢いには勝てる気がしない。
「人間、生命の危機にゃ敏感なんだよ。あんたも、そんなことはないかい?」
「……そうだった、かもしれません」
かつては確かにそうであったように思う。ただ、今はどうだろう。
今もそのような危機感を持っていたのなら、少年に腹を刺されることもなかっただろう。
死なないということが既に前提になっており、危機感が薄まっていることはあるかもしれない。
しかし、そんなアストレイアの声を聞いた老女は更に呆れたような声を張り上げた。
「なんだ、あんた若いのに、しゃきっとおし! そんなんじゃ見えるものも見えなくなっちまうよ」
「や、確かにそうなんですけど……」
「しかしこんな夜更けにどこに行こうとしてんだい。この先にゃ家なんて相当遠いとこにしかないだろう?」
「いえ、ちょっとそこまで」
随分話題の転換が激しい人だなと思いつつ、アストレイアは部屋の中を見回した。
怪我の治療をするような道具は……おそらくこれだろうと、勝手に箱を開けた。
失礼かとも思ったが、この老女なら気にしないだろうと思ったからだ。事実、アストレイアが応急箱を持てば当たり前のように近くに腰かけ足を出す。治療せよ、とのことらしい。
「それより、貴女はどちらへ?」
「ああ、わたしゃちょっと山菜摘みに行ってたのさ。山菜汁を作るけど、あんたも食べるかい?」
「食事、ですか?」
「食べるね?」
食べる食べないの返事をするまえに、老女は結論を出してしまった。
宴ではあまり食べることはできなかったが、アルコールもあってか空腹だとも思わない。……ただ、まあ、聞けば徐々に食べたいと思ってくるわけで。
まだ大人しくしていた方がいいのではないかと思いつつ、アストレイアは手当てを終え、台所に立つ女性を止めることはしなかった。
「すまないね、あの人はちょっと強引なんだ。でも、悪い人じゃないから」
「はあ」
「ここはね、私の体調が良くなる薬草が、近くに生えているんだ。だから、昔からここに住むって、あの人がきかなくてね」
だからこんな辺鄙なところに住んでいるのか、と、少しだけ納得した。
「行商人が通るから、それで肉や穀物はわけてもらえる。だけど、生活は快適だとはいえないだろう? 私も、街でいいとはいってるんだけど、聞かなくてね」
「……まあ、住みたい場所って人それぞれですからね」
「はは、貴女はなかなか柔軟そうなお嬢さんのようだ」
男性はおかしそうにそう言うと、アストレイアにも座るよう促した。
椅子に腰かけたアストレイアは、もう一度部屋の中を見回した。
「珍しいものでもあるのかい?」
「いえ……絵が多いな、と思ったんです」
「ああ、趣味なんだよ」
男性が描いたとされる絵は、ほとんどが風景画だ。
しかしその中にも後ろ姿など、どこかに老女が描かれている。どれも、とても暖かな雰囲気を持っていた。
「仲がよろしいんですね」
「ああ」
「うらやましいです」
アストレイアの言葉に、男性は目を細めた。
「お嬢さんにも、一緒にいたい人がいるんだね」
「へ?」
急な言葉に、アストレイアは目を丸くした。
「その人は一緒じゃないのかい? 会いに行く途中なのかい?」
「え、あの」
にこにことしている男性に答えないといけないわけではない。
けれど、その男性に誤魔化す言葉は、何となく出せなかった。男性の無言の圧力があったわけではない。なんとなく、この場限りの関係なら話してしまっても構わないかと思ったのだ。
「会えるようになるために、まだやらなきゃいけないことがあるんです。でも、すごく難しいから、出来るか……わからなくて。挑戦はするって、決めてるんですけど、ちょっと不安でもあります」
苦笑するアストレイアに、男性は首を傾げた。
「それは、一緒に挑戦できないことなのかい?」
「え?」
「一人で不安なら、一緒にやればいいじゃないか」
「あの、その」
「もしかして、一緒にはできないことなのかい?」
「はい」
「なら、見守ってもらうのはだめなのか?」
極々自然に、不思議そうに男性は次々と口にした。
一緒に召喚術を執り行うなんて考えたことはなかったし、そもそも、それを言うなら、不老不死の話からしなければいけない。
「……いえ、こっそりやった方がいいと思うので」
失敗すれば、まださりげなく彼の前から姿を消すこともできるだろう。
そう思いながら控えめにも否定したアストレイアだが、男性はどうも納得した様子ではなかった。
「でもできるかわからないんだろう? 火事場の馬鹿力ってもんもあるもんだよ。失敗したところをみせたくないのもわかるが、格好悪さを気にしていたら失敗することもあるもんだよ」
男性の言葉に、アストレイアは「やっぱり適当に誤魔化すべきだったか」と乾いた笑みを漏らした。
老人は説教臭くなる……と、過去に友人が口にしていたのを聞いたことがあるが、やはりここでもそうらしい。何も知らないくせに。そう、思わず悪態をつきたくもなる。
だが、男性は「まあ、若いなら仕方ない、私もそうだったからね」と、肩をすくめた。
「貴方も何かされようとしたんですか?」
「ああ。まあ、妻はそこそこいい商家の出でね。結婚を反対されていたんだが、私は認めてもらうために、地道な努力を続けていた。それで、成功したら認めてもらえる――ただ、そう信じて慣れない商売を頑張っていたつもりだったんだ」
「『つもりだった』?」
「でも、それはまだまだ甘かったんだろうね。しびれを切らした彼女に、ご両親の前に連れていかれ、その時の私の稼ぎを一年で五倍にしたら結婚を認めろ、できななければすっぱり別れると宣言されてしまったよ」
まあ、あの老女ならいいそうだ。
ちらりとアストレイアはそちらに目を向けると、老女は機嫌良さそうに鍋をかき混ぜている様子だった。
「無茶なことを言う人だとおもったけど、無茶を飛び越えなければかなわないことなら、それが道理だったんだ。彼女と協力して……むしろ、彼女に頼ったような状態でなんとか目標は達したけど、一人で格好をつけようとしたままなら、今も私は一人だったよ」
そう満足そうに言いきった男性を見て、アストレイアはため息をついた。
「……なんだ、あなたは私に説教をしたいわけじゃなくて、のろけたいだけだったんですね?」
「おや、ばれてしまったかい? こんなところじゃ、昔話を聞いてくれる相手もいなくてね」
楽しそうな男性に、アストレイアも肩をすくめた。
「本当に強い人間ならわからないが、私みたいな人間だと、一人で物事を行うには限界がある――そう、思わされたよ。それに、」
「それに?」
「彼女はつよいけどね。案外、さみしがり屋なんだ。一人で強いわけじゃない」
いたずらっぽく行った男性に、アストレイアは小さく笑った。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「もしも自分だけが、不老不死になったら……貴方はどうなさいますか?」
「そうだなぁ……妻も不老不死になれる方法を探すかな。ずっと一緒にいられたら、幸せだ」
それは、本当に不老不死になるとは思っていないから、との言葉かもしれない。
しかし死が近づいた頃合いの男性の、その、夢を見るような表情にアストレイアは「素敵ですね」と口にした。そう想える相手と巡り会えた――それは、とても素敵なことだ。
「まあ、不老不死はともあれ、妻より一日だけ長生きしたいと思ってるよ。おいていってしまうと、さみしがるから心配だ」
「ご夫婦で、似てらっしゃるんですね」
「はは、そうかい? そう言ってもらえると、うれしいよ」
今まで考えてこともなかったが、男性の言うとおり誰かに助けを求めていれば、もしかすれば何か違うことが見えていたかもしれない。
(でも、確かに宣言しちゃえば、何かがかわるのかもしれないな)
多くのことを見聞きしてきた。そして多くの知識を蓄えている。
しかし、思考の面ではどうだろう。思いつきもしなかったことが、もしかすると正解につながっていたのかもしれない。
(……いままで失敗してた召喚も、いままで通りで……本当に成功するのか、わからない。でも、失敗しても立ち去るんじゃなくて……一度、話して、それでもう一回挑戦するって手もあるのね)
しかし、そこで一度イオスに相談する自分を想像したアストレイアは、勢い任せにここに来てしまったことを思い出した。
(でもちょっと待って、……今更だけど、勝手に出てきちゃってるし心配させる、かも。見つかるまでにもどらないと、まずい……かな)
せめて書き置きでもしておけばよかった――いや、使える文字が違うから書き置きはできない。のんびりと山菜汁を待っているが、これでいいのか。いや、よくない。本当に自分は四百歳超なのか。考えなしだったと頭を抱えたくなってくる。
「おまたせ、山菜汁できたよ」
「ああ、悪いね。ほら、お嬢さんも」
「はい、いただきます」
とにかく今は汁を飲もう。そう頭を切り替えたアストレイアは口を付けた椀を一気に傾けたのだが――それを口に含んだ瞬間、目を見開いた。そして拒絶する口内を必死に諌め、そのままのどに通してしまった。顔が一瞬にして青くなっていくのがわかる。
「まっ……なっ、これ……」
「まずいだろう? 元気の元だよ」
「ちょ、にが、なに、こ……」
死ぬほどマズイ。
それはこのことをいうのだろう。匂いと味も全く一致しなければ、舌はひりひりするし二が見は残るし、鼻から抜ける息も独特だ。総じてマズイ。
「あんた、私を運んで疲れてたんだろう? これはまずいが、力は出るよ体力が回復するんだ」
「気力が奪われそうですけど!!」
「あはは、それは気合いでなんとかしな!」
むちゃくちゃな話である。これならば飲まなくてよかった――と思う反面、ふと心臓が熱くなってくることに気付いた。いや、心臓ではない。
(違う。私の中の魔石が、熱くなってるんだ)
魔力が回復してる――
それに気付いたアストレイアは一拍置いてから山菜汁を一気飲みした。
不味い物はそう簡単に喉をとおるわけもなく、結果涙を堪える羽目になったのだが、それでも少しでも魔力が取り戻せれば砦への帰り道だって大幅に時間が短縮できる。
「お代わりいるかい? まだまだあるよ」
「ぜひ、お願い致します」
しかし、魔力が戻ってこればもう一つ気づいたことがある。
(……微弱だけど、魔物の気配が、ある――?)
アストレイアは立ち上がった。
「どうしたんだい、お嬢さん」
「ちょっとだけ、散歩にいってきます。あ、私の分、ちゃんと置いておいてくださいね?」
そう言って、そのまま外へ駆け出した。
どうやら体力回復も本当のことらしい。足のしびれも随分軽減されているし、老婆を抱えていた腕だってだるさは抜けていた。