第五話 流れない血が流れていること(1)
その場に現れたのは十歳前後の子供だった。
茶色い髪に茶色い瞳をした、ごくごくふつうの少年は、にこりと笑顔を浮かべていた。
「テナンか? どうしたんだ、こんなところで」
「イオスの知り合いなの?」
「ああ。……今日、空に向かったやつの忘れ形見だ」
それを聞いて、アストレイアは茶の用意をしてくれた女性を思いだした。彼女の息子だといわれれば、確かに面影はある。テナンと呼ばれた少年は女性と同じで、とても優しげな面もちだ。
「お姉さん、凄く踊りが上手で、驚いた。戦いも強いし、すごいね」
「あ、ありがとう」
しかし楽し気な笑みを浮かべているテナンに、アストレイアは違和感を覚えた。
テナンは、悲しい心を押し殺して明るく振る舞っているのかもしれない。しかし、それだけだとしたら――どうして、この場にいるのだろう?
ここは砦の三階だ。鎮魂祭に遺族の参列があったとしても、この場にとどまっていることはおかしい気がする。イオスも不思議がった様子だ。
そんな違和感を覚えながらも、アストレイアは近づいてくるテナンと視線を合わせるために膝をついた。
そして、顔を見合わせて、ふと思い出した。
(……私が軍に身をおいたのも、この子くらいの年だったわね)
そして、自分が身内を失ったのも、このくらいの年だった――そう、一瞬気を抜いたときだった。
少年が抱きついてきた――そう思った瞬間に、腹に鋭い衝撃を受けた。
思わずアストレイアは目を見開いた。
声は出なかった。
「お姉さん、どうして……どうして、お父さんが死ぬ前に、倒してくれなかったの?」
「……っ」
「ねえ、どうして?」
腹をえぐられる感覚に、アストレイアは少年を突き飛ばした。
そしてそのまま馬乗りになる。
「ナイフ!?」
「ちょっとだけ、待って!!」
アストレイアが急にテナンを突き飛ばしたことに驚いただろうイオスは、それでも冷静だった。間入れずテナンに近づこうとしたが、アストレイアは必死で止めた。
(……この子、キマイラの魔力にあてられてる!!)
どうしてもっと早く気づけなかった――そう、アストレイアは内心舌打ちをした。
キマイラの毒は、身体を侵す毒が基本だ。
だが、精神に異常を来すこともある――特に、幼く多感な子供だとなおさらだったはずだ。
(父親の亡骸の、火傷にさわって移った、の、かな)
それならば毒に侵されているのは手からかと、アストレイアは少年の腕を押さえようとするが、暴れる少年の腕はつかめない。アストレイアは目を細めた。
「ごめん」
そして一言告げると、腹に拳を落とした。少年は動きを止めた。
「すぐに、治すからね」
アストレイアはまずは少年の右手を見、異常がないことを確認してから左手も見た。左手は小指の付け根付近から手首にかけて、痣のように変化していた。
(あった)
アストレイアはそれを見て、手元に力を込めた。
また調子が悪くなるだろうことは見えているが、それでも、今は少年の治癒ができるだけの力を戻していてよかった、と、素直に思う。指先からキマイラの毒と焼けただれるような痛みを引き受け、代わりに大量の魔力を自分の中から失っていく。息も自然と荒くなる。
(だめ、もっと集中……集中しなきゃいけないのに)
少年の心の痛みは、引き受けることができない。
けれど、少年を蝕む毒なら引き受けられる。アストレイアにできる、最大限のことはこれだけだろう。
ただ――同時に、できれば違う場所で刺されたかったな、と、思わずにはいられない。
(よりによってイオスの前、か)
やがて治療が終わり、アストレイアはテナンの上から退いた。
そしてそのまま床に座り込んだ。同時に、背中に暖かな感触を覚えた。イオスだ。
「この事故は、キマイラ、の、後遺症、よ。その子は、悪く、ない。治したから、もう平気」
途切れ途切れの声で告げるアストレイアに、イオスは「あとで聞く、まずは医務室だ……!」と、声を荒げた。しかし、アストレイアは体をよじってそれを制した。
「医務室は、いらない。人は、よばないで」
「だが、腹に」
「大丈夫、私は、大丈夫だから」
痛みはひどい。
ナイフが突き刺さっていては不死の力が身体を修復するそばから破壊を繰り返し、恐ろしい激痛が繰り返される。舌を噛まないよう、アストレイアは自らの服の袖を噛んだ。そしてそのまま一気に腹からナイフを抜き取った。そしてナイフを投げ飛ばし、深く息をついた。
ああ、終わりの時間がやってくる、と。
そう思うと、急に悪寒が背中を駆けめぐった。
終わる、ばれる、どう思われる?
「止血する、手をどけろッ」
「だからいらな……ッ、どい、て!」
邪魔をするな、みるな、あっちに行って――アストレイアはそんなごちゃまぜの感情をそのままイオスにぶつけた。しかし、イオスもひるまなかった。イオスはアストレイアの正面に回り込み、その腕をどけ――そして、固まっていた。
それを見たアストレイアは、顔を伏せた。
(……ばれちゃった、か)
衣装は白い。血の跡が残らないわけがない。
しかし、既にアストレイアの衣装には一滴も血の跡は見当たらない。イオスは驚きながら、けれど冷静に捨てられたナイフを見たようだった。ナイフからは既に血が消えていることを、アストレイアは気づいていた。
本来ならそこにある血は、身体の修復と同時に、体内へと既に戻っている。
(そんなに、うまくいかないわよね)
葛藤していたつもりだったのに、先ほどまでは暴れてでも気づいてほしくない事実だったのに、見つかってしまえば沸いてくる感情は酷くあっさりしたものだった。やっちゃったなぁ、失敗しちゃったなぁ。そんな乾いた感情が巡るばかりで、どこか自分を外側からみているような、不思議な感覚だった。
私には、やっぱりふつうの人と一緒の生活なんて、無理だもの。
そう、どこか諦めににた感情が浮かぶばかりだった。
ただ、それでもイオスがどんな顔をしているかは、確認することができなかった。
「これ……は…………」
「ね、大丈夫、でしょ。もう少し休めば、もう、元通り」
治癒を行ったことから、全身の力はあまり入らない。
それでも、腹部の痛みはほぼ引いていた。残っているのは、キマイラの毒のしびれだが、これも量から考えればもうすぐ癒えることだろう。
イオスはなにも問わない。問わない、というよりも声のかけかたに戸惑っているようにも感じた。
だから、アストレイアは顔を上げないまま、目を閉じた少年を指さした。
「その子、安全な場所に。今のは、事故。たぶん、その子も覚えてないから。悲しい心、キマイラの毒で助長されたのよ」
「……わかった。きみは、立てる?」
「立てる。だから、あなたはその子をお願い」
早く、イオスにはこの場から立ち去ってほしい。
そう、アストレイアは強く願った。
すでに視界がぼやけていて、このままだと格好の悪いところをさらしてしまうかもしれない。せめて、格好が悪いところは見せたくない。だから早く、テナンを連れてどこかにいって――。
しかし、そんなアストレイアの願いは、なかなかイオスには届かなかった。イオスはテナンを抱え上げるも、なかなかそばを動かない。
「……すぐに、戻るから。ちょっとだけ、待っていてくれる?」
「……」
「待ってて、くれる?」
返答しないアストレイアに、イオスは重ねて尋ねる。
しかしアストレイアには答えなんてない。待っていて、なにになるのか。
気味が悪いと思われなければいけないのか、それを聞かねばならないのか。
そう思えば、このまま逃げ去りたいと思ってしまった。
とても居心地がいいとはいえない沈黙があたりを支配した。
「なぁ、何か言ってくれ」
「……っ」
いいたいことがいえるなら、とおに言っている――!
そう、アストレイアが唇をかんだとき、遠くから何とも陽気な鼻歌が届いてきた。
「あー、ふっくちょー! みつけました!」
それはモルガの声だった。
アストレイアたちが宴会場から離れた時よりも激しく酔いを回していた。
しかしイオスはそんなモルガを見ると、駆け寄ってテナンをモルガに押しつけた。
「そこで寝ていた。保護は任せる」
「え? え?」
「彼女が調子を崩した、部屋まで送ってくる」
そんな声が聞こえたので、アストレイアは膝に力をいれて立ち上がった。
逃げなきゃ、そんな想いが頭を支配するが、まだ昇華しきれていない毒と失った魔力、それから体の修復でつかった力のせいで素早く動くことはできない。
その結果、簡単にイオスに捕まってしまった。
抱き上げられ、身をよじって逃げようとしても、今までにない強さでびくともしない。それでも、諦められずにはいられない。アストレイアは
抵抗を続けた。
しかし、腕の中から脱出がかなうよりも先に、滞在している部屋に到着してしまった。
部屋に入ったイオスはベッドまで一直線に歩き、アストレイアをその上におろした。
「さっき、ナイフは拾っておいたから。あの子が悪くなることはないと思う」
「……」
「ただ、念のために経過観察はするようにするよ。それに、心の傷はケアしなきゃいけない」
本当にいいたいのは、そんなことではないでしょう。
そう思うアストレイアに、イオスは一度深く息を吸ってから、落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「……君、治癒の力が使える魔女だったんだね」
それは、アストレイアの想定外の言葉であった。