第一話 天災がもたらした、一つの出会い(1)
久々に買い物に出かけたというのに、ひどい雨に遭遇した。
そう思いながらアストレイアは山の中、道なき道を進んでいた。雨のせいでいつもにもまして足場も視界も悪く、歩きにくさは最悪だ。それでもここは、すでに四百年程住んでいる森だ。自分がどこを歩いているかということくらい、わかっている。
(……でも、もう四百年になるのね。この間、三百五十年になったって思ったばかりだったのに)
それに気づいたのは買い出し途中に『聖女祭・四百年記念』という声を聞いたからだ。
今年でついに四百回目を数えるという『聖女祭』は、かつて戦火に苦しんだこの国を救った一人の魔女を祀る祭典だ。
約四百年前、アストレイアの住む王国は、当時隣国であった帝国からの大規模な侵攻を受けていた。
多くの兵が屍となり、村に戦火が及び、国民が悲観に暮れていた。
しかし、その時一人の魔女が歴史に姿を現した。
敵軍からは『悪鬼の娘』と呼ばれ、王国軍からは後に『救国の聖女』と呼ばれることになる、一人の少女――
(それが、私みたいな小娘だったって知られたら、いったい歴史評論家の方々はなんと仰るのかしらね)
しかしアストレイアとて、当時自分がここまで長生きをするなんて――不老不死になるなんて、思ってもみなかったことである。
聖女祭は終戦翌年から一回目を数えたわけではなく、終戦後幾年かが経過し、聖女が忽然と姿を消した翌年から開催されている。
だからアストレイアにとってはその開催数イコール自らが森で暮らしている年数なので、「何年森で過ごしているだろうか」と考えたときにはわかりやすい。ただ、そんなことを考えることは日常ではほとんどないし、街にいくのも年に一回行けば多い方なので、タイミングが合わなければ気づかないままであるのだが。
「と、思い出に浸っていても仕方ないんだけど……でも、今日は本当にひどい雨ね」
これなら、買い物に出かけるのは別の日にすればよかった。
そう思わずにはいられないほどに天気が悪い。
どんな雨が降ろうとも、アストレイアの衣服や荷物は少しも濡れない。
それはアストレイアが自分の周囲に少しだけ風の層を作り、雨粒に当たることを避けているからだ。
これは魔女にとっては簡単なことだ。アストレイアには水も滴る良い女になどなるつもりは毛頭ない。寒くなってしまうだけだ。
しかし濡れずとも、それでも視界が悪いのは防ぎ辛いことであり。
(風の魔術を使えば視界をよくすることもできるけど、わざわざ数種類を同時に使うというのも面倒なのよね)
そもそもそんな面倒をするくらいなら、空を飛びながら雨を防いで一目散に家に帰っている。
それが面倒なのでわざわざ歩いているのだ。
(雨が降るまではもう少し時間があると思っていたのに、見通しが甘かったわね)
これなら出発前に面倒臭がらず天気占いを済ませておけばよかったと思ってしまう。
言葉上は占いとはいえ、一応大地の気や水の気配をきちんと感じ取るので、天気占いさえしておけば大体あてることはできていることなのに。失敗だ。
アストレイアの住む小屋までは、まだもう少しの距離がある。
帰ったらゆっくり寝よう。どうせこの調子なら、明日も雨だ。それならゆっくり寝るのが一番だ――そう、思っていた時、雨の中でも全く負けないほどの轟音が辺りに響いた。
おそらく数年ぶりに自身の心臓が跳ねたと思えるほど、アストレイアは驚いた。
「……なに?」
嫌な予感がする。そう思ったアストレイアは進行方向をすぐに変えた。
音がしたのは崖の方からだ。
ここからは少し離れているが、この先には山越えのための道がある。
もしかして――そう思ったアストレイアが現場に走ると、そこには滑落したと思われる荷馬車が目に入った。アストレイアは荷物を投げ捨てて、その場に駆け寄った。馬車は大破しており、無事など期待できないことは一目瞭然であった。
(それでも、音がしたのはついさっき。まだ、息があるかもしれない!)
馬は弱弱しくも動く様子が見て取れた。ただし、多量の血を流しているし、首はやや妙な方向に曲がっている。そしてそのすぐ脇には人の姿も見つけることができた。意識はない様子だった。頭部からは赤い血が流れ、顔半分を覆っている。この状態なら、それ以外の怪我もあることだろう。
「でも、まだ、死んでない……!」
アストレイアは叫ぶや否や、その両手を重ねて力を込めた。
するとその手から光が生まれ、辺り一帯を光が包み込んだ。暖かく、それでいて強い光だ。
暗い森の中も、その光で一瞬明るくなったとさえ想えるほどの光である。
しばらく時間がたち、やがて光が消えた時、そこに残っていたのは大破した馬車と、その脇で立ち上がる馬と、そして雨に打たれながらも先程より穏やかな呼吸をしている青年の姿だった。顔の血は相変わらずだが、血さえ拭えば寝ているようにも見えるだろう。
ひとまず一命はとりとめたようだ――そう安堵したアストレイアだが、次の瞬間、自身に痛みとだるさ、そして息苦しさを感じ、値に伏せた。
(数百年ぶりに使う術は、やっぱり、しんどいな)
単純に回復させるだけの術が使えたらよいのだが、あいにく魔女に他人を治癒する能力は存在しない。
かろうじてできる回復魔術は、自分の体力を相手に移し、自らがその怪我を引き受けるという術で――重体の相手であれば、自らの体に相当な負荷をかけるものである。言い換えればアストレイアが不死でなければ、自らが死んだ上で人か馬かの片方を回復させられるかどうかというくらいの術である。
そんな術であることを、アストレイアは使用してから「ああ、そういえばそういう術だった」と、思い出した。しかし今更思い出したところで、どうすることもできはしない。
(だって、急だったし、びっくりしたし。それは仕方ないとして……それよりも、これ。助けたけど、どうしよう)
青年の生命の危機は脱したはずだが、この場所で放置しておくと土砂崩れが起きないとも限らない。
そもそも怪我だって完治させられていない可能性は十分ある。現に額の傷は治り切ってはいないらしく、いまもうっすら血が滲んでいる。
青年の瀕死の状況を見て思わず助けてしまったが、服の購入以外では極力他人に関わらないように生活しているアストレイアだ。現状、今すぐ死なない状況であると思えば、助けるのにも抵抗が生まれている。
(どうしよう。放っておきたい。関わってもいいことなんて、絶対起きない)
そう自分で思っているのに、足はどうしても帰路に向かってはくれなかった。
アストレイアはそんな自分に深くため息をついた。
いつの間にやら、自身を覆っていた風の術は解いていた。おかげで服が体に貼りついて気持ちが悪い。最悪だ。顔に貼りつく髪を横に払いながら、諦めた調子でアストレイアは口を開いた。
「……君は、協力してくれるかな?」
アストレイアが語りかけた馬は、それに気合いの入った鼻息で返事をした。
これでどうやら、『重くて運べなかったから放置した』という言い訳は、この馬の返事によって消し去られてしまったらしい。