第三話 砦の戦い(5)
ラズールの本気の早さは、もはや馬とは思えないほどの早さであった。
もしかしたらラズールも魔女と同じく、古代の力を受け継ぐものなのかもしれない――と、思ったのは一瞬のこと。
すぐに現状に考えを戻したアストレイアは、目的地を示し続けた。
時間にすれば、始点から終点まではそれほどの時間はかからなかったはずだ。
しかし、その移動中も状況が悪化していることはアストレイアにも伝わってくる。いや、木々がなぎ倒される音からイオスにも伝わっていることだろう。
「イオス、止めて!」
「!!」
「ここでラズールは離れて! 近づきすぎて足がなくなると帰りが大変だから!」
そう言うとアストレイアはラズールから飛び降りた。
本当は少しでもイオスと打ち合わせを行ったた方がいいのはわかっている。イオスはアストレイアの戦い方を知らないし、アストレイアもイオスの戦い方など想像できない。
しかし、そんなことに構ってはいられなかった。
なぜなら、もう目視できるところまでキマイラは迫っている。
それに、逃げている騎士も限界まできているはずだ。
原則になど忠実になれない事態が、ここにある。
そう、思ったときだった。
追われていた騎士は足から崩れ落ち、キマイラは炎を放とうと大きく口を開いている。
キマイラの動作の大きさから、その規模は容易に想像がついてしまう。トドメを刺す気だ。
その光景を目にしたアストレイアにとれる行動は、その間に飛び込むことだけだった。
アストレイアはためらうことなく、まるで突風のように加速すると騎士とキマイラの間に飛び込んだ。
そして迫り来る炎に向かい、小声で「私に力をおかしください」とつぶやいた。
するとアストレイアが突きだした両腕は光を放ち、直後、鳴り響いたのはまるでガラスが砕けるような音だった。
キマイラの炎はアストレイアがたった今築き上げた氷壁にぶつかり、消滅していた。
氷壁は一部を破壊されつつも、その被害を最小限とどめていた。
「間一発、かな」
冷や汗をかきながら、アストレイアはキマイラと睨み合った。
キマイラは、アストレイアが想像していたより立派な姿で、できれば出会いたくなかったと思わざるを得ない。
キマイラも突然現れた氷壁に警戒をしてだろうか、一瞬その動きを止めた。その隙にアストレイアは注意を払いつつも後ろで倒れた騎士の様子をのぞき見、息をのんだ。
(想像以上に、ひどい……!!)
息をしていることが、いや、この状態で逃げていたという方が不思議なほどのひどい怪我を負っている。
このままだと、あとどのくらい持つか――すでに意識はほとんどない。
「モルガ、エルバ!! しっかりしろ!!」
剣を抜き、キマイラに向けるイオスが二人の名前を呼ぶも、二人はわずかな反応も示さない。呼吸が、すでに止まっている。
(ただ、まだ、死んではいないはず)
アストレイアは唇をかんだ。
助ける方法はわかっている。けれど、それはイオスを危険な役目を押し付けることだ。
提案すれば、イオスはそれを間違いなく引き受けるだろう。だが、そんなことは提案したくない。
(それでも……このまま、何もできなかったって、イオスを後悔させるのはイヤだ)
とりかえしのつかないことで、後悔なんてさせたくない。
(だって、私だって、嫌だもの!!)
「……イオス、200を数える間だけ、時間かせいで。そうすれば、この二人は私が助ける」
「助けるって、」
「いいから! やる、やらない、どっち!」
イオスの常識では、この状況を治療できないということをアストレイアも理解している。
いや、ここまでの火傷をし、さらにキマイラの毒に侵されていれば、砦に連れ帰っても危ないことは明白だ。
(だからこそ――イオスの常識外の回復魔術を使うのよ!!)
本当なら人前で絶対に使いたくない力だ。
あとで誤魔化すことは考えているが、しかし今はそれを考える時間も、ましてや説明している時間などない。
「……きみが治療している間に倒せるように、つとめるよ」
「上等よ。でも、それイヤな前振りだからやめてよね」
軽口を叩いたアストレイアは、再び右腕を前につきだし、ぐっと握り拳を作った。そして、その直後、手を開く。するとアストレイアの前には先ほどよりもかなり頑丈な氷壁ができあがった。
イオスがキマイラを引き受けてくれるのなら、これで流れてきた炎くらいは防げるだろう。
回復魔術の目隠しにもなって、ちょうどいい。
アストレイアは倒れた二人の兵士を自分の手が届く範囲に並べた。
そして深くを吸い込んだ。するとアストレイアの目が輝きを放った。
(重傷ね。やっぱり相当キマイラの毒が回ってる。ここで治さなきゃ、この人達は死ぬわ)
そう判断したアストレイアはそのまま目を閉じた。
(これは、私も相当なダメージは覚悟しておかないと、か。気絶してもおかしくないわ)
死なないといっても、苦しみや痛みは消えることなく今もアストレイアも受けている。
ただ、通常の人間よりも相当早く回復することが違うところだ。
(ま、弱音を吐いていてもしかたない。不死の私なら十分耐えられる)
だからイオスもラズールも治療することができた。
指先に神経を集中させる。
全身の魔力が血液が巡るように動いているような気がする。
それを十分に感じながら、アストレイアは鋭く息を吸い込んだ。
いまから、はじめる!
しかしその直後、今度は思わず息を吐き出しそうになってしまった。
腹に激しい衝撃を受けたような、そんな錯覚さえ覚えそうになる。
アストレイアは歯を食いしばった。
(このくらいなら、耐えて当然、でしょ……!)
衝撃は全身に広がり、血管が暴れているような気さえする。
引き受けた怪我が、その場で修復されていく――それが、激しい痛みを訴えている。長年の生活で痛覚はだいぶ鈍っていると思っていたが、体が引きちぎられるような痛みを気のせいにすることなどできなかった。口の中には鉄の味が感じられる。
この痛みは、初めてではない。
イオスたちを治癒させたときもにたような状況にはなった。しかし今とは違い、彼らはキマイラの毒に犯されていなかった。
しかし何より誤算だったのはイオスたちを治癒したときに使用した魔力が、まだアストレイアの中で回復しきっていなかったことだ。無理に相手の傷と自分の体力を交換するこの術は、歴代でも最多と言われるアストレイアの魔力さえ食い尽くすほどに、身体の中で暴れまわっている。その上でキマイラの毒が自身の身体を巡り、そしてそれが回復しようとする。めちゃくちゃともいえる状況だった。
(さすがに、きっついな。禁術だっていうのを、思い知らされるわ)
そう、口の端を思わず上げた。
(ああ、やっぱり普通じゃないな、私。普通なら、一人の治療もできずに、命を落としていただろうに)
息が吸い込めない。身体が悲鳴を上げている。
本当に二百を数える間に終わるのだろうか?
(終わるんじゃない、終わらせる!)
気弱なことを考え始めた自分を叱咤し、アストレイアは霞む視界の中、ただひたすら彼らの呼吸が戻るのを祈る。
イオスが戦っている音も遠くから聞こえる。
勝手にあきらめられない。だから、この倒れている騎士たちにも生をつかんでほしい――そう、強く願った。
それから、本当に二百で終わったのかはわからない。
しかし、徐々にだがアストレイアからは息苦しさが消えていった。霞んでいた視界も色を取り戻し始める。
(――助けれた!)
小さいが、騎士たちの呼吸も戻っている。
一番の山は越えた。そう判断したアストレイアはぐらつく足を支えて立ち上がった。
そして深く深呼吸をする。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け)
キマイラの毒は不死の身体でもなかなか中和しきることができない。かなりの量があったので、余計にだ。
しかしだからといって、回復をただ待つこともできはしない。遅刻なんて厳禁だ。
「よし」
そう小さく気合いを入れたアストレイアは、まずは氷壁からそっとイオスの様子を窺った。