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歌唱少女と音の精  作者: シガナイ ロート
1/1

前編

 それは分け入った山道に落ち葉が甘い香りを放つ晩秋十一月の事だった。

 吐く息は空を覆う一面の雲に白く混じって消え、寒さと湿気はむき出しの肌に襲い掛かって鼻の頭を容赦なく朱に染める。ニュースでは最低気温が五度を下回ると言っていたからこの時期にしては寒い日だ。


 その日の朝、川原美梨は生まれて初めて親に内緒で学校をサボり自宅から少し登ったところにある山道へと身を潜めた。

 全長の半分以上が脇から生える木々に覆い隠され麓から発見するのが非常に困難なその道は元々山のずっと奥にある大きなお寺に参拝する人々が利用していたらしいが、蛇のようにのたくっている上に車は一台通るのがやっとの幅しかなく行きあえる場所も限られているという不便さから、近年別の場所に出来た県道が主に利用されるようになりすっかり廃れていた。

 今や人通りはほとんどなく日に一台か二台の車が通る程度。おまけに二キロ近くも続いているというのに街灯は数えるほどしかなく夜ともなれば一歩先に穴があっても気付けないほど真っ暗になる為、地元の大人達でもあまり近づきたがらない。


 ミリはこの道が好きだった。

 静かで人目につかないのはもちろんの事、自然に溢れ四季折々の変化が見られるし、何より廃れた道ならではの興味深い場所がいくつも存在していた。

 いつからあるのかわからない工事車両を閉じ込めた広場、人が通っているのを見た事がないのに妙に綺麗な神社の裏道、雑草に埋もれ苔で緑色になった石しかない小さな墓場、いつのまにか伐採された送電線周辺の禿山…………中でも特にミリの興味を引いたのは水のないダムだ。


 どうしてそんなものが存在するのかわからないが、幅十数メートル、厚さ約一.五メートル、高さ三、四メートル程度の無骨なコンクリート製のそれはうねうねと曲がる山道の中ほど、谷折に曲がるところから山頂側に道を外れて少し入ったところに存在し、山の起伏が重なりあった小さな渓谷にフタをするように立ち塞がっている。壁の上部分は中央に向けて下る漏斗状の坂、その中央部分には一段下がった台形の凹みがあって奥の景色をちらりと覗かせ、更にその中央下部にはバレーボールがすっぽり納まる程度の四角い穴が二つ、左右対称に空いていてそこから下に排水の跡が落ちている。ただしその水の痕跡が落ちる地面は人の手が加わっているようなものではなく、ただむき出しの地肌に水源のない水たまりが細く道路の側溝へと続いているだけである。

 雨が降れば中央の穴から水が流れて落ちるので全く意味がないわけではないのだろうが、果たしてこんな大きなものを建ててまで堰き止める必要があるのか甚だ疑問だ。


 ミリも最初はそんな疑問からダムに近づき、穴の向こうを覗き見たりしていた。

 しかし数十年単位で放置された穴の中は枝や雑草で視界を遮られ、平均より小さいとはいえこの春に中学生になったミリが通り抜けられるほど大きくもない。またダムの両端は深い草木に覆われた急斜面で、刈ったり切り倒したりしなければとてもじゃないが近づくことすら出来ず、彼女にとってダムの向こうは永らく未知の領域だった。


 彼女がダムを乗り越えようと考えたのは少し前の事だ。

 ペットの犬(チビ)の散歩がてら山道を歩いていた日曜日の昼下がり、はしゃいで先行する元気なチビに引き摺られつつダムの近くへ差し掛かって遠めにそれを眺めていると、ふと思いついたのである。


(あれ、穴のとこに足掛けてジャンプすれば上に届きそうじゃない?)


 排水溝までは普通に手を伸ばせば届くしダムは若干斜めに傾斜しているので手を引っ掛ける場所さえあれば登るのはそれほど難しくなさそうだ。

 残念ながらその日はチビをほったらかしにするわけにもいかず試せなかったが、以降近くを通る度にいつか試してみようと思っていた。

 そして今日、学校をサボるついでに乗り越えてみようと、山道を一人、ダムの前まで来たのだった。


 ダムの前にたどり着いたミリは通学に使っている自転車を草むらの陰に隠し、早速排水溝の真下からダムを見上げる。

 近づいてよく見るとダムを形作っているコンクリートはかなり古いものらしく、相応に風化してざらざらとした粗い面を晒していた。これなら登るときに踏ん張っても靴が滑ることはなさそうだ。

 安心したミリはまず一旦ダムから離れると助走をつけて飛び上がり、ダムを蹴って一息に排水溝まで登った。

 それから考えていた通りにジャンプして手を伸ばすと、思った以上に余裕を持ってダムの上部へ手を掛ける事が出来た。

 あとは制服が汚れないように気をつけながらイモリのように壁をよじ登り、なんとかダムの上へと登るのに成功したのだった。


「わ……ぁ…………!!」


 登りきったミリはその先に目を向けて思わず声を上げた。

 足元に広がるダムの裏手は砂利に覆われた広場になっていて、それが夏の盛りに勢い付いた緑苔むす草木の雪崩に侵食され複雑な模様を描き、まるで自然につくられた日本庭園のような風情を持って眼下に広がっていたのである。


(すごい。綺麗! あそこなんかの花が咲いてる。あっちの枯れ草のあたりは乗り越えられそう。あ、向こう登れそうな獣道っぽいのある!)


 その小さな庭園を見ているうちに居ても立ってもいられなくなったミリは足元に広がる地面の高さを確認する。するとどういうわけか表側の半分くらいの高さしかなく、これなら飛び降りても大丈夫だと思えた。

 ミリは少しだけ息を吸って意を決すると、スカートの裾を押さえ、えいっと小さく跳んでダムの向こう側へと飛び降りた。

 少々よろけはしたものの危なげなく着地したミリはそこで奇妙な感覚を覚えた。先程までとは違う世界に迷い込んでしまったような、それでいてどこか落ち着く不思議な感覚。

 最初それが何なのかわからなかったが、ふと耳鳴りがしてきてその感覚の理由に思い至った。


(ここ……外の音がほとんど聞こえないんだ…………)


 そう、斜面に囲まれた小さな谷とそれに蓋をするコンクリートのダムに挟まれちょっとした窪地と化したその空間には外界の音がほとんど届かなくなっていたのである。

 しかもコンクリートのせいなのか音を立てればエコーのように遅れて音が返ってくる。


(おお、音響効果バツグン)


 ちょっとしたホールのようなその空間がすっかり気に入ったミリは鼻歌を歌いながら庭園内を散策し始めた。

 黄色い小さな花を咲かせる茂み、育ちかけの小さな松、折れた部分から斜めに伸びる長い倒木、藁のような枯れ草がこんもりと積もった大きな塊…………見るものすべてが新鮮でミリの心臓はずっとどきどきと早鐘を打っていた。いつしかどきどきは溢れるように声になり、鼻歌は無意識のうちに大きくなっていつしかミリは即興の歌詞を口ずさみながら歌っていた。




 壁を越えてゆこう越えたことない壁

 足をひっかけて手を伸ばしてさぁ飛び上がれ


 忘れていた好奇心思い出したのは偶然

 心が叫んだんだあの先へ行こう

 きっと素敵なことが待ってるって


 壁越えて見つけた僕の僕だけの庭園

 ちょっと臭くてぬるっとしててぎゃあ、底なし沼


 白い壁、砂利絨毯、緑のクッション、枯れ剣山

 生きた盆栽、水なし橋、小鳥達の安息所


 広がっていた世界思ったよりは小さいけど

 望み求めていたのはもっとちっぽけだったろう

 こんなにキラキラしてなかった


 壁を越えてゆこうその先の世界へゆこう

 越えた頂から見る景色そう、求めてたのなら




 パチパチパチパチ

 歌い終わった瞬間、背後から拍手が聞こえてきてミリは全身から血の気が引くのを感じた。

 反射的に振り返ったミリの顔の目の前いっぱいに奇妙なお面が飛び込んでくる。


「歌、上手だね。なんて曲?」


 一瞬思考停止したミリにお構いなく澄んだ高い声で問いかけるお面。

 そのあまりの距離の近さに驚いたミリはしゃがんだままの状態で器用に身体を反転させて後ろ手に四つんばいになってザザザっと退り距離をとった。


「あー…………ごめん、驚かせちゃったか」


 ミリの極端な反応にそいつは頭をぽりぽりと掻きながら呆れたように謝罪すると、つけていたお面を頭の上へとずらした。

 下から出てきたのは端正な目鼻立ちの人懐っこそうな少年の顔だった。よく見ればミリの通う井ノ松中学校の男子の制服を着ている。

 けれど同級生でこんな目立ちそうな可愛らしい男の子は見た事がない。では先輩かと言われれば、顔立ちといい声変わりしてなさそうな声といい、とてもじゃないが年上には思えない。

 そこでミリははたと気づいた。


(あれ、そういえば私、今日学校サボったはずなんだけど……もしかしてこの子も?)


 気になったが、聞き返されるのが怖くて躊躇してしまう。

 そんなミリの思考は露ほども気付かない様子のお面の子は「そうだ」と今時漫画でしかみないような仕草で両手をポンと合わせると、未だ呆けたような表情を晒すミリの手をとって立たせ、庭園の脇にある枯れ草が山のようになっているところへとひっぱって行った。そうしてダムからは見えない影になった方へと回り込むと、そこには古びたドアが埋もれるように佇んでいた。

 男の子は迷いなくドアの方へと進んでゆく。

 見知らぬ男の子に怪しげな建物に連れ込まれるところを想像して恐怖したミリは全力で抵抗を始めた。


「や…………離して!」


 しかしいくら足を踏ん張って歩みを止め、つかまれた手を振りほどこうと奮闘しても、男の子は見た目に反して力が強くミリの力ではびくともしない。

 それどころかまるで抵抗を感じていないかのように余裕の表情を浮かべたままずんずんとドアの前までたどり着いてしまった。

 ミリはもはや半狂乱になって身体をめちゃくちゃに振り回し抵抗したが、少年が開いたドアの中を見て一気に脱力してしまう。


「ジャーン。秘密の部屋へようこそ!」

「え…………?」


 そこはちょっとしたスタジオのようになっていた。

 うち捨てられた外観とは裏腹に小ぎれいに掃除の行き届いたログハウスのような室内。外からでは想像も出来ないくらい広い空間にはその半分を埋めるグランドピアノが置かれ、奥の壁際に設置された鉄製の棚には古い音楽雑誌やレコードプレイヤー、楽譜らしき束にカウベルやカフォンといった鳴り物などがところ狭しと置かれている。


(なに……ここ…………?)


 声には出さず心で問いながら男の子を見る。

 彼はにっこりと笑って言った。


「ここは僕達の秘密の部屋。音楽の楽園だよ」


 そう言って男の子は中に入ると楽器をひとつひとつ演奏しながらミリに説明してくれた。


「元はこの辺に住んでた音楽家が練習用に建てた小屋だったんだけど、その人が仕事で東京の方に行っちゃってね。もう使わないからってんで僕がもらい受けたんだ。たまにお役所が砂防堰堤の点検に来るから外側からは見えないようにしてあるけどね」


 砂防堰堤というのは土砂災害が起きないように設置される堰のことで、ミリがいうところの水のないダムの正体である。

 この辺りの山は高速道路開通の為に国が買い占めたところが多く、国有林になっている為、こういった災害防止の工夫があちこちにちりばめられているのだった。


「びっくりしたでしょ?」


 一通り話し終えた男の子は叩いていたドラムのスティックをホルダーに納めながらにやりとした笑いをミリに向けてきた。

 部屋には入らず入り口から興味津々に中を覗きこんでいたミリは急に話を振られてびくりとしてしまう。

 覗きこんでいた首をドアの影に引っ込めて隠れるが、尚もこちらを見続けている男の子の視線に耐えかねておずおずとゆっくり首を縦に振って答えた。

 そうしてから盗み見るように男の子の反応を窺うとこちらに不思議そうな表情を向けている。

 そこで初めて自分の行動を思い返したミリは客観的に見てかなり気持ち悪い反応をしていたことにようやく気付いた。


(しまった……これじゃただの気持ち悪い根暗な子じゃないか)


 しかしそう思えば思うほど恥ずかしくなってますます顔があげられなくなる。

 悪循環に陥ってどうしたらいいかわからなくなり落ちた沈黙を破ったのは男の子の晴れやかな笑い声だった。


「あははは。君はあれだね、この子達みたいだね」


 笑いながら男の子はピアノを鳴らし始めた。

 ミリは言われた意味がわからず戸惑う。


(今のはどういう意味だろう。ピアノみたいってこと? いや、この子達って言ってたから複数…………楽器ってこと?)


 けれど男の子を見ると見ているのは鍵盤の上だけで、それもなんだか違うような気がした。

 と、ミリはそこである事に気付いて息を呑む。


(………………鍵盤………………触って……ない?)


 男の子の視線の落ちる先。鍵盤の上を見ると、彼の手は確かに音をなぞるように動いてはいたが鍵盤には届いておらず、まるで指先から何かの念力でも飛ばしているかのように指したところの鍵盤が落ちて勝手に音を鳴らしていた。

 その不思議な光景を目にして真っ先に思い浮かんだのは自動演奏するピアノだ。以前旅行かなにかで泊まった旅館にそういうのがあって演奏してもらった事があるのだが、確かこんな感じで鍵盤も一緒に動いていたはずだ。

 電源が見当たらないとかスイッチはいつ押したのかとか色々と湧き上がってくる疑問をあえて黙殺してミリはなんとかそう納得しようとした。

 そうして強張った表情を向けているミリに、男の子は不思議そうな表情を浮かべたかと思うと、なにやら思いついたように「あっ」と声をあげてひょいひょいっとミリの方へ近づいて来た。男の子がピアノから離れると同時に演奏も止まり、部屋に静けさが降りる。


「やあ、忘れてた。そこじゃまだ見えないね」


 よくわからない事を言ってごめんごめんと謝ってくるがミリにはなんのことだかさっぱりわからない。それよりも何の操作をした様子もなくピアノが止まったのが気になった。

 目の前でなにやら喋っている男の子を無視し、ピアノを盗み見てスイッチを探そうとしていると、それを邪魔するかのように男の子が視界を遮ってくる。それを避けて再びピアノを見ようとすればまた視界を遮るように男の子が動くので、また別の方向へ避けてピアノを見る。また邪魔される。

 そんなやりとりを数回くり返すうちにだんだんとイライラしてきたミリは、彼女にしては珍しく強気に男の子を押しのけるようにして部屋の中に一歩足を踏み出す。

 男の子の身体がミリの視界から押し出され、黒光りする美しいグランドピアノの光沢が目に入った。


 ――――――その時だった。

 フローリングの床にミリが足を下ろし、シューズが床を踏みしめる鈍い音が聞こえたその瞬間。

 ピアノを見つめるミリとピアノの間になにか円柱状の不透明なものがシュッと立ち昇ったのが見えた気がした。

 驚いて「ひゃっ」と声を上げながら足を引くと、その引いた足が踏みしめた床からも同じものがシュッと立ち昇る。今度は反応することもできず、ミリは変な姿勢のまま硬直してしまった。

 そんなミリの様子を見て男の子は心底楽しそうにお腹を抱えて笑った。


「あはははははははっ!! いいね! 最高! いいリアクション! ふっ……あははははははははははっ」


 笑われるのは慣れているミリも初対面の相手にここまで大笑いされたのは初めてで普段なら流石にショックを受ける場面だったがこの時ばかりは気にする余裕もなかった。


「今の、何…………?」


 茫然自失として問いかけるミリに男の子は未だ笑気の治まらぬ様子で喘ぎながらも応えを返してくる。


「くふふ……あれは、はぁ……ふっ、お、音精、だよ、はふふっ」

「オトセイ…………?」

「ふふっ……ん、んんっ! げほっげほっ。うん、ごめん、もう大丈夫」


 聞き返した問いは聞こえていたのかいないのか、男の子は笑いを誤魔化すように咳払いを何度かして持ち直すと、一旦深呼吸をしてから説明を始めた。


「僕達はそう呼んでる。ああ、達ってのは僕とここの元の持ち主ね。正体が何なのかはわからないけれど、こいつらはこの部屋の中で音を鳴らすと音と一緒に姿を現すんだ」


 言いながら男の子が足で床をノックすると先程と同じ形の音精がシュッと姿を現して消える。

 更に男の子が手で壁をノックすると、今度は六角柱の音精が壁から垂直に走って消えた。

 ミリも恐る恐る壁を手のひらで叩いてみると、今度は先程よりひと回り大きくて輪郭のぼやけた六角柱が広がりながら出てきて霧散する。


「そうそう、こいつら鳴らし方とか湿度とかによっても微妙に変わったりするんだよ。まさしく音の精でしょ」


 そう男の子は説明してくれるのだが、ミリの耳にはもはや届いていなかった。

 色んな場所……材質や構造の違う場所、部屋の中の楽器、小物類など目に付くものを叩いたり引っ掻いたりしては出てくる音精の形を観察し、あるいは触ろうとして手を伸ばし、叩く角度を変えて音精の方向を変えてみたりと興味津々に色々試す。

 試しているうちに少しずつ音精の特徴が見えてきた。


 まず音精の姿が見えるのは音が鳴っている間だけで余韻と共に空気に解けるようにスゥっと消えてゆく。

 触る事は出来るが進む方向を変えられるくらいで、つかもうとしても感触はなくスルリとすり抜けてしまう。

 同じ音を継続的に何度も鳴らした場合は複数の音精が繋がって一つの形状となり、例えば先程の壁を叩く場合だと真っ直ぐだった円柱が数珠のような形状になって長く永く残る。

 特に面白いのは別の音を鳴らした場合で、一つの音精が消える前に別の音を鳴らすとそれぞれが互いに干渉しようとして引き合うように動くのである。

 ドラムのように複数の音でリズムを刻むと丸い音精と音精が繋がった分子構造モデルみたいな形になったり、ピアノで和音を鳴らせばそれぞれの音精が絡まり合い螺旋を描きながら広がって部屋中に満ちていった。


 そんな一つ一つの音精の動きをミリは興味深く夢中になって観察した。

 男の子がいるのも忘れ時間が経つのも忘れて没頭していると、気付けば昼時を越えていたようでミリのお腹が空腹を訴えて派手に鳴った。


(あれ? お腹からは音精って出ないんだ。そういえばあの子が喋ってるときも口から音精は出てなかったなあ…………)


 そんな事をどこか他人目線で考えて、そこでようやく男の子の存在を思い出しミリは恥ずかしさのあまり身体がかっと熱くなるのを感じた。

 別にそれほど大きな音だったわけではないのだが静かな室内には彼女以外に音を発するものはなく、男の子もずっと静かにミリの様子を眺めていたので気付かれなかったはずはなかった。

 にもかかわらず男の子はそれに気付いた様子もなく、観察の手を止めたミリに対して気さくに話しかけてきた。


「気に入ってもらえたみたいで何よりだよ。こいつらもいつもはこんなにはっきり姿を現さないのに……君の事が好きになったみたいだ」


 音精達の事だとはわかっていつつも同年代の男の子にそんな台詞を言われ、どきりとしてしまうミリ。

 意識して男の子を改めて見てみれば、中性的で儚げな雰囲気を持った目の前の男の子は昔ノートに落書きした理想の男の子にちょっと似ていた。

 気付いてしまうと意識せざるを得なくなるもので、以降あれほど夢中になっていた音精の観察も手につかずそわそわと部屋の中を歩き回りながら無意識に視界の端で男の子の様子を窺ってしまう。

 そんなミリの心情を知ってか知らずか、男の子はミリの心中に深く踏み込むお願いをしてくる。


「よければちょっと歌ってくれないかな。伴奏は僕が」


 何か話しかけるきっかけはないかと探っていたミリは男の子から話しかけてもらえて心を浮き立たせたが、その内容を聞いて胸に苦いものが込み上げた。

 先程は人がいるとは知らずついつい高揚のまま歌って聴かれてしまったが、ミリはもう人前では歌わないと心に決めていた。

 それでも即座に強硬に拒否できなかったのは思春期の女の子たる証だろうか。気付けばミリは男の子に質問を返していた。


「どうして…………?」

「ん? さっき君が歌っている時、こいつらがすごく喜んでたんだよ。僕がピアノを弾いてもこうはならないし、何より僕ももう一度君の歌が聴きたい。ダメかな?」


 首を落として上目遣いにそんな事を言われるとミリに断る術はない。

 何より自分の歌を一度聴き、声を聞いた上で尚も聴きたいと言ってもらえたのが彼女の心に切ないほどの喜びを与えた。

 それでも自分にいくらかの言い訳をしなければ決心する事は出来なかったが、最終的にミリは男の子の要求を受け入れる。


「じゃあ……い、一曲だけ」

「本当!? ありがとう!」


 男の子は無邪気に喜び、同時に部屋のいたる所から音精が飛び出して色んな音が鳴り響いた。

 その歓喜の音はミリに改めて自分が言った意味を知らしめ、小さな身体に電流のように緊張の糸を突き通した。

 緊張に強張るミリを余所に男の子は奥の棚からいくつかの楽譜をとりだしそれをミリに提示して歌う曲を決める。彼もあまりピアノには自信がないそうで楽譜がなければ演奏出来ないと自嘲気味に笑った。

 提示された曲はどれもミリも知っている有名な童謡ばかりだったのでミリは余裕を失って白くなりかけている頭で適当に指し示したのだが、結果よりによって輪唱曲である『かえるの歌』に決まった。

 意外そうな表情をする男の子をやけくそ気味に促し、ピアノへと座らせる。

 男の子は促されるままピアノにつくと楽譜を広げて鍵盤に指を当て、深く息を吸って指を落とす。

 伴奏が始まった。


 人前で歌うなんていつ以来だろうか。

 ピアノの音を聞きながらミリはぼんやりと記憶の糸を手繰る。

 その糸が繋いだ先にあるのは彼女の慎ましやかな人生の中にあって特に暗澹たる記憶の泥の中だった。

 幸いその苦い記憶に想いを馳せる間もなく短い前奏は終わりを告げ、彼女は心の準備も何もなくほとんど条件反射で歌い始めていた。

 

「か~え~る~の~う~た~が~」


 歌いながらふと思う。

 こんなにキーの高い歌だったのか。声は喉に引っかかって出にくいし音程を外しているような気がするがどの程度外しているのかもわからない。思ったように歌えない。そもそも独唱では音の厚みがなくて寂しい。どうしてこの曲を選んでしまったのか。

 今更ながらに後悔の念が押し寄せて鬱々たる気分に声も小さくか細くなってゆく。

 次は輪唱パート。この曲を教わった時は組でパート分けがされ、先生には周りにつられないようにと注意されたのを思い出す。


(気付けばつられる心配もない一人ぼっちの歌になっちゃったなあ)


 ほんの少し胸に痛みを感じながらそんな事を考えていると、なにかピアノ以外の音が鳴っているのが聞こえてきた。

 最初は邪魔な雑音にしか聞こえなかったが、歌っているうちに自分の歌のタイミングと音がぴったり合っている事に気付くと、まるでラジオの周波数が合うようにそれが何をなぞっているのかがわかった。


(輪唱……してる?)


 顔を上げて辺りを見回してみると、そこには自分の声に合わせて所狭しと踊る楽しげな音精達の姿が部屋中を満たしていた。

 床から飛び出して壁にぶつかっては反射を繰り返すラッパのような形の音精、ピアノの中でトランポリンのように跳ね回るいくつもの音精、どこから現れたのかわからない部屋の中を廻りながらゆったりと上がったり下がったりしている音精、他にも棚から勢いよく出て楽器にぶつかっていくものや、不規則に方向を変えながら立ち上るもの、他の音精の影響で生まれてくるものなど、沢山の音精がぶつかったり絡まったり影響しあって、もうお祭騒ぎだ。

 音が勝手に鳴り出し、輪唱が輪唱を生んで再現なくどこまでも繰り返そうと続いてゆく。それはミリが歌い終わってもやまなかった。

 その有様はまさに夏の夜の畦に聞くやかましいほどのカエルの声。

 やがて増えすぎた輪唱が飽和状態になり音精達で部屋が埋まりそうな程高まった時、部屋自体が爆発したかのような錯覚と共にすべてが霧散して一気に静けさが舞い戻ってきた。

 心躍らせながら一部始終を全身で享受していたミリはその急激な変化に脱力してペタンとその場に崩れ落ちる。

 頬を紅潮させて呆然と中空に視線を投げる様は祭の余韻に浸っているようにも見えた。


「どう? 熱狂的だったでしょ」


 演奏を終えた男の子がさも得意気に話しかけてくるがミリは身体が痺れている感じがしてすぐには応じられなかった。

 目を瞑り自身の身体の内側を探れば未だ芯が充足感に震えているのがわかる。

 ミリはその感覚を以前にも味わった事があった。

 それは彼女にとって最も満ち足りていて最も楽しかった瞬間。そして同時に最も忌まわしい記憶を呼び覚ますトリガーでもあった。

 呆けた思考がそこにたどり着こうとした時、電気を通されたようにバチリと現実に立ち戻る。

 目の前には男の子の顔があった。


「う、うわあぁぁあっっっ!!」


 跳ねるように背中を反らせて倒れそうになる上半身を後ろ手に支え、そのままサカサカと壁際まで逃げる。その様は何かの特殊な虫のようだった。

 ゴッという音と衝撃と共に丸い頭大の音精が壁から落ちた。


「だ、大丈夫? そんなにびっくりするとは思わなかった」


 ぶつけた後頭部を抱え込むように押さえてうずくまるミリに男の子がおずおずと声をかけてくる。

 ミリは格好悪さに泣き出したくなるのをぐっと堪えて何でもないという風に手を振った。

 床についた尻餅の横で壁から落ちた音精が空気に溶けて消える。

 立ち上がり身体についた埃を払って平静を装うも醜態を晒した後の沈黙に耐えられるほど神経の太くないミリは身体を壁の方に向けてしまう。

 我ながら陰気だなあと自覚しつつもやっぱり相手を意識しないで済むのは楽で、そのまま心を落ち着けながら体裁を整えた。

 振り返ると男の子が不思議そうな表情でこちらを見ている。


「君は…………自分に自身がない? のかな」

「う………………」


 確信のない男の子の質問に思わずうめき声を上げて確信を与えてしまう。

 案の定男の子は得心のいった表情に変わり、彼女に対してはあまりにも無神経な言葉を誘引してしまった。


「わからないな。そんなに素敵な声をしているのに」


 ミリはその言葉を受けて頭に血が登るのを感じた。

 普段ならば気にしないはずの、ある意味では聞きなれた言葉だった。これがいつも彼女の周りで愚昧な日常を謳歌するクラスメイトに言われたのであれば日々を彩るノイズのひとつとして聞き流し翌日には綺麗さっぱり忘れられる程度の。

 けれど目の前の男の子は違っていた。出会って間もないとはいえ曲がりなりにもミリの歌声を聴き、笑わないでくれたのだ。曲に対する賛辞すら述べていた気がする。

 普段声を聞かれるのを忌避して人前でほとんど喋る事なくそのせいで周りから浮いているミリが初対面の子の前でこれほど声を発したのも、彼なら気にしないのではないかという期待がどこかにあったからだ。

 そう、ミリはどこかで期待していた。

 人里から遠く、とはいかないまでも人の訪れない山深い場所で物語の登場人物のように現れた不思議な男の子。しかも連れられて入った小さな部屋の中は不思議を通り越して怪奇な音精なる現象で満ちている。

 そんな非日常的な空間に住まう彼ならば、都合の悪い現実などさらりと無視して受け入れてくれるのではないか、と。

 ところがその彼が、よりによって自分が一番忌み嫌い誰が聞いても明らかに悪いと断言するであろうこの声に対して『素敵』などという皮肉を吐き出したのである。

 期待はあらゆる苦悩の元。そう言ったのは誰だったか。

 その言葉通りにミリの期待は打ち砕かれ、今や落胆へと変貌を遂げた。登った血は下りることなく胸の上に押し上げられたまま今にもじわりとどこかから零れ落ちてしまいそう。

 これ以上その場に止まれば泣くか喚くかしてしまいそうだった。


「ごめん………………っ!」

「え……?」


 堪えられなくなったミリは突然の事に呆けた表情を晒す男の子を残して部屋から逃げるように飛び出した。

 後ろから追ってくる男の子の気配を感じつつ砂防堰堤のところまで戻り、乗り越えようと飛び上がって手をかけたところである事に気付いてようやく動きを止めた。


(これ、後ろから追ってこられると登った時に見えちゃうんじゃ…………)


 誰もいないと思えばこそ乗り越えられた壁だったが、制服はスカートであり、スカートは壁を乗り越えるにはあまりにも向いていない。

 かといって今更退くことも出来ず、ミリは壁にぶら下がったままの状態で硬直してしまうのだった。

 そこへ砂利を踏みしめ駆け寄ってくる一対の足音。

 息を切らせて追いついてきた男の子は今にも行ってしまいそうなミリの体勢に呼吸を整えるのも忘れて声をかけて来た。


「待って! ハァ……フゥ……ごめん、何か気に障ったのなら謝るよ。ただ、羨ましかったから、わからなくて…………」


 これまでどこか余裕を見せていた男の子の支離滅裂な言葉に、彼の困惑が見て取れる。

 先程のやりとりを思い出しつつ男の子の言葉を理解するなら、彼はミリの声を羨ましく思った、という事だろうか。

 それはミリにとっては信じ難い話だったが、ひとつだけ思い当たる事があった。

 音精達の反応だ。

 今思えばさっき彼等がお祭騒ぎを始めたのはミリが歌い始めた辺りからで、男の子の伴奏に関しては音に反応こそしていたものの積極的に騒ぐといった感じではなかった。

 ミリよりずっと音精との付き合いが長い男の子にしてみれば羨ましいと感じても無理はないかもしれない。

 にも関わらず自分の歌声に自身を持てず、常にびくびくとしているように見えるミリが不思議で仕方なかったのだろう。


「あんなに音精達が騒ぐなんて今まで一度もなかったんだ。正直に言えば悔しいと思ったくらいだ。だから、そのせいで何か棘のある言い方になったのかもしれないと思って……」


 それで自分に非があったなら謝らなければと思って追いかけてきたという事だった。

 誠実な人だ、とミリは思った。

 悔しいと思った、なんて自分だったら口が裂けても言えないだろう。他人に対して弱みを見せる事にもなるし、ましてやそれを思わせた張本人に言うなんてあり得ない。

 あり得ないと思いつつもその誠実さを少し格好良いと感じてしまうのは、ミリの中にも出来るものならそうしたいという気持ちがあるからなのか。

 彼は誠実で、優しくて、そして正直な人だった。


「あ、でも君の声が素敵だって言ったのは本心だよ。悔しいからってそんな嘘つかない。確かに素敵っていうとちょっと違う気がするかもしれないけど、なんていうか……格好良い。そう、格好良い声だって言いたかったんだ。大人っぽくて格好良い声。ああ、なんだ。だからしっくりこなかったのか。怒らせるのも無理ないな」


 誠実で優しくて正直な人。その前提があった上で聞くと、それは最上級の誉め言葉のように響いた。

 格好良い、大人っぽい声。頭の片隅で物は言い様という諺がちらつく程度にはネガティブ思考を持つミリでも、それが嘘偽りのない言葉だというのは理解できた。

 そしてそれはこの二年近い間、彼女が心の奥底で待ち望んでいた言葉だった。

 誰かに……それが例えたった一人だったとしても、誰かに認めてもらいたい。そんな漠然とした想いが彼女の中に淀みのように存在して、けれどこれまで決して浮かび上がらないように押し込めてやり過ごしてきたのだ。

 だからこそ素敵と言われた時は皮肉にしか聞こえなかったし、それが嘘偽りのない本当の気持ちだったと知った今、嬉しくて仕方がなかった。

 許されるなら抱きついてキスの一つもしたいくらいだった。率直に、素直に、感謝の念を込めて。

 けれどこの時彼女にそれが出来なかったのは、恥ずかしかったからでも染み付いたネガティブ思考が故でもなかった。

 手を離し、後ろ向きに飛び降りればスカートが捲れ上がってしまうからだ。

 数年ぶりに向けられた自分への賛辞、しかもちょっと良い感じの異性から向けられたそれを、虫のように壁に張り付いて背中越しに聞く女子の姿は果たして『素敵』に映ってくれただろうか。

 複雑な想いで心が飽和した彼女は、男の子に降ろしてくれるよう泣きながら懇願したのだった。


 さて、男の子の手を借りてようやく地に足をつけたミリは再び部屋へと戻り、なんとも情けない心持ちでピアノの椅子に腰掛けていた。

 なんでこんな事になってしまったんだろう。元はと言えば自分のいじけた思考が招いた結果なのも忘れてそう思わずにはいられなかった。

 気まずい沈黙。

 男の子はミリの様子を心配そうにちらちらと覗き見ながらも話しかけるのが躊躇われて手持ち無沙汰そうに部屋の中をうろうろしている。

 彼にしてみれば良かれと思って伝えた嘘偽りない感想で急に泣き出され、逃げ出されたのだ。わけがわからなかっただろう。

 誠実な態度に対してはこちらも誠実な態度で返さねばならない。そう言ったのは小学校の先生だったか親だったか。

 もはや覚えていないが今がまさにその時だろう。少なくともこの気まずい沈黙を破る為には喋りたくないなどとは言っていられない。

 流石に男の子を直視して話すのはハードルが高いので目線は合わせないよう床を見つめたまま、ミリは初めて能動的に男の子の前で話し始めた。


「…………私ね、自分の声って大嫌いなの」

「へ?」


 突然の告白に男の子が間の抜けた声を上げる。

 その反応にミリは、やっぱりあいつらとは違うんだと密かに安堵しながら先を続けた。




 ミリは歌うのが大好きな子供だった。

 住宅街のど真ん中にある戸建ての賃貸住宅に住んでいたので大きな声で歌うと近所迷惑になるとよく母に怒られたが、それでも懲りずに毎日CDをかけてはそれに合わせて歌うくらい彼女にとって歌は生活の一部となっていた。

 同じ住宅地には同い年の女の子がいなかったので誰かと一緒に遊ぶという事があまりなく、それが彼女が歌にのめり込む原因ともなっていた。

 とはいえこの頃のミリは特に人付き合いが苦手という感じではなく実際学校では沢山の友達に囲まれて平和に日々を過ごしていた。

 中でも三年生に上がった時に同じクラスになったシホちゃんはピアノを習っていた事もあって特に仲良くなった。学校が休みの日にはわざわざ駅向こうにある彼女の家まで遊びに行って一緒に歌ったりピアノを弾いたりしていたほどだ。

 ミリの通っていた小学校は二年毎にクラス替えが行われるようになっていて、三年生になる時と五年生になる時にそれぞれクラス替えがある。

 これはなるべく多くの子と交流を持てるよう配慮されたもののようで、同じクラスから一緒になれるのはだいたい七、八人というのが常だった。

 ミリとシホちゃんは同じクラスになりたいね、などと言い合っていたがその願い空しく五年生になると別々のクラスになってしまった。

 

「あーもう、絶対同じクラスになれると思ってたのに……」

「うん~、残念だったね」


 ミリとシホは新学期初日の帰る道すがら、改めて違うクラスになった不満をぼやいていた。

 この日は始業式とホームルームがあっただけで午前中には下校となったので待ち合わせてこれからシホの家で遊ぼうという腹だった。


「全然残念そうに聞こえないんだけど?」

「いや、そんな事はないよ。残念だ。実に残念だよ、私は」

「嘘くさい」

「んふふ。ま、実際そう悲観したもんでもないさ」

「なんで?」

「クラス隣だから休憩時間でも遊びにいけるし、それにホラ、五、六年生には部活というものがあるのだよ」


 そう言って歩きながら指を突きつけるシホにミリは首を傾げる。

 確かにホームルームでも説明があったし、これまでにも五、六年生のお兄さんお姉さんが放課後に運動している姿を見ているので部活動というのがあるのは知っていたが、歌う意外にこれといって趣味のないミリにとっては体育と何が違うのかいまいちピンとこなかった。


「先生の説明聞いてなさ過ぎ。運動部だけなわけないでしょ」

「ふむ? まあ聞き流してたのは否定しないけど……というとお目当ての部活があるの?」

「あるの! あるんだよ! 私達にぴったりのが!」


 声のトーンを上げて言うシホの勢いにミリは身を引いてしまうが、ここまで言われればどんな部活か大体の予想はついた。


「もしやしてそれは、歌が歌える部活ですか?」


 同じ部活に入るのは前提として、ぴったりという言葉に期待を膨らませ問うミリ。

 しかし目を輝かせて顔を覗き込むミリに今度はシホが身を引く番だった。


「え、いや、それは~……どうかな~」

「えー」


 期待を裏切られ、肩を落として露骨に落胆してみせる。

 実のところそれほど落胆したわけではなく、それはただのポーズだった。運動部となると抵抗があるが、文化部があるのであればシホと一緒に入るのにやぶさかではない。

 そんなミリの心情を知ってか知らずか、シホは何故か自慢気に言った。


「活動内容までは知らないけど、なんと音楽部っていうのがあるんだよ」

「ほう……音楽部…………」


 中学以降の部活動の予行演習という側面の強い小学校の部活動故に細分化されたそのものズバリの名称をつけられないのかもしれないが、それにしても随分と含意の広いネーミングだ。

 名前だけで選べと言われたら歌をやりたい子も楽器をやりたい子も作曲も作詞も観賞も全部ひっくるめて音楽部に入ることになってしまう。

 とはいえ音楽系の部活はこれしかないと断言しているも同然なのでわかり易いといえばわかり易い名前だった。


「楽器やんなきゃダメなのかな?」

「わかんないって。でもミリちゃんだってピアノ弾けるじゃない」

「いやいや、シホ師匠に比べたら私なんて全然弾けないよ」

「私が今のミリちゃんくらい弾けるようになるまでどんだけかかったか教えてあげようか?」

「ちょっ、笑顔こわっ! 遠慮します~」


 こうして二人は一緒に音楽部に入ることにした。

 のだが…………。


「えっ!? 廃部?」

「………………らしいよ」


 そんな知らせが入ってきたのは新学期始まって間もなく。部活を何にするか多くの同級生達がまだ決めかねているような頃だった。

 詳しく話を聞くと、今年から新たに創設される部活動が音楽室を利用する為、元より部員の少なかった音楽部を廃部にしたらしい。

 無茶な話だが彼女達の通う谷内下やちもと小学校では部活動の管理運営は教師側が行っているので一生徒が口を出せるような問題ではない。

 それに元より含意が広すぎて活動内容がわからなかったのだから、新設されるのが音楽系の部活だというなら問題はないように思われた。


「それで、その新しく出来た部活ってどんなの?」

「ふっふっふ。それが聞いて喜べ。なんと合唱部だって」

「おおお~っ♪」


 シホから新しい部活の名前を聞いたミリは単純に喜んだ。

 普段は一人で歌っているミリだが合唱も好きだ。特に沢山の声が響きあうハモりの部分は自分と他人の声で内外すべての世界が振動している感覚に包まれて心地よい。

 シホにしても得意科目はピアノだが、それは自宅に練習室があるので学校でまで弾こうとは思っていなかった。

 二人にとってそれは正に渡りに舟だったのだ。


 しかし、入部するに当たっては一つだけ問題があった。

 それは新学期最初の音楽の授業の際、合唱部の顧問でもある音楽の上間先生自ら聞かされた。


「えー、授業の前に皆さんにお願いがあります。今年から始まる合唱部では夏の合唱コンクールに向けて一緒に頑張ってくれる部員を募集しています。本番まで練習時間は四ヶ月もありません。そこで異例ではありますが、これから皆さんに一人ずつ歌を歌ってもらって審査させてもらおうと思います。簡単に言ってしまえばオーディションですね。全員が歌い終わった後、部員になってほしい子の名前を読み上げるので呼ばれた子は授業が終わってから私のところまで入部するかしないかを言いにきてください」


 先生の唐突な発表に教室内がざわついた。

 本人も言っている通り、部活の顧問といえど授業中に部活の為の時間を割くなど異例もいいところだ。全員参加が義務付けられているとはいえ部活動はクラス単位で行われるわけではないのだから、関係のない部活を希望している生徒にしてみれば時間の無駄だからである。

 しかも部活動は本来生徒側が自身の自由な趣向によって選択するものにも関わらず、教師が斡旋しようというのだ。それも主観的な審査の上で。

 当然反発する生徒もいた。

 歌が苦手な者、人前で歌いたくない者、最初から合唱部に入る気のない者等々。

 けれど教師もそういう反応があるのは予測していたようで、小学生を誤魔化せる程度の詭弁は用意されていた。


「はいはい、静かに。合唱部に入ろうが入るまいが皆さんに歌っていただくのは変わりません。去年までの成果を見させてもらうので真剣に歌うように」


 つまり四年生までに学んできたことを踏まえて各自一曲歌い、それが今年最初の授業の評価対象になるという事だ。

 そしてそのついでに見込みのある子には声をかけて合唱部に来ないかと意思を問うわけである。

 そう言われてしまうと生徒達は授業の一環としてやらないわけにはいかなくなってしまうのだった。


 さて、そんな中、ミリはというと。


「オーディションだって」

「うん。やばい、わくわくしてきた」

「う~、歌より伴奏やらせてくんないかなあ」


 待ちきれない様子で自分の番を今か今かと待ち構えていた。

 出席番号順にクラスメイトが一人ずつ前に出て順番に歌ってゆく。ミリは七番目だった。

 名前を呼ばれ、平静を装いながら前に出て生徒達の方を振り返ると、自分に視線が集中しているのがわかる。

 その視線に身体の芯が震えるのを感じながら、ミリは教師の伴奏に合わせて歌い始めた。

 この頃ミリがよく歌っていたのは流行りのJ-POPが中心で、父親の影響で時々演歌などは歌うが学校で習うような曲は授業以外で歌うことはなかった。けれど音楽の授業は他の授業に比べても熱心に取り組んでいたし、それ故歌い方の違いも理解していた。

 姿勢を正し、お腹に力を入れて頭の先から声が抜けていくように意識して歌う。

 ミリが歌い始めると、それまで頬杖をついて聞いていた男の子も顔を上げ、彼女の歌を始めて聞いた女の子は感嘆のため息をもらす。

 それはまるで天使が歌う賛美歌のようだった。


 歌い終わり、伴奏が終わってお辞儀をするとそれまで起こらなかった拍手が教室内に沸き起こった。

 ミリはその賞賛を照れた笑顔で受けてから自分の席へと戻る。

 座る直前、隣のシホが机の下でサムズアップしているのが見えたのでブイサインで返してやった。

 それから授業は順調に進み、シホも難なく歌い上げて全員の歌が終わった。

 短い休憩の後、もうすぐ授業終わりのチャイムが鳴るという時間になって、ようやく上間先生はオーディションの結果を発表し始める。


「相沢くん、加藤さん、木村さん、笹原くん……|(中略)……村井くん、渡瀬さん。以上、名前を呼ばれた人はこの後、合唱部に参加するかしないか決めて先生のところまで来てください」


 自信満々で一字一句聞き逃さないように呼ばれる名前をチェックしていたミリだったが、上間先生の発表した中に彼女の名前はなかった。

 予想だにしていなかった事態に世界がぐにゅっと曲がるような感じがした。

 落胆の度が過ぎて動くのもままならないミリに、シホは自分が呼ばれた事もそっちのけで「何かの間違いだよ。ちゃんと先生に確認しよ?」などと言ってくる。

 けれど気分が沈んでいる時にそんな積極的に行動できるはずもなく、また自信満々だっただけにそんなみっともない真似はしたくないという妙なプライドも邪魔して、ミリはシホの手を振り払うように音楽室を後にした。


 放課後、いつもなら隣のクラスに寄ってシホと一緒に帰路につくところを、その日は何も告げずに一人で帰った。

 シホのクラスの方が先にホームルームを終えていたので、向こうも顔を合わせ辛くて先に帰ったのだろうと勝手に解釈した。


 それが間違いだったとわかったのはすぐ翌日の朝の事だった。

 登校の途中、二人の家のちょうど中間点のところでシホが待っていた。


「おはよう」

「………………おはよう」


 挨拶もせず気付かなかったふりをしてやり過ごそうとしたミリに寄り添うように並んでシホが挨拶をする。

 声のトーンからして少々御立腹のようだ。挨拶を交わしはしたもののシホはそれ以上何も言わずそっぽを向いて歩き、ただただ気まずい沈黙が流れる。

 ミリはその予想通りの反応に胃の痛む思いだった。


 昨夜は昼の事を思い出してなかなか寝付けず、布団の中で悶々と考えていた。

 そうして考えるうちに少しずつ冷静になっていったのだが、そうしてみると今度はシホに対して自分のとった態度は酷いものだったと自己嫌悪に陥った。

 一緒に入ろうといっていたのに一人だけ名前を呼ばれなかった事といい、その後のふて腐れた態度といい、思い出しただけでも恥ずかしさで顔が火を噴きそうになる。

 顔を見たら一番に謝ろう。そう思っていたのだが、予想していなかった待ち伏せに心の準備が追いつかなくて咄嗟に言葉が出て来ない。

 しかしこちらを気にしながらも決して自分から口を開こうとはしないシホの様子をみれば、ミリの言葉を待っているのは明らかだった。


(ええい、もう、仕方がない)


 言うべき言葉はまとまらなかったが、沈黙に耐えかねたミリは兎にも角にも謝ってしまおうと口を開く。


「あー、あの……さ、昨日は、ごめん」

「なんのこと?」

「いやさ、折角一緒にって誘ってくれたのに、私だけ入れなくて……」

「…………はあ?」


 謝った直後、シホの声から棘が立つ。

 その声があまりにも冷たく心に刺さって、ミリはビクリと身を竦ませた。

 続けようと思った言葉は喉の奥につまって出てこなくなり『あ』とか『う』とか意味のない音だけが漏れる。

 そんなミリの様子を見たシホは、洗濯物を畳んでいる時に父から髭剃りの在り処を訊ねられたときに母がするみたいに、深いため息を吐いた。


「ほんと、おバカ。そんなの間違った先生が悪いに決まってるでしょ。私言ったよね? ちゃんと先生に確かめようって」

「う…………言った……かも」

「かもじゃない」

「言いました」


 いつになく強い口調にミリは再び身を竦ませる。

 確かにそれも悪いとは思っていた。けれど今後の事を考えればより影響が大きいのはオーディションに落ちた事の方なのでそちらを先に謝ったのだ。

 第一、そのショックが大きすぎてシホへの態度が悪くなってしまったのだから順番は間違っていないはず。

 何よりこんな大事な事を先生が間違うはずもないわけで、落ち込んだところに『ちゃんと確認しよう』だなんて、シホも空気が読めていなかったのではないか。と、そこまで思考が走ったところで違和感を覚えた。


「ちょっと待って。先生が間違った?」


 未だ小言を続けていたシホの言葉を押しのけるように身を乗り出して問いかける。

 するとシホはそれまでの不機嫌そうな表情から一変、至極意地の悪い感じのする笑顔をつくってようやくミリと視線を合わせた。


「そ。友達の言う事を聞かずに去っていったうじうじミリちゃんの代わりに優し~い私が先生に聞きにいったら、ミリちゃんの名前も呼んだつもりだったって」

「うそ………………」

「ほんと」


 あまりの事にミリはぽかんと口を開けて呆けてしまった。

 頭の中には色んなものが渦巻いていたが何一つ形にはならず、代わりに胸の方からじんわりとこそばゆいものが込み上げるのを感じる。

 こそばゆさは乾いた紙を水に浸したように急速に広がって、居ても立ってもいられなくなったミリは周りに同じく登校中の生徒達が歩いているのも忘れてシホに飛びついていた。


「うわあぁぁっ、うわあああぁっ、シホちゃんぅわあああぁぁっ」

「ちょ、あぶなっ!」


 突然抱きつかれて受け止めきれず、よろめいたシホは道路と田んぼを隔てるガードレールにぶつかりそうになって慌てて手で支えた。

 そんな二人の横を低学年の生徒が数人、訝しそうに眺めながら通り過ぎてゆく。

 こうして二人は揃って合唱部に入部する事となり、コンクールへ向けて日夜練習に励むようになった。

 けれどこの時のトラブルが後にミリの心に暗い影を落とす事になる。




 さて、二人とも無事に入部となった合唱部だが、入ってみるとかなり特異な部活動であることが見て取れた。

 入部前のオーディションもそうだが、まずそうして集められた部員は全員同学年、つまり五年生だけで六年生は皆無だった。また、通常は時間割の中に組み込まれた枠でしか部活動は行われないにも関わらず毎日のように放課後の練習があって、他の生徒がほとんど帰って静まり返る中、音楽室からの歌声だけが校舎に響き渡っていた。

 さらに小学生の合唱としても珍しい点があった。

 コンクールでは課題曲と自由曲の二曲を歌う事になるのだが、自由曲は教師によってすでに決められており、その曲は合唱曲としては少数派のソロパートを含むものだったのである。

 ミリが立候補したのは言うまでもない。

 シホも立候補を募ったときには挙手していたのだが、教師が一人しかいない為に伴奏か指揮を生徒がやらなければならず、ピアノなら任せろとばかりに伴奏の方に回った。


 練習は、元々選りすぐりの部員達だった事もあり、上手くなるというよりは足並みを揃えるという方向で進められた。

 ミリは当初、この足並みを揃えるというのがどうにも苦手で先生によく注意されていた。

 自分では音楽の授業で合わせるのと同じようにやっているつもりなので理由がわからなかったが、そもそも求められるレベルが違ったのである。

 困ったミリは同じパートの子達に無理をいって個別に練習に付き合ってもらったりした。

 こういう時、同じ学年で統一されているというのは便利で、一度も同じクラスになった事のない子でもそれなりに顔は知っているし人によっては噂が聞こえて来る子もいて、親しくなるのにそう時間はかからなかった。何より歌うのが好きという点において皆共通していたし、その中でもミリはソロに相応しいと暗黙に認められていたのである。

 やがて彼等と練習を重ねるうちに全員で歌っていてもそれぞれの声を聞き分けられるようになり、その声に合わせて歌うというのを覚えてからはほとんど注意を受ける事はなくなった。

 こうして一人一人が自分の課題を見つけ、共に乗り越えては結束を深め、合唱部は着実に実力をつけていった。


 やがて月日はあっという間に過ぎ、合唱コンクール本番の日を迎える。


 ミリはその日、いや前日の夜から妙に落ち着いている自分に違和感を覚えていた。遠足の前日はうきうきして眠れないタイプのはずがいつもより早い時間にベッドに入り、ぐっすり眠って時間通りにばっちり目が覚めた。

 コンクールの会場である隣の市の文化会館に到着してホールの大きさに部員達が慄いている間も、まるで他人事のようにそれを眺めていた。

 ようやく実感が伴ったのは出番の直前。順番ひとつ前の学校の合唱が終わり、観客席から拍手が湧き上がるのを聞いた瞬間の事だ。

 袖幕の向こうから漏れ来るその音が波のとなって押し寄せ、巻き込まれたミリは引き潮にさらわれるが如く現実の海に引き戻された。

 気付けば硬く握り締められた拳は白く血の色を失くし、全身が空調とは別の冷たさに震えている。立っているのも覚束なくなり助けを求めてシホの姿を探すが伴奏者である彼女は並んだ列の最後尾にいて最前列のミリの様子に気付けるはずもない。

 せめてまともに歩けるようにと握ったままの拳で震える足に喝を入れるも、同時に出番を告げる上間先生の号令がかかった。


「さ、みんな行くよ。暗いから足元気をつけてね」


 メイン照明が落とされ薄暗くなった会場へ号令をきっかけに進み出した列は先頭のミリを舞台上へと押し出し、ふらつきながら進めた足はもつれ絡まってミリの身体が倒れこむ。

 バターンという盛大な音が会場に響き渡った。

 ざわつく観客席からは客席照明に照らされた人々の目が舞台上のミリを捕らえていた。

 ミリはすぐさま立ち上がり何事もなかったかのように歩いて自分の立ち位置に着いたが、もはや頭の中は真っ白だった。

 学校紹介のアナウンスが終わり、舞台照明が点灯し、教師が手を振って指揮をとり、シホの伴奏が始まっても、ミリの思考はまだ停止したまま、パート練習であれほど聞いた仲間達の声もどこか遠い世界へと行ってしまった。

 身体はずっと冷えたまま、それなのに何故か汗だけは大量にかいて余計に体温を奪い、喉はカラカラに渇いて声は涸れて上手く出てくれなかった。

 情けなくて申し訳なくて泣きそうになるのを堪えながらそれでも声だけは出そうと必死に歌って…………そうこうしているうちに、いつの間にか課題曲も自由曲も終わっていた。

 声が出ていたのかどうかもわからない。ちゃんと合唱出来ていたのかもわからない。自分がソロパートを歌ったのかどうかすらわからない。

 そうして惨憺たる記憶だけを残して、彼女の合唱コンクールは終わった。

 当然賞など獲れるはずもなく、ミリは責任を感じて涙を滲ませた。そんな彼女を責める者は誰一人としていなかった。

 その優しさだか恐れだかよくわからない仲間達の気遣いを感じ、ミリは思った。


(ああ、きっと先生は私がこうなるってわかってたんだ。だからシホちゃんに聞かれるまで間違ったフリしてたんだ)


 今後彼女に付きまとうようになるネガティブな思考はこうして生まれた。




 コンクールを目標としてきた合唱部だったが、新学期に入ってからも部の活動は続いた。

 様々な異例を積み重ねて無理矢理立ち上げたというのもあって上間先生は来年も挑戦するか否か部員達に決をとった。結果は満場一致で再挑戦だった。

 もちろん誰よりも後悔を残したミリも再挑戦に意欲を見せていたが、新学期に入ってから間もなく喉の調子を悪くしていた。

 最初は風邪かなと思ってあまり気に止めず、体調は悪くないので歌の練習も続けていた。

 ところが一ヶ月経っても喉の調子は良くならず、それどころかどんどん悪化しているのが自分でもわかった。

 遂には日常普通に喋るのにも支障をきたすようになり、心配した母に連れられて医者へ行くと、おそらく変声期だろうと診断された。


「無理しなければ自然と治るからあまり気にしなくて良いよ。ただししばらく歌はひかえた方がいいね」


 診てくれた医師はそう言って漢方薬を処方しただけだった。

 ミリはその桔梗湯という漢方薬については一日一杯必ず飲むようにしたが、歌をひかえるつもりは最初からなかった。

 この頃の部活は、まだ来年度の課題曲が発表されていないのもあって他の部と同じように週に二回の活動となっていたが、それとは別にミリは頻繁にシホの家を訪れては歌の練習を続けたのである。

 シホもミリの喉の調子が良くないのは気付いていたものの、彼女がコンクールの結果に責任を感じているのもわかっていたので止めたりはしなかった。


 やがて年が明け、声の変化も違和感ないほどに慣れ、自由曲も決まってさあこれからまた頑張っていこうと部が盛り上がり始めた頃だ。

 ミリは合唱部を退部した。


「どうしてっ!?」


 納得出来なかったのはシホである。

 これまで一緒に練習し、人一倍頑張っていたのを知っているだけに信じられなかった。


「ごめん、本当はずっと前から止めなきゃって思ってたんだ」


 シホは当初、自分と練習していたせいで喉が悪化したのが原因だと思った。

 それならしばらく休めばいい。喉をちゃんと治して、それから練習を始めたってミリちゃんなら大丈夫なはずだ。そんな風に説得しようと考えていた。

 実際、彼女の中でミリの評価はそのくらい高かった。

 幼い頃からピアノを習い、ピアノコンクールで賞をとった経験もある彼女だったが、ミリの歌には最初から白旗を揚げていた。

 センスが違うのだ。ミリの歌はピアノコンクールでいえば、ある年ぽっと現れて最優秀賞をかっさらいそのままプロのステージへ上がっていく連中と同じ……あるいはそれ以上とすら思えた。

 だからある意味でミリが歌に夢中なのを一番喜んでいたのはシホだ。彼女が夢中になるのがピアノだったならこんなに仲良くはなれなかっただろう。ピアノを教えたのも、歌以外で何か対等以上の関係を作っておかなければ一方的に劣等感を覚えるだけになると直感していたからだ。

 ピアノはシホにとって唯一のプライドの拠り所であり、それはミリがいなければ意味のないものだった。

 なればこそ彼女は必死だった。喉の事なら知り合いに声楽家の先生もいるから負担のかからない歌い方を習えばいい。それでダメならプロの歌手がかかるような有名な喉の医者を教えてもらおう。その人達だってミリの歌を聴けばきっと助けてくれるはずだと、ミリを説得する言葉が間欠泉のように勢い良く湧き出て頭の中をしっちゃかめっちゃかにかき回していた。

 けれどミリの語った理由はどうしようもなく単純で、現実的で、その癖シホの手の届く範囲を軽々と飛び越えたものだった。


「六年生になる前に転校するの。おじいちゃんの家に引越して……そんなに遠くないんだけど、学区が違うしこっちに通うのは流石に無理だからって」


 ミリの祖父の家――――つまり父方の実家は隣の学区の端の方に位置していた。

 今の小学校からは直線距離で約十キロ。彼女達の住まう市では卒業までの期間が二年を切ると越境通学といって別の学区から元の学校に通う許可が下りる場合もあるのだが、徒歩通学のみの学校でこれだけ距離が離れているとよほどの理由があっても許可を得るのは難しい。

 かといって引越しを先延ばしにするのも様々な事情から出来ない相談だった。

 もちろん本人は残りの期間だけでも部に残りたいと希望していたが、これは上間先生によって却下された。

 今後はコンクールに向けた練習がほとんどになってしまうし、そうなるとドクターストップで歌えないミリは辛くなるばかりだ。それだけならまだ良いが、人によっては歌わなくても頭の中で歌をなぞっているだけで喉に負担がかかってしまう事もあるのだ。教師としてはそんなリスクを負わせてまでミリを部に引き止めるわけにはいかなかった。

 こうしてミリの合唱部としての活動は終わりを告げた。


 その後のミリは音楽の時間であっても歌うことはなく、日常生活においても極力大声を出さないようにして喉を労ったが、喉はすでに安定期に入っていたようで以前のようなスッと抜けるように出る綺麗な声には戻ってくれなかった。

 それでも彼女が悲観せず普通でいられたのは、以前となんら変わりなく接してくれるシホや合唱部の仲間達のおかげだった。




 それを痛感したのは六年生になった新学期。

 転校初日の自己紹介での事だった。


「か、川原ミリです」


 担任の教師に連れられて初めて入ったドアの向こう、見知った顔ひとつない構造すら違う教室で、一クラス分の好奇の目に晒されながら、震えが伝わらないように身体を硬くして第一声で、まず全員の表情が固まった。

 自分達が何を聞いたのかわからないような、あるいは正体不明の――――だけど決して怖くはない――――何かに遭遇したようなキョトンとした表情だった。

 続いて教師が簡単な事情を説明して「短い間だけどよろしく頼むな」というのに合わせて、


「よろしくお願いします」


 とお辞儀したところで、まず男子の一部が笑い出した。

 笑いは伝染するように教室中に広まって、教師は予見していたように注意したが、周りが笑っている状況に調子付いた男子は「変な声、変な声」と節をつけて囃し立てた。

 女子の反応はといえば露骨に笑う者こそいなかったものの、半笑いで教師に追従する者、クスクスと忍び笑いを漏らす者、小動物の屍骸に向けるのと同じ目を向ける者と種々様々でミリはそこにこれまで少女漫画でしか見た事のなかった女子社会の片鱗が見えた気がして背筋の寒くなる思いだった。

 ホームルームが終わるとクラス中の子達が珍獣よろしくミリを囲んで質問攻めにされたが、声を出せばまた笑われると恐れたミリはひたすら黙って嵐の過ぎるのを待つしかなかった。

 貝のように口を閉ざし目も合わせず俯いている頑なな転校生にクラスメイト達はやがて飽きて一人二人と彼女の周りから離れていった。

 こうしてミリは独りとなり、いつの間にかクラス内には彼女を着かず離れず遠巻きにして笑う包囲網が出来上がっていった。


 それでもこの時はまだ希望を持っていた。

 クラスメイトにバカにされようとも授業中、最低限の質疑応答はしていたし、教職員の前では彼等との確執がバレないよういくらかの演技もしていた。

 同い年の子達の幼稚な行為に絶望しても彼女が希望を持ち続けられたのは、ひとえにシホのおかげだった。音楽の知識が豊富で自分よりもずっと音楽の世界に身を置いている彼女が、声変わりしてからもミリの歌を上手だと誉めてくれたから、ミリは自分にだけは絶望しないでいられたのだった。


 けれどもそれすら打ち砕かれる時がくる。

 それは夏休みが明け、二学期を迎えた九月のある日の事だった。その日は昼過ぎから五、六年生合同のレクリエーションが予定されていてクラス内は朝から浮き足立っている様子だった。

 朝から校長室に呼び出されるという稀有な体験をした彼女はそこで思いもかけない顔を見る。


「おはよう、川原さん。元気にしてた?」


 上間先生だった。

 わけがわからず話を聞くと、今回のレクリエーションの時間に合唱するために来たのだという。

 それ自体は全くの偶然だったが折角ミリがいるのだから去年の体制でも歌わせてやりたいという上間先生の要望を受け、こうして校長直々の呼び出しとなったわけだった。

 ミリはその配慮に感謝した。

 けれど引き受けるにあたっては問題があった。それが解決されなければ参加できないというほど切実な問題だ。

 ミリは折角の皆との再会のチャンスを棒に振る覚悟でその問題について上間先生に相談した。




 一人、クラスから離れて人気のない廊下を歩くのはドキドキする。その先に嬉しい事が待っているなら尚更だ。

 校長室を辞したミリは一旦教室へ戻りホームルームに参加した。

 ホームルーム中に担任の先生からクラスへ説明があり、終わるとミリは担任に連れられてみんなが待機しているという視聴覚室へと向かった。

 視聴覚室の前までミリを送り届けると担任は彼女を残してクラスの方へと戻っていった。もしかしたら気をつかってくれたのかもしれない。

 ミリは高鳴る鼓動を抑えようとドアの前で深呼吸を繰り返す。

 鼓動は治まらないまでもそうやって心の準備を整えようとしたのだ。思えばコンクールの時はこういう準備を疎かにしたせいで失敗してしまったのだろう。

 あの失敗を繰り返さぬよう、ミリはミリなりに考えてちゃんと学んでいたのだ。

 それが上手くいかなかったとしてもきっと彼女のせいではない。

 目を閉じ深呼吸するミリの耳に、突如ガラッというドアが開くような音が聞こえた。

 何事かと思って目を開けると、すぐ目の前にシホの顔があった。


「あはは。やっぱりミリちゃんだった。何やってんの? 早く入りなよ~」


 久しぶりに会ったというのにシホは何も変わっておらず、いつも顔を合わせていた頃と同じ調子でミリを部屋の中へと引き入れた。

 視聴覚室の中では、まだほんの数ヶ月しか経っていないというのに随分懐かしく感じる仲間達が幾分たくましくなった顔を揃えている。

 皆、一様にミリとの再会を喜び、上間先生が号令をかけるまで、短い言葉を交し合った。

 けれど彼等の今日の目的は学校交流という名の発表会だ。下手なものは聴かせられない。


 そう、下手なものは聴かせられないのだ。

 発声等諸々の準備の前に、教師は全員を前にして本日の編成について話し始める。


「みんな懐かしい顔を見てノスタルジーに浸ってる場合じゃないよ。学校交流会といえどお客さんの前で歌うんだからね。少しでも楽しんでもらう為にいくらか演出も考えないといけない。そこで、まずは今年の課題曲『悠壮』と自由曲『虹』を二曲立て続けに歌う。それから本日のスペシャルゲスト川原さんに登場してもらって、去年の課題曲『刻きたりなば』、最後に『あなたに』とします。ただし『あなたに』のソロパートは練習量の問題から川原さんが辞退したので誰か他の人にお願いしたい」


 上間先生の言葉に部員達がざわめいた。見ればどの顔も予想だにしていなかったという表情だ。

 しかし考えてみればわかる事だ。退部して以降合唱など全くしていない(授業中は口パクで誤魔化した)ミリと、その間もコンクールに向けて練習を重ねていた部員達ではそもそも錬度が全く違う。

 今回の彼女はあくまでも外部のゲストという扱いであって、もはや部員ではないのだ。その彼女に全体の印象を左右するソロパートを任せるなどできようはずもない。


 というもっともらしい理由を並べて、今朝ミリは教師にソロの辞退を申し出た。

 教師もその点と、彼女の喉の問題も合わせてどうすべきか決めあぐねていたようで、本人がそれで良いならと快諾された。

 本当はただ、今の声で歌うのをクラスメイトに聞かれたくない一心だったミリは胸を撫で下ろした。


 ミリの代わりにソプラノから選出されたソリストは驚いた事にシホだった。

 ミリの抜けた穴を埋めるようにシホは今年のソリストを務めており、伴奏には教師が入っていた。教師の変わりの指揮は男子が務めている。

 そうして何事も無く始まった発声練習に、遅まきながらミリは少し寂しくなった。


 準備と確認が一通り終わる頃、狙ったように来た担任教師の案内で合唱部は体育館脇まで連れられ、そこで出番を待つ。

 その間に少しだけ時間があったのでミリは小声でシホと話した。


「まさかシホちゃんが伴奏やめるとは思わなかったよ」

「まあ、意味もなくなったし。どんなもんかなあって立候補したらライバルがいなかっただけだよ」

「どんなもんかって……ソロ?」

「ん。というかあの会場で一人で歌うってのがね」

「……………………どうだった?」

「うん。まあ、コンクールなんだなって感じ。あれは…………うん。そう、コンクールなんだよね」


 シホが何を思って言っているのか、ミリにはよくわからなかった。

 わかったのは彼女には彼女の考えがあって、そのために行動しているのだということ。以前から知っているはずのそんな事を改めて思い出させられた。

 他にももっと話したい事はあったが、出番が来たらしくシホ達合唱部は一足先に体育館の中へと入っていった。

 続いて聞こえてきた歌声はミリが覚えているよりもずっと力強くなっていて、みんなの一年の努力が透けて見えるようだった。


 最初の二曲が終わると生徒達の拍手が聞こえて来る。

 それから校長の長いMCが入った後はついにミリの出番だ。

 袖幕に控えて紹介を待ち、呼び込みの合図に合わせて登壇する。

 生徒達が整列して座っている前で上がる体育館の舞台上は思っていたよりずっと高くて、社会科の教科書で見たビル建設の労働者の写真にあった超高層ビルの鉄骨の上を平均台にして歩いているような覚束なさを感じた。

 指示された所定の位置――――コンクールの時と同じ舞台上手の一番端――――につき、指揮の男子に目線で準備完了を伝える。

 指揮者は頷くと全員に向けて両手を構え、そこに向けて部員の意識が集中するのがわかった。

 そして課題曲が始まった。


 以前の彼女ならば上手くなった今の合唱部に混ざり歌うのは、簡単ではないにしろやってのけただろう。むしろ難しいからこそ意欲を燃やしたかもしれない。

 けれど変声期に酷使しすぎた彼女の喉はコントロールするのが難しく、頭で思っている音程と出てくる声に著しい乖離がある。

 かといって学校交流の場で他校からのゲストとして参加する以上、口パクで済ませるというのも誠意がない。

 考えた末、彼女は音の頭を完全に捨てる事にした。

 思い描いた音程で声が出ないなら、耳で聞いて合わせれば良いというわけだ。

 そうして歌いだしてみると、これが存外に上手くハマった。

 口の動きはなるべく揃えるように気をつけつつ歌い出しをみんなより少し早くして極々小さな音から入り、わずかな時間の間に音程を調整してみんなの歌いだしに合わせて音量をだんだん上げていく。

 当初はそうやって自分の思い描いた音だけが客席に届くよう何とかコントロールしていた。

 けれど途中でふと気付いて、みんなが歌い出した後にもう一段階、声を合わせるようにすると、一気に震えるのがわかった。文字通り、音が、身体が、空気が、会場である体育館全体が心地よく震えたのだ。

 彼女にとってこれは大きな発見だった。

 たぶん他の部員達も同じ感覚は感じていただろうし、それはミリがいようといまいと関係なく合唱をやっていれば感じる一体感のようなものかもしれない。事実、ミリもかつては同じ感覚の中にいた。あれは周りの声を聞いてそれに合わせるのを覚えた頃からだっただろうか。

 けれどそれと今回のそれはミリの中でまったく違う意味合いを持っていた。

 言ってみれば『人』に合わせるか『音』に合わせるかという違いだ。以前は声を聞くことで『人』に合わせたわけだが、今回は音程を聞くことで『音』に合わせ、しかも同じような効果が得られたのだ。

 ミリは世紀の大発見をした科学者のような心持ちで、何度も何度もその感覚をくり返し味わった。

 調子に乗ったミリは基準になるみんなの声より少し大きくしたり弱くしたりと変化をつけてより共鳴するところを探したりもした。

 そうしているうちにあっという間に課題曲は終わり、ミリは心地よい高揚感の中で初めて観客席の生徒達の顔を見る。

 なんだか自分の方に視線が多く集まっているように思えた。

 その瞬間、歌っている間は夢中になって忘れていたクラス内での自分の立場を思い出し、それまで感じていた高揚感は一気にしぼんでマイナスまで落ち込んでしまう。

 同い年の指揮者はそんなミリの様子に気付けるはずもなく、続けて自由曲が始まった。


 ミリはすっかり意気消沈して観客席の、特にクラスメイト達が座っている六年生の辺りの反応を窺っている。

 伴奏が終わって最初、この曲はソプラノのソロパートから始まる。

 聴き慣れたシホの伸びやかな声でかつて自分の歌っていたソロが歌われてゆく。

 複雑な想いが去来する中、ミリの目にざわざわと動くものが見えた。

 なにかと思ってよく目を凝らすと、クラスメイト達がシホとミリを交互に見ながら何事かを囁きあっているのがわかった。


(なんだろう?)


 気にはなったものの、確かめる術があるわけもなく、ただただ膨らもうとする嫌な予感を満杯の旅行鞄よろしく押し込めて蓋をし、始まった自由曲に集中した。

 それでも不安は首をもたげ、その度毎にひっくり返ろうとする声に悪戦苦闘しながら歌っていると、課題曲の時の一体感はどこへやら、終始か細い声で聞こえないよう声を出すのが精一杯だった。


 合唱部の歌が終わり、舞台袖から体育館を出ると、それで交流会は終了だった。

 みんなは一旦学校に戻ってから解散となる為、すぐに出発しなければいけないようだった。

 ミリもここからはこちらの学校の生徒として教室に戻りホームルームに参加しなくてはならない。

 短い別れを惜しみ、新しく携帯を購入した子からメモをもらったりして、一人仲間達の元を離れ校舎への渡り廊下を歩く。

 それは実際に転校すると決まって、二度と一緒に歌えないと思った日よりも、ずっとずっと別々になるという事実を実感させられる別れだった。


 キュウキュウと締め付けられる心を抑え、感情と共に未練を振り切って校舎に入ると、すぐ近くの教職員トイレの前に人が数人立っているのが見えた。

 にこにこと張り付いた笑顔でこちらを見つめるその顔はクラスメイトの中でも特に噂好きで知られた湯月才華とその友人達だ。

 ミリはなるべく関わらないように横を通り過ぎようとしたが、待っていたように声を掛けられて動きを止める。


「おかえり~、川原さん。今日一日大変だったね」

「いや、歌ってりゃよかったんだからむしろ楽だったでしょ」

「あ、そっか~」


 白々しい会話で当て擦ってこちらの様子を窺ってくる。

 普段なら絶対相手にしないのだが、他のクラスはすでにホームルームが始まっているのか、教室のない一階の廊下には人影もなく、道を塞ぐように立たれては無視して行く事も出来そうにない。

 ここで「なんの用だろう?」などと考えるほどミリの頭も暢気ではない。彼女等もミリの声を嘲り笑っているクラスメイトの一員なのだ。このタイミングで来るとしたら先程の歌を笑いに来たに違いない。

 腹は立つが先程は確かに調子に乗り過ぎたと反省していたミリは甘んじて受けようと覚悟を決めて次の言葉を待つ。

 けれど湯月が次に口にしたのはちょっと予想していなかった言葉だった。


「私、今日すんごい楽しみにしてたんだよ。滅多に喋ってもくれない川原さんが歌うっていうからさ。それも県大会で歌った合唱部で…………ソロパートをやるって聞いてさ」


 こいつらホームルーム遅れてもいいのかな~などと考えながら聞き流してさっさと終わらせようとしていたミリだったが、最後のところで顔を強張らせてしまった。

 なぜ彼女がそんな事を知っているのか。先生から聞いた? いや、でもそもそも公開コンクールなんだから誰が知っててもおかしくは……。まさかこの学校にアレを見た奴がいるのか? 色々な可能性に思い至って頭を抱えたい気分になる。

 反応が得られると調子に乗るのがこの手の人間の常というもので、御他聞に漏れず彼女もミリの反応に気分を良くし、友人を従えて話し始める。


「それが全然知らない子が一人で歌ってるんだもん。がっかりしたよ~」

「あんまり上手くなかったしね」

「あ、それ思った」


 自らの失敗を取り戻さんと感情を抑え反応しないよう身を硬くするも、どうにも上手くいかなかった。

 身の程を知らない愚物達の見当外れな中傷を大切な友人に向けられ、怒り全身の毛が逆立つ。

 それでも今後の学校生活を考えて身じろぎ一つせず堪えるミリの姿に、湯月はますます調子づく。


「あの歌ってた子も転校して離れ離れになった仲間と折角一緒に歌ってんだからさ、花持たせてやりゃいいのにね」

「あー、ね。お呼びじゃないってのわかんないのかね」

「目立ちたがりっぽかったし、無理じゃない?」

「だね~。本当、残念だわ~。あんたの声が聞けなくて」


 キャハハとわざとらしく笑って見下してくる。

 限界だった。

 自分の事を笑われるのは慣れていても、友達の、しかもこれほど的外れな悪口を聞かされるのは我慢がならなかった。

 頭に血が登って今にも叫び出しそうになる。

 しかしミリが口を開きかけたその時、別のところから声が聞こえた。


「おい、そこで何してる?」


 男性教員の声だった。

 湯月以下二人の取り巻きたちはその声にびくりと身を竦ませて後ろを振り返るが、声の主らしき姿は見当たらない。

 代わりにそこにいたのはミリのよく見知った顔だった。


「シホ…………ちゃん?」


 正面玄関の影に隠れていたが、それは紛れもなくシホだった。

 しばらくすると彼女の目の間にある階段から声の主と思しき男性教員が姿を現してシホに駆け寄る。

 どうやら注意を受けたらしいシホは男性教員に頭を下げてそのまま厳寒から外へ駆け出していった。

 その様子を呆気に取られて見ていたミリだったが、今の一連のやりとりをシホに聞かれていた事に気付き、全身から血の気が引くのがわかった。

 あんまり上手くなかった――――目立ちたがり――――お呼びじゃない――――あんたの声が聞けなくて――――


(聞かれてた? あんな愚にもつかない悪口を? 私……黙って聞いてた……のも……見られ……た…………?)


 それは自分で招いた悪果だった。

 自分の歌に驕って合唱部に無理矢理入れてもらったにもかかわらず、重要なパートを引き受け、無理した挙句喉を壊して退部。再会してみれば声を聞かれるのが恥ずかしいからとソロを押し付け、普段の態度で怒らせてしまったクラスメイトに関係のない友達まで中傷され、自分は保身の為に黙ってそれを聞き流していたのだ。

 最悪だった。

 もはや立っていられないほど血の気の引いたミリの頭は世界をぐらぐらと揺らして気分まで悪くする。 

 気付くと男性教員のいる正面玄関を避けるように姿を隠そうとしている湯月の肩をひっ捕まえて思いっきり頬を張っていた。

 パァンッという小気味の良い音が廊下に響いて、逆上した湯月と小競り合いをしていると男性教員に引き剥がされた。


 それからお説教をくらって教室へ戻されたミリは、翌日から徹底的に無視されるようになり、彼女もまた学校で口を開くことは一切なくなった。




「ってな事が、あー、そか、もう一年経つのか。去年あったわけだよ」


 一通り話し終わり、ミリは茶化すようにわざと明るい声でおどけて見せた。


「やっぱり君は歌が大好きなんだね」

「いや大事なのはそこじゃないんだけどな…………」


 長く話した割に趣旨を全く理解されていないようで、ミリは少し恥ずかしくなる。

 考えてみれば今日初めて会った男の子にこんな身の上話を長々と聞かせるなんて普通は考えられない話だ。 

 けれど少しだけすっきりした気分になっている自分にも気付いていた。誰かに聞いてもらいたかったのだろうか。

 ともあれ長く話していたせいですっかり喉が渇いてしまっていた。

 ごほっと思わず咳をもらすと、男の子は「あっ」と何かに気付いたように声をもらして棚の辺りでごそごそやると紙コップに暖かいお茶を出してミリに寄越した。

 不思議に思って今何かやっていた棚を見ると運動会なんかで使われるタンク型のでっかい水筒があった。


(はて。あんなものさっきまであったっけ?)


 疑問ではあったが喉の渇きはただでさえ出しづらいミリの声を余計に出づらくしてくるので、ありがたくいただいた。

 香りを嗅いで見るとそれは今までミリが飲んだことのないハーブティーのようだったが、案外においしくてあっという間に飲み干してしまった。

 男の子は黙ってミリに手を差し出すと空になったコップを受け取ってもう一杯お茶を入れてくれた。

 コップにお茶の跳ねるチャパパパという音を聞くと、ミリはつい、あの音からはどんな音精が姿を現しているのだろうかと想像してしまう。

 それからしばらくは男の子とぐだぐだと話をした。


「この子達って声からは出ないんだね」

「そういえばそうだね。まあどんな形のが出てくるか気にはなるけど、自分の口からこんなのが一々出てきたらちょっと喋るのをためらうだろう?」

「あはは。それは、うん、ためらうね」

「けど、声にはすごく反応するんだよね。僕のもだけど、特に君の声にはすごく反応が良いっていうか、集まろうとする、のかな」

「集まる?」

「そう、声に音精がないからはっきりとはわからないけど、君の声が反射したところからふっと音精が現れて引き寄せられていくみたいな、そんな風に見える」

「ふうん。そうなんだ。私はそれよりもさっき貴方がやってた、手も触れないで音精にピアノを弾かせるっていうのの方が気になるよ。どうやってるの?」

「う~ん、そういえばマエストロも最後まであれは出来なかったな」

「え、誰?」

「ん? マエストロ? この小屋を作った音楽家だよ。今は東京へ行っていないけどね」

「そっか。どんな人なのかちょっと会ってみたかったなあ」

「変人だよ。こんな場所で嬉々としてピアノ弾いてるんだから。でも、こいつらに命を吹き込んだのもマエストロだったな」


 ふいに、男の子が寂しそうな顔をして座り込んだ床から針金でつくったヒトガタのような音精を掬い上げる。

 その音精は男の子の腕の上を駆けて往復すると水に飛び込むみたいにして床の中へトプンと音を立てて消えた。その様をミリは不思議そうに眺める。

 ピアノの時も思ったのだが、彼の周りではミリの時より音精の性質が違っているような気がするのだ。

 今も現れた時は床から特に音はしていなかったし、ピアノの時などは音の前に自ら姿を現して音を鳴らしていたのだから。

 その事について単刀直入に聞いてみると、彼は一瞬だけふっと何かを思いついた表情を見せたと思うとすぐに笑顔を浮かべて説明してくれた。


「音精との関わり方には個人差があるんだよ」

「関わり方? ってどういう事?」

「ん~、これは受け売りなんだけど本人の音楽観というか、音との関わり方によって音精の性質とか反応が変わるらしい。僕のこれや君の声に対する反応とかね」


 そういいながら男の子は再び床から音精を引き出して見せる。今度はたけのこみたいな形をしたやつで、彼が引き上げる手に合わせて成長したかと思うと、手を引き下げれば今度は縮んでやがて床に手がつくのと一緒に消え、最後にスネアドラムのようなトゥーンッという高い打撃音を残した。

 ということは彼の場合、音精はまず姿を現して自分を構成する音を自ら鳴らすという性質になっているという事だろうか。


(なんだかすごく便利そうだ)


 ミリは目を輝かせて、尚もいくつかの音精を呼び出しては戯れる男の子を羨望する。

 その姿はなんというか、すごく懐いた子犬たちと遊んでいるみたいな感じで、まるっきり音精が生きているように見えた。


「私もそんな風に出来たらなあ」

「うん? 僕は君の方が羨ましいけどな。反応が良いっていうのはつまり音精に好かれてるって事だよ」

「そうかなあ」


 男の子の言葉にミリは懐疑的だった。

 ミリの中では音精は音そのものが形をとったものという認識だった。その音精が自分を好いているとは到底思えない。

 自分が音に好かれているなんて――――――。

 そんな彼女の心情を見抜いてか、男の子は床から立ち上がるとミリの座っている方に近づいてきて、ピアノの鍵盤をひとつ、ぽーんと叩いた。


「試しにちょっと歌ってみてよ」

「え…………」


 突然の事にミリは動揺してしまうが、男の子は構わず続けて鍵盤を叩く。

 曲はミリもよく知っている童謡の『赤とんぼ』だ。

 あわあわしながらも反射的に頭の中には赤とんぼの歌詞が巡り、男の子の叩くピアノに合わせて歌を紡ぐ。


「……………の~、あかと~ん~ぼ~、おわれ~てみたのおはあいつのおひいか~」


 歌い始めるとピアノから出てきた音精がミリの周りを踊るように回って螺旋階段を上がるように天井の方へ向かって消えてゆく。

 時折、ミリが音を外したり声がかすれたりすると、その度に音精は軌道を変えて落ちたり、あるいはスピードを落として消えたりもするのだが、その様は概ね生き生きとして、自由に楽しそうに宙を遊んでいるように見えた。

 演奏が終わっても尚しばらくの音の余韻に乗って間くるくると漂う音精の姿は確かに楽しそうだった。

 それが完全に姿を消して静寂が降りると、男の子はミリを見ながら唇の前に人差し指を立てて再び演奏を始める。

 音を立てないように注意しながらその演奏に耳を傾けると、それは…………なんというか、酷いものだった。

 同じメロディをなぞっているはずなのに、テンポは悪く、リズムは崩れ、音は下品で調子っぱずれ。よくぞここまで酷くできるものだともはや感心するレベルだ。

 そのノイズに耐えつつピアノから出る音精に目をやれば、先程は螺旋を描いて優雅に舞っていたその姿が、一変して山菜のゼンマイみたいにとぐろを巻いてうなだれ、しょぼくれているのが見て取れる。

 その様子をミリが確認すると、男の子はようやく酷い演奏をやめて普通にメロディを奏で始めた。

 そうすると今度は巻いていたとぐろを伸びをするみたいにンーッと伸ばして真っ直ぐ立ち上がり、音に合わせてポンっと跳んだかと思うと放物線を描いて再びピアノの中に消えてゆく。

 それはそれで楽しそうではあったが、どことなく機械的で、先程ミリが歌った時のような生き生きとした感じはないように思われた。

 演奏が終わり、余韻に遊ぶ間もなく音精が姿を消すと、男の子はミリに向かって感想を尋ねてきた。


「どうだい? 思った以上に反応が違ってただろ?」

「確かに…………」


 わざと酷く演奏した時はともかくとして、普通に演奏してもあんなに反応が違っているとは思わなかった。

 カエルの歌を歌った時はまだ音精自体が物珍しくて、ああいうものなんだと思っていたが、今の反応に比べたらなんと楽しそうでなんと生き生きしていたことだろう。

 音に好かれている云々は男の子の贔屓目にしても、少なくとも音精がミリの声に強く反応するというのは確かなようだった。


「で、それを踏まえてなんだけどさ…………」

「うん!? なに?」


 何かよくわからない正体不明の音精だが、あれほど嫌っていた自分の声がちょっと認められたような気がして密かににやけていたところに声をかけられ、ミリは慌てて顔を取り繕う。

 すると男の子はさっきまでの率直な態度はどこへやら、急にもじもじとしはじめてためらい勝ちにミリにある提案をしてきた。


「君が歌うとこいつらも喜ぶし、反応が素直だから失敗した時とか気に入らない時とかも、すぐわかると思うんだ。わかり易いというか、客観的に見られるというか…………」

「うん?」


 言っていることはわかる。音精の反応は本当にダイレクトで、間違えばもちろんすぐにわかるし、自分ではわかりにくい音とかリズムのズレにも独特の表現で反応してくれる。

 そう思うと、ここは歌の練習をするには最適なのではないかと思えてくる。

 そして正に男の子の言いたいのも、つまりそういう事だった。


「君さえ良ければ、なんだけど…………また、ここに来て歌ってくれないだろうかっ」

「いいよ~」


 あっさりと、ミリは男の子の提案を受け入れて返事を返した。

 あまりにあっさりとし過ぎて言われた男の子はぽかんと呆けてしまう。

 その様子にちょっと笑ってしまいながらも、ミリは改めてこちらからお願いする事にした。


「というか、こちらからお願いします。時々でいいので、ここを使わせてください」

「あ……えっ、いや、もちろん。よろこんで!」


 何故かひどく喜んでくれる男の子に、思わず苦笑してしまう。

 そうしてミリは自然に、自分の方から進んで、男の子に手を差し出していた。


「川原ミリ。よろしくね」

「えっ、あ、うん。僕はレント…………鷲住錬人わしずみ れんとだ。よろしく、ミリ」


 少年は少し躊躇したものの、両手で包み込むようにミリの手を握り返し、二人は握手をした。

 お互いに少し顔が赤くなっていたのは改まった自己紹介に照れくささを感じていたからか、はたまた別の理由か。

 どちらからともなく手を離し、変な沈黙が降りた時にはミリの鼓動は随分早くなっていた。

 ドキドキ、ドキドキ…………


(ああ、いけない。握手なんて久しぶりで変に意識してしまった)


 平常心を保とうとするが、考えれば考えるほど意識してしまってなかなか鼓動は収まってくれなかった。

 顔も熱くなってきたミリは外の空気を吸って冷やそうとドアを開けて外へ顔を出す。冷たい外気が部屋へ雪崩れ込み、火照った顔をひんやりと冷やしてくれた。

 その気持ち良さに浸りながら、ふと回りを見回すと、小屋へ入る前とは打って変わって随分薄暗くなっている事に気付く。

 ミリはふと時間が気になって制服の内ポケットから携帯電話をとりだした。

 ボタンを押して画面を表示させるとデジタル時計はすでに午後五時過ぎを示していた。


「やばっ…………!!」


 予想外に過ぎていた時間に思わず声を漏らして携帯を懐に収めると、


「ごめん、時間やばいから帰るね。近いうちにまた来る」

「あ、うん。鍵はいつでも開いてるから」


 そう言葉を交わすと慌てて外へ出ようとするミリに、男の子は慌てて声を掛ける。


「帰るならそこまで送っていくよ」

「え? いや、別に大丈夫だよ?」

「いや、でもアレ越えなくても来られる道があるから、一応教えとく」

「な…………なんですと?」


 男の子が指差してアレと言ったのは、砂防堰堤の事だった。

 

 一緒に外に出て、庭園を斜面の森に沿って歩いて見れば、茂みにぽっかりと隙間が開いていて上の禿山の方へ出られるようになっている場所が確かにあった。

 獣道というより人が意図的に作った抜け道らしくちょうど人一人通れるだけの広さで、登るのにすべらないようわざわざ段差まで拵えてあるようだ。


「上にあがって広いトコに出たらあとは下れば道路に出られるから。すぐに暗くなるから気をつけるんだよ?」

「あー、うん。なんか…………うん。脱力したわ。教えてくれてありがと。またね」


 悟りでも開いたような微妙な表情になって抜け道に入り斜面を登って禿山に出れば、確かに眼下に舗装された山道のアスファルトが見えた。これなら制服を汚す心配はしなくて良さそうだ。

 振り返ってみればまだこちらを見送っている男の子に手を振り、禿山を下る。それから道路へ出ると一旦砂防堰堤のところへ戻って自転車と鞄を回収し家路へついた。




 家へ帰ると庭の隅に白くて小さな母の軽自動車がすでに停められていた。

 こんなに遅くなるとは思っていなかったので一抹の不安を覚えつつも、一日サボった程度でバレはしないだろうと高を括って堂々と玄関から入り「ただいまあ~」と声を掛ける。

 すると、この時間いつもなら台所で夕飯の支度をしているはずの母が二階の自室から現れてミリを出迎えた。


「おかえり。どこ行ってたの?」

(やばい、声が座ってる)


 その一声だけで自分の置かれている状況が理解できた。どこからか学校をサボった事がバレたのである。

 靴を脱ぐ間もなく始まったお説教に馬のように耳を傾けて聞けば、どうやら昼間に学校のクラス担任から電話があったらしく、それを祖父が受けて母に伝えたらしい。

 玄関に立ったまま長々と一時間以上も説教を受け、二度としないよう約束させられた。


 ようやく開放された頃には日もとっぷりと暮れてもう真夜中のように暗くなっていた。

 一時間程度でこんなに暗くなるとなると、これから本格的な冬を迎えるこの季節、五時前にはあの小屋を出ないと真っ暗闇の山道を歩くはめになりそうだ。

 夏場に懐中電灯を持って家族みんなで歩いてすら怖い道なのに、止まれば消える自転車の頼りないライトで一人歩くのは勘弁願いたい。

 そんな風に思考を巡らせて、全く懲りていない自分に苦笑う。


 不思議な体験だった。

 森の中の舗装されていない道路へ分け入り、立ち塞がる巨大な壁を乗り越えて先へ進んでみれば、見知らぬ男の子と出会い、隠された秘密の小屋へ誘われ、そこで音精という珍妙な生物たぶん

を見つけて、久しぶりに人前で歌を歌った。

 こうして羅列すると童話か何かのようだ。

 けれど童話と違うのは、一回読んで終わりじゃなく、これから何度でも訪れられるという事。

 そう考えると小屋にいた時の高揚感が戻って来るようで自然と顔が緩んでしまう。自分が気持ち悪い笑顔を浮かべているのを自覚したミリはそれを隠すようにうつ伏せにベッドに飛び込んだ。

 枕に顔を埋めて落ち着くまで待つと、今度は寝返りを打って仰向けになる。

 階下から母が料理をするトントントントンという小気味良い包丁の音が聞こえてきた。


「お腹空いた…………」


 次は何か食べ物を持って行こう。あ、でも学校がある日は給食の後か。放課後だと行ってもすぐ帰る感じだなあ。

 そんな事を考えているうちに、うとうとし始めたミリは色々なことがあって疲れたせいか、そのまま眠りに入った。

 夕飯で起こされるまで続いたその眠りはミリにとって久しぶりに深く心地よい眠りだった。




 翌日、ミリは小屋に行きたい衝動を抑えて重いペダルを漕ぎ、学校へ登校した。

 ミリの通う井ノ松中学校は神上小学校と広岩小学校という二つの小学校の卒業生がエスカレーター式に進学する地元の公立中学校だ。

 当然同学年の半分はミリと同じ神上小学校から上がって来た同窓生で、ミリは中学校でもやはり無視される対象となっていた。


(自業自得…………なのかなあ)


 授業合間の休憩時間、クラスメイトが仲良しグループにわかれて楽しそうに話している姿を横目にぽつんと孤立した席で独りごちる。

 中学校に進学した当初、エスカレーター式とはわかっていてもミリはほんの少しだけ期待を持っていた。

 中学の一学年は五クラス。六年生の頃のクラスメイトが三十人強とすると同じくクラスになるのは大体五、六人だ。その中に積極的にミリをからかい、除け者にしていた数人がいなければ中学校生活を楽しく送る事が出来るかもしれない。

 しかしそんなミリの期待は新学期初日にもろくも崩れ去った。

 よりによってミリに一番からんでいた湯月才華が同じクラスに居たのである。

 以来、すでに半年以上。ミリは物言わぬ生徒……要は問題児として学校に通い続けていた。

 そんな生徒が連絡も寄越さず学校を休んだのだから、学校から電話が入ったのも当然の話だ。

 先日のサボりは母の機転で体調不良という扱いになって事なきを得た。

 ただ、普段目立たないようにしているミリが問題行動を起こしたのが教師方に小さく波紋を広げたらしく、気遣われているような、見張られているような、そんな普段とは違う雰囲気を感じていた。


 それがはっきりと現れたのは四時限目。クラス担任の菅野先生が受け持つ数学の授業での事だった。

 いつもなら口頭で答えるような設問をミリに当てる事はなかったのが、今日に限っては当ててきたのである。

 普通に気を遣うなら板書できるような設問にするところを敢えて当ててくるのがこの先生の面倒くさいところだ。

 何か思うところがあってそうしているのはわかるし、気にかけてくれているのも知っているのだが、ミリにしてみれば余計なお世話。立ち上がりはするものの答えるつもりはなかった。

 菅野先生とて一度当てた以上は粘り強く答えるのを待つしかなく、そのまま教室内には沈黙が降り、そのまま数十秒もすると微妙な空気が流れ始める。

 生徒達は沈黙に耐えかねてさわさわと小声で話し始め、それに混じってクスクスと笑い声も聞こえ始めればミリには慣れ親しんだ針の筵だ。

 菅野先生は思惑が外れたのか頭をがしがしと掻いて何事か言おうとしたが、その直前、手を挙げて発言する者があった。


「先生」

「ん? どうした、渡瀬」

「辺ABとBFおよび辺BCとBFが直角なので辺BFは面ABCDに対して垂直です。時間の無駄なので先に進めてください」


 さらりと設問に答え、厳しい顔つきでそう迫る女生徒に菅野先生は苦笑いを浮かべるも、渡りに船とばかりにその要請を受け入れ、


「う~ん、仕方ないな。川原はきちんと復讐しておくように」


 とミリに注意を与えて座らせると授業の続きに戻る。

 席に着いたミリは先程の女生徒にちらりと視線を向けたが、女生徒は何事もなかったように真っ直ぐ前を向いて授業内容に耳を傾けていた。


 その日の昼。

 給食を食べ終わったミリは普段どおり目立たないよう席に座って図書室から借りてきた小説など読みふけっていると、そこに声を掛けてくる者がいた。

 耳障りな甲高い声に嫌な予感を覚えつつ振り返ると、そこには湯月才華が立っていた。


「川原さ~ん、何読んでるの?」


 ミリは顔が引き攣りそうになるのを懸命に堪えながら一旦本を閉じると表紙が見えるように湯月に向けてその表題を示す。

 そこには漢字四文字でこう書いてあった。

 ――――人間失格――――

 湯月はそのインパクトのある表題を見るとふいを突かれたようにぶふっと吹き出してケラケラと笑い出した。


「なにこれーっ! 川原さんらし過ぎ。超ぴったりなんですけど。うけるー」


 湯月のバカ笑いに教室にいた生徒が何事かと視線を向ける。

 目立つのが嫌いなミリがその視線に耐えかねて顔を背けようとすると、その隙を突くように湯月はミリの手から本を奪い去り「見てよコレ」などと言いながら掲げて見せた。

 冷静に考えてみれば誰もが知っている名作中の名作だ。読んでいたからといって誹謗中傷を受けるいわれはない。

 けれど朝からの探るような視線と突如集中した注目に冷静さを欠いたミリは、咄嗟にそれを取り戻そうと慌てて席を立った。あまりに慌てすぎて机に足をぶつけ、よろけた彼女は手をついて床に倒れ込み、その拍子に携帯電話がポケットから零れ落ちてしまう。

 カシャン、カラカラカラカラ…………。

 携帯電話は教室のつるつるした床の上を滑り湯月の靴を叩いて動きを止めた。


「ん、なにこれ?」


 慌てて手を伸ばし拾おうとするが間に合わず、湯月の手がミリよりも先に拾い上げた。


「あれ? これ渡瀬さんのじゃない」


 手にした携帯電話をしげしげと見つめ、湯月がそんな事を口にする。

 彼女が見ていたのは携帯電話そのものではなく、その角に黒い紐で結わえられているストラップの方だった。ミリの携帯電話にはシンプルなデザインの小さな音叉型ストラップが一つだけつけられている。

 湯月が言いたいのは、それが渡瀬という女生徒のものまったく同じもの…………つまりミリがとったのではないかという事だった。

 ミリもそれを見た事があって、だからこそ自分の携帯電話は学校持ってこないようにしていたのだが、先日の件で母から持ち歩くよう強制されたのだ。

 今朝出かける準備をしている時にストラップだけでも外しておくべきかと悩んだ末、登校時刻になってしまいそのまま持ってきたのを今更ながらに後悔する。

 唯一の救いといえば渡瀬の方はそれをストラップではなくキーホルダーにして持ち歩いているという事。

 繋いでいる部分が紐とチェーンなので見比べれば一目瞭然に違いがわかるのだが、困った事にその場に渡瀬本人は居合わせておらず、違いを説明すべきミリは学校――特に湯月の前では絶対に声を出さないと心に誓っていた。


「なんであんたが持ってんの」


 これまでと打って変わった低い声で責めるように問いかける湯月に、ミリは精一杯首を横に振って否定する。

 けれどミリをいびる事にかけては筋金入りの湯月がそんな無言の主張を受け入れてくれるはずもなく、彼女はミリの手が届かないよう高々と携帯電話を掲げると教室中に聞こえる声で言った。


「ねえ、コレ渡瀬さんのだよね? なんかこいつが持ってたんですけど」


 声に気付いた生徒達が湯月の掲げた携帯電話に視線を集める。

 何人かの生徒はそこにぶら下がるストラップに見覚えがあったようでミリに非難めいた視線が向けられた。

 それらを同意と見た湯月はミリの方に再度振り返ると片方の口角を上げて歪な笑みを浮かべ、ミリが決して喋らないのを知りつつどういう事かと詰め寄って――――。

 その時、がらりと教室のドアを開いて渡瀬が入ってきた。

 彼女は教室に入った途端に自分に視線が集中しているのに気付き、足を止めて教室内をしげしげと見回す。そこに声を掛けたのは他でもない、湯月だった。


「あ、ねえねえ渡瀬さん、コレ渡瀬さんのだよねえ?」

「え?」


 自分の思い込みを確信している湯月は声を掛けられ戸惑う渡瀬に、ミリの携帯電話を差し出し、ストラップをつまんで見せる。

 渡瀬は湯月から携帯電話を受け取るとそれをまじまじと確認し、次にこちらに目をやっていた教室内の生徒達を見回すと、何やら納得したように「なるほど」と呟いて携帯電話をミリに投げて寄越した。

 まさか投げるとは思いもしなかったミリは慌てて手を伸ばし、何度か跳ねさせた後ようやく胸に抱えるようにして受け止めた。

 その無様とも言える様子を冷ややかな眼で見守った渡瀬は、教室内の生徒がぎりぎり聞き取れるように少し声を張って湯月をフォローするように言った。


「同じのだけど、私のじゃないよ。ドイツの有名な会社のやつでさ、ちっちゃくてもちゃんと使えるから音楽やってる人間なら結構持ってる」


 湯月は思っていたのと違う答えに動揺したのか言葉に詰まりながら「え……あ、そ、そうなんだ」などと言いながらバツが悪そうに周囲に視線を巡らせる。

 そこへ更に渡瀬がフォローを入れる形でその場は収まり、湯月は周囲に見せるためのおざなりな謝罪をミリに投げかけて自分の席へと戻っていった。

 渡瀬も湯月に話し掛けながら彼女について行き、その場はそれで収まった。


 ミリはいつの間にか痺れたように血の気が引いて震える手で携帯電話を内ポケットにしまい直すと何事もなかったように再び本を開いた。

 しかし読めども読めども内容は思考の表層を滑るばかりで一向に頭に入って来ない。

 先程見た渡瀬の目がずっと脳裏に焼きついて離れなかった。彼女は去り際、他の人には見られない位置まで近づいた瞬間、ミリに向けて酷く恐ろしい形相でこちらを睨んでいたのである。

 他の誰に非難されても平気なミリだったが、彼女にそんな目を向けられるのだけは辛かった。


 彼女の名前は渡瀬詩歩わたせ しほ

 かつてシホちゃんと呼んだミリの親友、その人だった。




 その日、ミリはずっともやもやしたまま授業を受けた。

 なぜこうなってしまったのか、考えれば考えるほどわからなくなる。

 入学した当初は学区の違うシホが同じ学校の同じクラスにいる事に驚き、理由を聞こうと機会を窺っていた。

 クラスメイトに聞かれたくなくて教室内では避けていたのが悪かったのかもしれない。そうこうしているうちに彼女は湯月のグループと仲良くなり、余計に話し難くなってしまった。

 けれどその後、クラスメイトのいないところで話そうとしても彼女の方でミリを避けるようになって、結局今日まで一度もまともに話せていないのだった。

 もやもやは募るばかり。


 そんな時、ミリは無性に歌いたくなるのだった。

 気晴らしに、というと少し違う。

 彼女にとって歌は日常的なもので、ただ歌うだけでは気持ちに歌の方が引き摺られて余計にもやもやしてしまう。

 そうではなく歌に込められた意図や感情をきちんと追うように真剣に歌うと、まるで自分が物語の主人公になったかのように別の気持ちが溢れてきて、それを表現する事に喜びを感じるようになるのだ。

 だからこそ、ミリは思いっきり歌える場所を求めていた。かつての合唱部がそうであったように。


 ホームルーム後の掃除が終わると、いそいそと帰り支度を整えて教室を出た。

 自転車に乗って帰り道を途中まで駆け、高速道路の高架下のところでわき道に逸れて山道へ入る。

 そこから昨日と逆向きに進んで、禿山の手前で自転車を隠した。

 鞄の中には昨日の反省を活かしたいくらかのお菓子。意気揚々と禿山を登り、横の林に道を見つけて下ると昨日の庭園へ出た。

 小屋を覆う枯れ草を回り込んで陰に入れば、記憶通りのドアが姿を見せる。

 レントはいつでも鍵は開いていると言っていたが、ミリは礼儀として一応ノックをし、返事を待ってから中へと入った。


「いらっしゃい。待ってたよ」

「えへへ。今日はお菓子持ってきた。あとで一緒に食べよ」

「おお。ありがとう。いいの? ありがとう!」


 レントはお菓子が好きなようで、ミリが移動しても止まっても常に視線は鞄に向けられている。

 その様子はもうおあずけするのが可哀想になるほどで、帰り際に休憩がてら食べようと思っていたミリも根負けして最初に食べることにしたほどだ。

 ミリは鞄の中からお菓子の袋を取り出し、棚から適当な皿を出して並べると、レントはまたハーブティをカップに入れて出してくれた。

 そうしている間にも音精達は種々様々に姿を現しては二人の周りを楽しげに踊り消えてゆく。

 用意が整ってティータイムが始まっても、自然と話題は音精の事になった。


「そういえば昨日、鷲住くんが出した音精だけど…………」

「レントでいいよ?」

「…………ちょっとハードル高い」

「そうなの?」

「じゃあ、ミリって呼べる?」

「呼んでなかったっけ? 美梨。ミリって呼びやすいよね」

「くっ…………わかった。レント」

「うん。で、何の話だったっけ?」

「昨日…………レント……が、床から引っ張り出した音精の話!」

「そんな事あったっけ」

「う~んと、確か、音精との関わり方が人によって違うとか何とかそういう話をした時だよ。床から針金人形みたいな音精を出して腕の上を走らせてたじゃない」

「ああ、うん。覚えてないけど、よくやるね。癖みたいなもんだよ」

「そうなの? あれってどうなってるの? 私は音精って音のイメージで形が決まるんだと思ってたんだけど、あれは違うよね?」

「いや、基本は一緒だよ。ただ、人が水の中に飛び込むイメージの音を、僕が鳴らしたかったからああいう形になっただけ」

「イメージ…………それって私にも出来るのかな?」

「さあ、どうだろう。ミリは音を鳴らすよりも変化させる方が向いてると思うけど」

「変化させる? それって歌でって事?」

「歌に限らず喋ってるだけでも、だよ。試しにちょっと声出して」


 言われるがまま、ミリは発声練習の要領で「あー」と声を出す。

 レントはクッキーで汚れた手をツイとピアノの方に振って音精を飛ばし、その着地に合わせてピアノから音が出る。

 着地まではレントの操作に従っているように見えた音精の動きが今度は声に導かれるようにミリの方へ吸い寄せられ、声の方向へ押し出されるように回転して広がると、徐々に薄くなって消えた。

 最初丸い球体だった音精はミリの目の前で声に混ざるとスルスルとほどけて糸状になり、回転の途中では二重にぶれたりもしていた。

 これがレントの言う変化だろうか。

 確認するようにレントの方を見ると「ね?」とばかりに頷く。


「今、一瞬二重になってたけど、あれのどっちかは多分ミリの声そのものだよ」

「へっ?」

「なんて言えばいいのかな…………」


 レントは短く思案し、ミリにわかり易い言葉を選びながら彼なりの考えを聞かせてくれた。

 彼の考えではミリは声を出す前にその方向や出し方にイメージを持っており、その見えないイメージに沿って音精は動くのではないかという事だった。

 言われてみればそのイメージに類する事をやっている自覚はある。合唱部で散々声の出し方のイメージを鍛えられたせいかもしれない。その時は頭のてっぺんから声が抜けるように、というイメージだったけれど、普通に歌う時もどこに声を響かせるとかどこに向かってどんな風に声を飛ばすとかのイメージは常に持っていた。


「つまり音精の動きが私の声のイメージそのものって事?」

「だと思うっていう話だよ。さっき音精が二重になった時はミリの声がぶれて、イメージと重なってた音精が割れちゃったんじゃないかな」


 レントの言う通りだった。

 音精がぶれる直前、ミリは喉が下がるような感覚があって、持ち直すために少し呼気を強めた。そのせいで一瞬音が上がりすぎたのだが、二重になったのはその時だったのだ。

 もしこれが正しいのだとすると、音精を使ってミリの声を視覚化する事もできるかもしれない。


「むふ~、これはちょっと面白い発見かもしれない」


 試してみたくなったミリは早速立ち上がり、喉を慣らす為の発声を始めた。

 その際、お菓子に夢中なレントの尻を叩いてピアノの音を鳴らしてもらい、自分のイメージと音精の動きが重なるか注視する。

 発声の場合はミリが失敗しない限りほぼ百パーセント、音精の動きとイメージは合致していた。

 喉が温まり、声が出始めると、今度は歌だ。

 とはいえ、歌に関しては明確なイメージを持って歌っているという自覚はない。同じフレーズでもその時々によって跳ねるように歌ったり浮き立つように歌ったりとまちまちだった。


「う~ん、どうしたもんかな」

「う~ん。難しいね。とりあえず歌ってる途中で音精をどう動かしたいかってイメージしてみたらどうかな?」

「なるほど。やってみよう」


 レントに言われた通り、ミリはまず何も考えずに歌い始め、音精が集まってきたところで自分が動かしたいようにイメージを作るようにしてみる。

 するとある程度は思い通りに動いてくれるものの、音のズレや声のぶれるのに合わせてイメージが壊れ、途端に音精もてんでばらばらな動きをするようになるのだった。

 これは主にミリが思ったとおりに歌えていない事が原因だった。


「発声の時は普通に出てたのに、なんでだろうね?」

「あー、うん。実は出ない音は避けてたんだよね…………」

「え、そうなの?」

「うん。音階で発声してる時に途中で飛ばしたりしてたでしょ? あの辺の音はどうしても出なくなっちゃうんだよ」


 ミリはそう言うと自信なさげに音を探して、地声よりも高い音をいくつか単音で発生してみた。

 すると「あー」という発声のなかにいくつか英語でいうhの発音にしか聞こえない音が混ざるのだった。

 出なくなるといっても全く出せないわけではなく、呼気を多くして強く発声すれば出ない事はない。ただし当然出した音は強く大きな声になってしまうので、一つの流れの中で出そうとするとどうしても違和感が出てしまうのだ。


「声を大きくする以外の出し方ってないのかな?」

「大きくする以外?」

「例えば、半音ずれた音から徐々に狙った音に近づけるとか」

「しゃくりとかフォールのこと?」

「うん、そう。わかんないけど、それ」

「適当だね!」


 段々とミリはレントに対して遠慮が無くなっていた。

 レントは割と思った事を素直に口にするし、ミリの持ってきたお菓子も遠慮なく食べるので、こちらが遠慮しているのがバカバカしくなってきたのだ。

 同じ釜の飯を食った仲という言葉があるが、彼女達に当てはめれば、同じ皿の菓子を食った仲というわけである。

 そんなレントだったが、言っている内容は的を射ている。

 ミリは早速言われた通りに練習してみるが、この方法もあまり上手くはいかなかった。

 先程出なかった音から半音下げたところから発声を始めるのだが、そこから徐々に高くしていくとある高さから音が擦れて出なくなる。より高い音から下げても結果は同じだった。


「はあ……やっぱりダメだ。もうまともに歌えないのかな…………」


 一通り試してみるも徒労に終わり、床に手を突いて落ち込むミリ。

 そんなミリに対し、レントは落ち着いた様子で、今度は別のアプローチを提案する。


「全くでないわけじゃないんだから、落ち込むのはまだ早いよ。次はビブラートを試してみよう」

「ビブラートは知ってるんだね……でも今やったのと結局は一緒でしょ。音の高低を変えても出ないもんは出ないよ」

「いや、そっちじゃなくてさ。音量ビブラートだよ」


 初めて聞く単語にミリは首を傾げた。

 ビブラートにはいくつか種類があり、中でもわかり易いのは三つ。口形によるビブラートと音程ビブラート、そしてレントの言う音量ビブラートである。

 口形によるビブラートはあまり見られないが、歌謡曲などで聞く事のある「ワワワワ~」というバックコーラスなどがその一種で、口の形で波を作るビブラートである。

 音程ビブラートはもっとも一般的に聞かれるビブラートで、上下半音程度の幅で音程をずらして波を作る。

 最後に音量ビブラートだが、これは読んで字の如く、音量を大小させるビブラートだ。


 説明を聞いてみれば理屈はいたって単純明快。音量を上げなければ音が出ないのならば上げた音量が不自然にならないよう誤魔化してしまえば良いというわけだ。

 誤魔化すというと聞こえが悪いが、自分に出来ない事をテクニックやアイデアで補って上手く歌えれば、それは個性となる。

 ミリは早速その音量ビブラートというのを試してみる事にした。


 が、これが思ったよりも難しい。

 音量を大小させて波を作るわけだが、音程が喉でコントロール出来るのに対し、音量は呼気でコントロールするので横隔膜を動かさなければならず、より全身を意識しなければならない。

 また、音程の変化と違って音量の変化はわかり辛く、感覚的に出来ているかどうかがいま一つつかめなかった。

 けれど確かに音にはなる。

 ミリは声変わり以降自信を失った自分の歌声に初めて光明を見いだした気持ちだった。


「これ、難しいね!」


 笑顔でそんな風に言うミリにレントは苦笑しながらクッキーを頬張る。

 お菓子が粗方なくなると、今度はピアノについて音精を出し、ミリに合わせ演奏してくれた。


「こいつらを見てると音の大小も少しはわかり易くなるはずだよ」


 どうやら音精は大きな音ではより大きく、強い音ではより早く動くという性質があるらしく、その動きを見ていると自分の声がちゃんと波になっているかどうか一目瞭然にわかるのだった。

 便利! ミリは歌いながら心の中で音精達を賞賛した。

 こうしてとっかかりを得たミリはそれから毎日のように小屋に通っては歌の練習をするようになった。

 小屋にはいつもレントが先に居て、ミリの持ってくるお菓子を頬張りながら練習に付き合ってくれた。

 休みの日にすら制服を着こんで小屋で待っているレントを不思議に思わないではなかったが、聞けば関係が崩れるような気がして聞きそびれていた。

 ところがある日、ミリが訪れた中で始めてレントが来ていない日があった。




 それはミリが小屋に通い始めて約一ヶ月が過ぎた十二月二十四日。二学期終わりの終業式の日だった。

 学校が午前中で終わり、部活動も期末試験から冬休みに入って生徒が一斉に帰宅するその日、ミリは寄り道を見られたくなくてしばらく学校に残っていた。

 帰り支度を整えて廊下から校門を眺め、下校する生徒がいなくなった頃合を見計らって自転車置き場へと向かう。

 一年生の自転車置き場は二、三年とは別に校門入って右手のフェンス沿いにあるのだが、置かれている自転車はもう数えるほどしかなくなっていた。

 いつものように狭い置き場にこれでもかと詰められた自転車の群れから苦労して自分の自転車を引っ張り出す必要もなく、悠々とその場でUターンなどさせながら乗車したミリはもはや待ちきれないといった様子でペダルを漕ぎ出し、高架下のわき道から山道の方へと入って禿山から小屋の方へと降りた。

 斜面を下りきって茂みの隙間から庭園へ入ったところで、なんとなくいつもと違うような感じがしたが、特に気にもとめないで一直線に小屋の方へと向かいドアを開くと、いつもならすかさず掛けられるはずの「いらっしゃい」という声が聞こえてこなかった。

 小屋の中を見回し、中に入って陰になりそうな場所を確認してもレントの姿はなかった。


(まあ、こんな日もあるか…………)


 ミリはなぜか拍子抜けしたというような心持ちでピアノの椅子に腰掛け、鞄の中から持ってきたお菓子を出してぽりぽりとかじる。

 今日のお菓子はバラエティパックのオカキ。サクサクの米菓にタレや海苔で淡く味付けがされた子供から大人まで楽しめる一袋だ。

 ただし食べればお茶が欲しくなる。

 勝手に漁るのは気が引けたが、飲み物なしで食べるのはちょっとした苦行ともなりかねないので仕方なく、棚からカップを拝借してハーブティを注いだ。

 するといつもなら湯気の立つ温かなお茶が出てくるのに、今日は冷め切った冷たいお茶になっていた。


(あれは毎日入れ替えてくれてたのか)


 少し考えればわかりそうな事だが、ミリはそんなレントの気遣いにこの時初めて気がついた。

 今日は冷たいお茶からも、胸の中にはじわりと暖かいものが広がってミリの芯を満たしてくれる。

 折りしも今日はクリスマスイブ。プレゼントにはお菓子満載のサンタ靴を用意してきたが、それだけで足りない感謝の気持ちを歌にしようとピアノを開いて弾き始めた。

 小学生の頃にシホから教わった和音を叩き、跳ねた音精に合わせてメロディを紡ぐ。

 和音の音精は最初からお互いに絡まるように三重の螺旋で跳ねてミリの声に反応した。

 和音を構成する音階と同じ音で歌えば、選んだ音だけがやけに元気に鳴って駆け回り、別の音階で歌えば、ぶつかって落ちたり、螺旋が一つの太い輪になったりとその反応は様々。

 それらがなるべく長く元気に残る音階を探せば音はメジャーに、長く静かに残る音を探せば音はマイナーになる。

 そうやって音精の反応を見ながら曲を形づくるのはとても楽しかった。

 歌の方はまだまだ自然には歌えなかったが、レントの協力のおかげでこの一ヶ月の間にビブラートもずいぶん使いこなせるようになった。

 最初はピアノを弾きながら歌うのに慣れなくてたどたどしかったのも、だんだん慣れてくるに従って音と歌が合うようになり、音精もより滑らかに踊るようになっていった。

 時間も忘れて没頭し、何とか曲の体を為したものが出来上がってみれば、もう帰るような時間になっていた。

 結局レントは訪れなかった。


(折角作った曲もクリスマスには間に合わなかったなあ…………)


 少し残念そうにそう思うミリの目にはデジタル時計を移した携帯電話。

 ミリはあっと思ってその携帯電話の画面を操作した。

 その携帯電話には録音再生のできるボイスレコーダーのアプリが入っているのだ。


(これに録音して置いておけば二日間くらいは聴けるはず)


 そう考えたミリは早速ピアノを開き直して携帯電話を置くと録音ボタンを押して演奏し始めた。

 流石に何時間もずっと弾いていただけあって、ほとんどミスなく一発録音したそれを、今度は再生画面にして確認する。

 一通り流して問題ないのを確認出来たら再び再生画面にしたまま省エネモードに切り替えた。ほどなくして画面は黒く消え、待機状態へと移行した。

 この状態なら数日は電池が持ち、なおかつボタンに触るだけで再生画面が表示されるのであとは右向きの三角を押せば再生される。

 学校がなくても流石に三日の内にはチビの散歩がてら寄る事も出来るだろうから、携帯はその時回収すれば何の問題もなかった。元より親の安心以外に存在理由のない携帯だ。主の元を離れるにしても新たな使い道を見つけてもらえて本望に違いあるまい。

 このところ音精の影響で八百万の神様すら信じる気になっているミリは、携帯電話の神様にそう言い訳してクリスマスイブだというのに手を合わせて拝んでおいた。


 翌日、果たして携帯電話は目論見どおりに己の使命を全うし、レントにミリのオリジナルソングを届けた。

 電池の関係で再生できたのは一度きりだったがレントはとても喜んで、翌日ミリに感謝の気持ちを込めてと花束を進呈してくれた。

 その日は練習もそこそこにお菓子と楽器でパーティを開き、二人で騒いで忘年会とした。ミリの家は祖父が地元の名士だからか、年始は人の出入りが激しくなる為、孫のミリも年末から掃除や御節の下拵えといった準備に忙しく、年末年始に小屋を訪れる暇はないのだった。


 慌しく年が明け、親達の長期休暇が終わるまで挨拶回りに旅行にと連れまわされたミリはへとへとになりつつも、その手にはしっかりと戦利品のポチ袋を握り締めていた。

 中学生は伊達や酔狂で親戚周りに同行するのではない。歳近い親戚の子と遊ぶのと、当面の軍資金をかき集めるために同行するのだ。と自分を正当化し、得られたお年玉をほくほくと数える。

 彼女には欲しいものがあった。

 楽器である。

 クリスマスの日にたどたどしいながら初めての作曲をしてみてミリが一番感じたのは音精達と曲作りの相性の良さだ。

 和音が成立しているかどうかは一目瞭然だし、音程やリズムが乱れれば不満を訴えて暴れ始める瞬間まで見て取れる。これは複数の楽器や声を合わせた場合も同様で、楽器同士の相性や音の混ざり方などすべてを視覚として見られるのである。

 となればやってみたくなるのがミリだった。

 けれどピアノはちゃんと習った試しのない自分が習得するには難しい気がするし、レントは自分で弾くわけではないので他の人に見られでもしたら大事だ。

 というわけで何か和音が弾けるような楽器を自分で用意しようと思い立ったわけである。


 ピアノ以外で和音を奏でる楽器となると真っ先に思いつくのはギターだ。

 ひとまとめにギターと言ってもミリの用途から言えば、ああいう形をしたものなら大体なんでもありだといえる。

 エレキギター、アコースティック、ベースギター、ウッドベース、三味線、シタール、バンジョー、etc...

 ただ現実的な値段を考えると最初の三つくらいに絞られるか。


 学校が始まる前日、ミリは市内の大型百貨店の中にある楽器店へと足を運んだ。遠目に眺めたことはあるが入るのは初めてで少し緊張する。

 お店の中に一歩足を踏み入れてみると、そこはなんだか周りとはちょっと違う空間のような感じがした。

 ダムの庭園とはまた違った感覚で、より近しい例を挙げるなら、同じ百貨店内にある本屋さんに入ったのと似ている。喧騒は遠くから抜けて届いてくるものの、近い場所は静かで音もなく、インクの匂いに満たされた空間は百貨店内という事を忘れさせる。そんな”日常からちょっと離れた場所”感が楽器店にも存在していた。

 ギターを買うのがメインミッションだったが、そんな非日常感に突き動かされ、まずは店内をぶらぶらと歩き回ってみる事にした。


 遠くから眺めるとギターが壁に掛けられてて、あとはごちゃごちゃっとしているイメージしかなかった店内は、歩いてみると案外整然としていて、楽器毎に必要な小物なんかもまとめられて見易かった。

 サックス、ヴァイオリンといった高そうなクラシック楽器に、オルガン、キーボードといった鍵盤楽器、スピーカーやフェーダーなどの機器類も多く、けれどどれもひとつひとつ手書きでポップがつけられていた。

 ポップにはカラフルな色紙にカラフルな色の大きくわかり易い文字が可愛らしく、絶望的な価格を刻んでいた。

 ギターの一角にたどり着くまでその価格の暴力に嬲られ続けたミリは、聞きかじった話とのギャップに顔を青くさせ、それでも最後の希望に縋ってギター達を眺めた。

 そこには想像していた価格とほぼ同じくらいの値段が書かれたポップがいくつか存在していた。

 ミリは安堵して予算内で買えるギターをピックアップし、それぞれの違いを見比べる。

 エレキギターやエレキベースは価格が手ごろな物も多かったが、単体ではあまり音が出ず、周辺機器が必要になると考えると怖くて手が出せなかった。


(うん。おーけー。買うならアコースティックギターだね)


 妥協の末、絞り込んだアコースティックギターという選択だったが、こちらはこちらで問題があった。

 どれも同じような形をしているのに、値段が全然違うのだ。下は一万円以下から上は数十万円まで、同じような素材なのにどうしてここまで違うのか理解不能なくらいの差がついている。

 こうなると手の出る範囲で一番高いのを買えばいいんじゃないかと思えてくる。

 とりあえず一旦落ち着こうと考え、ミリは楽器屋さんを離れて御手洗いに行った。

 用を済ませて戻る途中、いつものように遠目に楽器屋さんの方を眺めていると、並んだギターの中に気になるものがあった。

 アコースティックギターのように木目の板張りになっているのに、他のと違って中央に丸い穴が空いているのではなく、両サイドに対称にf型の穴が空いているギターだった。

 ミリはそれをテレビで見た覚えがあった。発色のキツく滲んだ古い映像の中でジャズミュージックの演奏に使われていたギターだ。

 一目で気に入ったミリが再び楽器店に戻り、そのギターをよく見てみると、それは確かにアコースティックギターのように中が空洞で、そのくせ音を調整するような電気的な操作をするためと思われるつまみがいくつかついた、両方の合いの子みたいな見た目をしていた。

 弦にはさまったポップを抜いてちょっとだけ弾いてみると、アコースティックギターほどではないけれどしっかりと音が増幅されて耳に届く。

 文句ななかった。

 しかし問題は値段だった。先程ざっとピックアップした時は値段の段階で弾いていたのだ。エレキギターとして考えるなら値段的に論外。けれどアコースティックギターとして考えるならぎりぎり予算の範囲内だった。

 ミリはその日一日を楽器店で潰す勢いで悩んで悩んで悩み抜いた挙句、悩み疲れて高揚した勢いでポーンと買ってしまった。

 決めてになったのはその外見の格好良さで、他のどんな高いギターを見ても、一番格好良いのはこのギターだという確信があったからだった。


(うん、買い物っていうのはこうでなきゃ)


 自分にそう言い聞かせながら、暖かい心と冷たい懐で帰路につく。

 頭の中では今後の練習で消費するお菓子をいかに安く済ませるかという計算が早くも始まっているのだった。


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