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「虎様。」
嬉しそうに名を呼んで、女は微笑む。
手を伸ばせば頬を赤く染め、それでも逃げる事はしない。
「茜。あなたへの土産だ。」
渡したのは風車。
黄と緑で折られたそれを女は受け取り、息を吹き掛けて回す。
「綺麗な色。」
「あなたの赤く染まる頬が、私には美しい。」
再び赤く染まった頬を撫で、男は微笑んだ。
殺風景なアパートの一室。
薄っぺらい布団の上で、遥は目を開けた。
夢の余韻で、心が温かい。
もう少し見ていたかったと、目が覚めてしまった事を残念に思った。
「茜、か…。」
夢の中で出会う、着物姿の美しい女。夢の中で、彼女は自分を虎様と呼ぶ。あまりにも愛しそうに呼ぶ茜の表情は、呼ばれる己も幸せな気分にしてくれるのだ。
幼い頃から見続ける夢。
着物姿の茜と虎の生活は、戦国時代の良い家柄のようだと遥は考える。虎の名は景虎。たまに現れる臣下らしき男達には殿と呼ばれ、茜は景虎の妻なのだ。
政略結婚だが二人は仲睦まじく、幸せに暮らしていた。
だが別れは訪れる。
景虎は殺される。
悲しい茜の涙の夢を見た時には、遥は胸が苦しくて堪らなくなるのだ。手を伸ばし、彼女を笑顔に変えてやりたいとまで思う。ただの夢にしては、遥に与える影響は大きかった。
ブラックのインスタントコーヒーを朝食代わりに飲み干して、遥は大学へ行く為に支度をする。
大学進学と同時に始めた一人暮らしも、今ではだいぶ慣れた。ただ食事は面倒で、コンビニやバイト先の賄いで済ませている。食事はちゃんとしろと言った母親が調理器具を揃えてはくれたが、使ったのは最初の頃だけ。最近はお湯を沸かすくらいにしか鍋を使っていない。
ほとんど使う事のない台所を通り抜けて、遥は靴を履いて玄関を出た。
落ち葉の絨毯を踏み締めて最寄り駅へと向かう。
来年は大学三年。就活までの猶予期間はまだあるものの、将来やりたい事が特にない遥には短い時間のような気がした。
普通に就職してサラリーマンになる。そんな将来も別に悪い物だとは思っていないが、何かへの焦りが遥の胸に燻っているのだ。その燻りは、茜の夢を見る度に強くなる。
彼女に会いたい。
夢の中の女を焦がれている自分を、遥は苦く笑う。
会えるはずなどない。
だが、会いたくて堪らない。
「やっほー、遥くん。」
大学の学食で声を掛けて来たのはチャラい見た目の男。
髪は染めていない黒髪だが、短く切ったそれをワックスで遊ばせ、耳にはピアス。右耳二つ。左耳に一つ。整った顔立ちではあるが、常ににやにや楽しそうに笑っている。あまり縁の無いタイプの男に、遥は何故か懐かれていた。
「合コンセッティング頼まれてんだけどさぁ、遥くんも行こうぜ。折角綺麗な顔してんだから、人生楽しもうぜー?」
「行かねぇよ。」
「まったまたぁ、青春エンジョイしなくちゃ!遥くん目当ての子もいてさぁ、可愛い子なんだよねぇ!」
「興味ねぇ。」
「相変わらず冷たいねぇ。もしかしてゲイなん、いててててっ!ごめ、冗談、マジ、すんません!!」
ギリギリと遥に片手で頭を締め付けられ、男は涙を浮かべて謝罪する。しかしこのやり取りは、何度目なのかわからないくらいに繰り返されているものだ。
遥は溜息を吐き、男の頭を解放してやる。
「お前、暇なの?」
「まぁな、暇。遥くんだって、いっつもつまんなそうじゃん。」
始めて会った時にも、この男は遥にそう言った。
『何がそんなにつまんないの?』
そう言って、学食で遥の前に陣取りペラペラと話し始めたのだ。そこから遥は彼に付きまとわれている。
たまに煩わしいが、距離感を掴むのが上手いらしく、本当に不快になるラインは越えてはこない。
「つまんなそうな遥くん、人生楽しもうぜー?」
この言葉と共によく合コンへと誘って来る男は、自分の友人なのだろうかと、遥は内心首を捻る。
側によくいるという事はそうなのかもしれないなと、合コンについて喋り続けている声をぼんやり聞きながら、遥は思った。