10
立花隆、47歳。彼は今、青天の霹靂に動揺していた。
通信業界のそこまで大きくはない会社で中間管理職をしている隆は、二歳年上の妻と娘の三人、ローンで購入したマイホームで穏やかで平凡な生活を送っていた。
一人娘である里香が不思議な夢を幼い頃から見るという以外は、平凡な一般家庭のはずだったのだ。それが、よく晴れた休日の土曜。高校二年生でまだ子供だと思っていた娘が連れて来た男の登場によって、脆くも崩れ去ろうとしている。
由々しき事態である。
「近藤遥くん、といったかな?」
「はい。」
立花家の小さな居間に置かれた、お買い得品を探した末に購入したソファ。そこに座る、やけに見目の良い若い男。
里香は友人である井上桃と新宿に出掛けたはずが、帰って来たと思ったら、桃と共に二人の男を引き連れていた。もう一人の男が軽薄そうな色男であったのも心配ではあるが、それよりも、隆の目の前に腰掛けて背筋を伸ばしている美しい男。彼が隆に大問題を突き付けた張本人なのだ。
「君が、里香の夢に出て来る"虎様"の生まれ変わりで、就職後に娘を嫁に貰いたいと、そう言う事だね?」
「はい。自分はまだ学生ですので、就職して生活の基盤が整ったら、里香さんを貰い受けたいのです。」
「それはまた…突然だね。」
引き攣る顔をどうする事も出来ず、考えも纏まらない。隆はもしかしたら今、己の人生で一番大きな問題に直面しているのかもしれないという考えが、頭を掠めた。
「里香はそれを了承したのか?でもまだ、高校生じゃないか。人生を決めてしまうのは早いだろう?これからまだまだいろんな出会いだって、あるんだぞ?」
困惑した視線で娘に問うてみるが、娘は既に心を決めたという表情で隆を見返している。
「私は彼が良い。結婚するまではちゃんと節度を守ったお付き合いをするよ。だから、婚約だけでも許して欲しいの。」
「いや…婚約って…」
最近の子供は早熟だとは聞いていた。だが今まで里香にそんな素振りはなく、夜に見る夢の話ばかりしていたのだ。それが突然、夢の中の男と再会出来たから婚約して、ゆくゆくは結婚したいなどと言われて…父親として承服出来る訳がない。
「お父さん。とりあえずお付き合いは認めて、結婚云々は時期が来たらまた考えたら良いんじゃないかしら?」
こんな時、頼りになるのは姉さん女房。
隆は妻の麻子を縋るように見上げた。ほとほと困り果てたと顔に書いてある隆を見て、麻子は笑う。
「遥くんも、それで良いかしら?別にお付き合いを反対するつもりはないし、時期が来たら、また二人で相談して決めなさい。」
「はい。突然お邪魔した上に、このようなお話をしてしまい、申し訳ありませんでした。」
「まぁねぇ、驚いたけれど。里香が虎様に夢中だったのは私もずっと側で見て来たから。前世で死に別れた二人が今世で幸せになるだなんてロマンチックじゃない。ねぇ、お父さん?」
「え?あ、あぁ。まぁ、そうだな。」
懐の深い女だとは思っていた。そこに惚れた訳ではあるが、やはり妻には頭が上がらないと隆は苦く笑う。
「まぁ、二人共まだ若い。付き合ってみて、困った事があれば相談しなさい。」
「ありがとうございます。」
「お父さん、ありがとう!」
嬉しそうに笑う娘。
隆と麻子の娘にしては美しく聡明で、自慢の娘であったが…父母どちらにも似ていない見た目が前世の夫と再会する為なのかと思うと、複雑な気分に隆はなった。
それでも、赤ん坊の時から可愛がって来た娘だ。可愛くない訳がない。嬉しそうに微笑み合う里香と遥を眺めやり、娘が幸せになるのであれば構わないかと、隆は見守る事を心に決めた。
「それで、そちらの君は?」
一つ、問題の決着がついた所で隆はもう一人の男に視線を向けた。桃と二人、ソファから離れた床に座る男は遥の友人だと自己紹介していたが、何故彼がこの場にいるのかは謎だった。
「突然親友の前に現れた前世の奥さんとの結末が気になりましてね、ちょっとした野次馬です。お話がついたようなので、お暇します。」
にっこり微笑むこの男。やはり軽薄な雰囲気が漂っている。
好青年らしき遥とはタイプが違うようだが、友人関係というものは人によって様々であるはずだ。
「里香ちゃん、私も帰るね。」
「自分も、お暇します。」
桃と遥も続いて立ち上がり、里香は見送ると言って玄関へと向かった。玄関から漏れ聞こえる声は、里香が駅まで送ると言い張るのを、遥がやんわりと止めているようだ。里香へと話し掛ける遥の優しい声音に、任せてみても良いのかもしれないなと、隆は思う。
「ただの夢が、予想外の展開になったもんだ。」
ソファに深く腰掛けて、隆は長く息を吐き出した。
疲れた様子の夫に新しく淹れ直した熱いお茶を差し出して、麻子は笑う。
「何か意味があるのかしらとは思っていたけれど、前世って本当にあるのねぇ。自分が目の前でそういうのを見るだなんて、思ってもみなかったわ。」
「俺もだよ。」
隆と麻子は顔を見合わせて笑い、一人娘の幸せを願ったのだった。




