事務所
リセは襟をかきあわせ、背の高い建物の間を駆け抜けた。一度曲がって狭い路地に入り込み、石造りの古めかしい扉の前で手をかざす。ほんの瞬きの間、扉に光る紋様が現れた。できる限り手を触れないようにして重い扉を一気にあけ、中に駆け込む。ほっと一息ついてリセは警備兵へ声をかけ手をかざした。
「おはようございます」
扉の警護兵はと彼女の指に光る赤い石の輪に目を留め、軽く頭を下げた。外套の留め金を外しながら、正面の階段を踏みしめるように上った。一段あがるごとに空気が重くなっていくのが分かった。踊り場を通り過ぎ、足に力を入れて残りを一気に上りきる。この瞬間は何度経験しても苦手だ。扉の取っ手にてをかけてつぶやいた。
「リセロ・シズリー。エフェロ・ライド・フィエウ・レ・ヴァ。」
軽くなった気配に軽く肩を回しながら部屋に入り、すたすたと自分の机についた。ぐるっと一周見回し違和感に眉をひそめる。そして一喝した。
「珍しく朝からいらっしゃるのですから、姿ぐらいお見せください。このすっとこどっこい。」
正面の机の椅子が揺れ、くすくす笑いが聞こえた。ふわりを布が揺れるように一人の人物が姿を表した。
「朝から上司を罵倒するとは、リセも出世したね。」
この静謐な朝の事務所に似合わない、そしていつもながらの異様な姿の上司を睨みつけてリセは自分の書類に取りかかった。目の前に陰が落ちた。見上げると無視されたのが気に食わなかったのか、目の前にはリセの上司——ハーティ・ガーティ・上級魔法使いが眉を寄せてすねた顔で立っていた。整った顔立ちを台無しにするような相変わらずの白塗り顔、寄せた眉はどこをどうしたのか、途中から紫色になっている。
「だってエメルの機嫌が悪かったんだもん」
エメルはリセの斜め前に座っている先輩だ。今年魔法使いに昇格したばかりの10歳年上の男。彼は苦労人だった。
「エメルの機嫌が悪かったんだもーん。僕は悪くないもーん。」
目を合わせたリセロに満足したのかハーティ・ガーティは踊るようにして席に戻った。深緑の大きな襟のついた上着があおられてめくられ、下のふくらみを持った長袴が見えた。エメルの眉間のしわが深くなったことに気づいたリセロは慌てて上司の話を遮った。
「それは、本来ならこの部屋にはいないはずのあなたがここにいるからです。今日は王立魔法学院へ試験官のお仕事じゃなかったんですか。」
ハーティ・ガーティはくるりと振り返った。先ほどは気づかなかったが、左頬から目にかけても薄紫の大きな星形が描かれている。今日の化粧のテーマは紫なのだろうか。
「試験に助手がいることに気づいちゃってー。」
てへっと頭をかいてみせるハーティ・ガーティだが、頭には縁取りが幾重にもついた帽子をつけているためもちろんポーズだ。
「だからリセを呼びにきたの。」
「は?」
「今日は中級魔法使いの試験だけど、僕は判定に専念したいから説明はリセロがしてねー」
旅立つ上司に向けて、昨日忘れ物を確認したのだがとイライラした気持ちでリセはため息をついた。なにもいらないもーん、と上機嫌で出かけって行った上司、そういえばあの時は銀色に光る長羽織を身につけていた。思わずあらぬ方向への思考で現実逃避しだしたリセはしかし、時間秤を見て勢い良く立ち上がった。
「試験テールの刻からでしたよね?」
ここから王立魔法学院まではどう頑張っても3ウィウスはかかる。テールの刻まではほんの1ウィウスも無い。上位の魔法使いが気まぐれなのはよくあることなので、だったらどうにか待ってもらえるだろうかと移動方法の算段を始めたリセだったが、ハーティ・ガーティはなにやらもぞもぞとやっている。
「早く行かないと間に合いません、ハーティ・ガーティ・シシェラ。とりあえず私は、外壁警備局に移動用の竜を借りてきますから」
「その必要はないよー転移の魔法で行くから」
そして胸元からひらひらとした布の固まりを取り出した。嫌な予感がしたリセは抗弁を試みた。
「私は転移の魔法は使えません。大体、」
「リセ」
上司は満面の笑みで布の固まりを広げる。青色のそれは女性用の衣だった。腰のあたりから裾が割れて、ふんだんにレースがこぼれ落ちている。
「これ今日の衣装ね。」
「断りますといつも言っています。」
リセ、とまったく取り合わない声をあげながら、ハーティ・ガーティは真剣な面持ちになった。真っ白に塗られてもなお、整っていると分かる顔には気迫が宿るが、道化の姿がどうしても滑稽になっていることを本人は自覚しているのだろうか。
「君のために作らせた衣装なんだ。これを着たリセが助手をしてくれなきゃ、俺は今日の試験官はしない。」
なんたる言い分だと青筋を立てそうになったリセだが、上司の後ろでエメルが懇願の表情で彼女を見つめるため押し黙った。
ハーティ・ガーティ・ 上級魔法使い——リセロの雇い主にして、この魔法国家イクストゥーラにほんの5名しかいない上級魔法使い、本来ならリセロが口をきくことすら許されない——とても優れた魔法使いであるはずの彼は変人だった。